目はパソコン画面から離さないまま、片手がテーブルの上を彷徨う。
うろうろうろうろと、なにかを感触のみで探すしぐさ――
キス・シス・キス
「はい」
「お。………ああ」
焦れたオラトリオが液晶から目を離すより先に、彷徨う手に押しつけられたものがある。結果的に顔を上げたオラトリオは、自分の手に押しこまれたものと押しこんだ相手とを、忙しなく見比べた。
押しこんだ相手は、オラクル――この部屋の主で、押しこんだものはオラトリオの煙草。それも、封を切っていない新しい箱だ。
「………さんきゅ」
「どういたしまして」
封を切りながら礼を言うオラトリオを、オラクルは見ていない。いつの間にか空になっていた煙草の箱をごみ箱に放りこみ、ストックとして置きにしているカートンの包みを、棚へと戻しに行く。
甲斐甲斐しい『女房』ぶりだ。
我ながら阿呆なことを考えていると苦笑いし、オラトリオは新しい煙草を出して咥えた。今度はきちんとテーブル上に視線をやり、すぐさまライターを見つけて拾う。
「………ん?」
火を点けようと咥え煙草の傍に持って行って、オラトリオの動きは止まった。
今度見比べるのは、手に持ったライターと、キッチンに立つオラクル。
「んっ。っしょ、と」
ストックの煙草をしまったオラクルが手に取ったのは、キャンディ・ボトルだ。とはいえ、特定のメーカのというのではない。キャンディだけが入っているわけでもない。
買ってきたり貰ったりしたキャンディやチョコレートを、透明ガラス製で広口の瓶に放りこんでいっているだけのことだ。
元々この瓶にしても、誰かからの貰い物だった。中に入っていたのはやはり、甘いお菓子だった記憶がある。
ある意味、甘いもの好きなオラクルの、『宝物箱』。
とりどりのキャンディやチョコレートで常にいっぱいの瓶は、オラクルの幸せの源でもあり、活力源でもあり、――そして『甘いもの嫌い』なオラトリオの、天敵。
蓋を開いたオラクルは当然のこととして、中からひとつ、甘いものを取り出す。
食べるのはオラクルで、オラトリオに食べろと強要するものではない。
それでも見ているオラトリオは無意識に顔をしかめ、咥えた煙草を軽く噛み潰した。
――キスするときに、弊害になる。
「ぁ」
無意識のまま進んだ思考が吐き出した言葉に、オラトリオは小さく声を上げた。
オラクルの口の中が甘かろうが苦かろうが、したければしたいときにしたいだけ、キスをする。
キャンディを食べたばかりで甘ったるいと、舌など押しこめば自分の味覚にも甘さが伝わってくると、十二分に知っていてわかりきっていても、そこの欲望を堪える気にはならない。
口を漱いで来てからと気を遣われても、いいからさせろと強引に押し切り、終わった後で頭痛に呻く。
ばかだなあと、オラクルには呆れられるが、実のところ彼も人のことを言えた義理ではない。
余程のことがない限り、煙草を吸わないオラクルだ。対してオラトリオは、ヘビースモーカに類される。
キスはニコチン味、もしくはタール味で、特に煙草を吸った直後などは苦いまずいと――
ほんのわずかばかり涙目でぎゅううっと眉根を寄せ、背筋を這い上るものをぷるぷる震えながら堪えているオラクルだ。
――わかっているから、先に歯を磨いてくるとオラトリオが言っても、聞かない。してから行けと、無茶苦茶を言いながらオラトリオを求める。
おまえはのんびりして見えて意外に短気だよなと、呆れるオラトリオだが、以下同文堂々巡り。
「ぅー………ん」
煙草を咥えたものの火は点けないまま、オラトリオは仰け反って天井を見た。視界が霞むせいで、おかしな模様がいくつも見える。
元々それほど視力が悪くないのに、たかが数メートルあるかないかの距離の天井が霞むのは、今までずっとパソコンの液晶画面とにらめっこ状態だったからだ。
「……………あと、……………五枚?」
体は仰け反らせたまま、霞む視界だけ落としてちらりと液晶を確かめ、オラトリオはへらりと情けなく、表情を崩した。
霞み目にプラスして、ドライアイでおかしなふうに涙が分泌されているようだ。姿勢のせいで見難い画面が、さらに歪んで見えない。
「うんそうだ。涙目なのはドライアイのせいで、決してこう、心が折れたとか、気力が尽きたとか、精神が崩れたとか、なんかそういったあれこれじゃなくてだな!」
煙草を咥えたままもそもそつぶやいて、オラトリオの肩はがっくり落ちた。
今日、オラトリオがオラクルのアパートに来たのは、恋人としての逢瀬のためではない。
仕事がそろそろいい加減詰まり気味で、逃避のための掃除洗濯料理といった素敵誘惑に満ちた自宅から、つまり『出勤』してきたのだ。
人生の伴侶でもあるが、仕事上のパートナーでもあるオラクルだ。逢瀬のためではなく、色気も素っ気もない仕事のために訪れても、嫌がるそぶりなく受け入れる。いやむしろ、『さっさとしろ!』と尻を蹴り上げて――
だからといって、まったく恋人としての反応がないわけではない。
仕事がひと段落したときや、なにかのきっかけで触れ合ったり、それこそキスを交わしたりもする。
「だからっつーて、なあ………」
咥えた煙草を口から抜き取れないまま、オラトリオは隙間からため息をこぼす。
ニコチンを摂取すると頭が冴える――などというのが遥か昔の幻想で、現代科学によってむしろ、鈍ることが証明されたと、知っている。理解して、事実を受け止めてもいる。
しかし仕事に詰まるとどうしても、口に咥えたくなってしまう。
煙を深々吸い込んで、吐き出す。あの瞬間の得も言われぬ幸福感と、安堵感。
立ち上がって気分を変えに行くことが出来なくても、口に咥えたものによって気分を変え、また新たに掻き集めた気力で続ける仕事。
そうやって、ようやく続いて終わる仕事。
今日はまだ、エンドマークに到達していない、仕事。
「………なあ」
オラトリオは虚ろな目で、霞む天井を眺める。
今の段階で、煙草を吸わずに我慢するという選択肢はない。そもそも今までだとて、ひと箱が空になるまで吸った。その健康被害の程度はことが終わってから悩むとして、そう、ことは終わっていない。
仕事が終わっていない以上、今ここで堪えても、無意識に探しては抜き出して火を点け、吸う。
けれど気がついてしまった、恋人との時間の弊害。
わかるのだ。オラクルがあの流れで、キャンディを含んだ理由。
オラトリオと同じだ。なにかの拍子のキスが非常に厳しく辛いものになると察して、――先に防護した。
舌を甘味料でコーティングして、味覚を誤魔化す作戦。
それでもきっと苦くてまずくてぷるぷる震えるだろうが、なにもしないよりはましだろうという、自棄と諦めを含んだ対策。
おそらく他人が訊いたなら、失笑する。呆れて、言葉もないというところだろう。
しかし当事者たる二人、オラトリオとオラクルにとっては必死で懸命な課題、いや、試練。
「だな。試練だもう、むしろ」
「オラトリオ?」
咥えた煙草に火も点けないまま、天井を眺めてぶつぶつ言っているオラトリオに、キッチンに立つオラクルが首を傾げる。
この位置で聞き取れる音量でぼやくでなし、とはいえなにかしらぶつくさ言っている気配は伝わると、そんなところだろう。
「文句を言っていても、終わらないぞ。手を動かせ。今、コーヒーも淹れてやってるから。………それとも、紅茶のほうがいいか?グレープフルーツとかレモンとか、柑橘系フレーバで、目の醒めそうなやつ」
「柑橘系は意外に、安眠効果が高いぞ。ふっつーのでいい。茶葉三倍で抽出時間長めの、舌が痺れるほど濃くしたやつ」
姿勢は変わらずに注文をつけたオラトリオに、オラクルはしばしの沈黙ののち、小さなため息をこぼした。
「体に良さそうだな………」
――非常に珍しいことだが、皮肉だ。責めるにしては、声に力がなかったが。
箱を空にしてもまだ吸う煙草に、苦みで舌が痺れるほど濃くして飲む紅茶。
確かに『体に良さそう』だ。逆々として。
「だろ!」
悪びれることもなく声を上げて笑い、オラトリオは姿勢を正した。霞んでおかしなふうに潤む瞳を、一度きつく閉じて開くことで焦点を合わせ、休眠モードに入りかけている画面をワーク状態に戻す。
軽くさっと見返して進捗具合を思い出しつつ、咥えた煙草にライターを近づけ、火を点けた。
肺の奥深く、深くふかくまで吸い込み、溜めて、吐き出す煙。
「よし」
錯覚に過ぎなくても、脳が動き出す気がする。思い込みだとしても、その思い込みを力に変えて進むのが、人間だ。
折れていたかもしれない心や諸々を立て直し、オラトリオは改めて、辿りつきたいエンドマーク、先の展開を思い起こした。道ははっきり決まっている。迷うことなく、進めばいいだけだ。
「よし」
オラトリオはもう一度気合いを入れると、くちびるから煙草を抜き出した。灰皿の上で軽く弾き、灰を落とす。
再度咥えようとして、止まった。
皮肉はこぼしても、おそらくオラトリオの要望通りの茶を淹れてくれているだろうオラクルに、ちらりと視線を投げる。
傍にある、甘いものがたっぷり詰まった、オラクルの宝箱――蓋が外されたままの、キャンディ・ボトル。
そして自分の手元にある、開けたばかりでたっぷりと本数の入った、煙草の箱。
「オラクル。後でいっしょに、歯を磨こう」
「は?なんだ?――『は』?『歯』?って、オラトリオ………」
話の筋が見えないオラクルが、驚いた顔をオラトリオに向ける。
しかしオラトリオはすでにオラクルを見ておらず、瞬く液晶に食いついていた。続きの話にエンドマークを打つべく、両手の指がキィに置かれている。
問いを呑みこんだオラクルに顔をやらないまま、オラトリオは咥え煙草で器用に、念押しの言葉を投げた。
「いっしょに歯を磨こうな。終わったら!」