「カルマくーん、おはようでーす!」
「はい、おはようです、シグナルくん」
Parsley,Sage,Rosemary,& Thyme-04-
柵越しににこやかに挨拶を交わすふたりに、オラクルは小さく笑った。ちびに手を引かれて、小走りで園の門まで行く。
「今日はあなたなんですね、オラクル。お迎えもですか?」
親戚事情に通じているカルマに確認されて、オラクルは首を振った。
「いや、送りだけだ。帰りはオラトリオが来るから」
「はい、わかりました」
保母さんよりもよほどやわらかく微笑んで、カルマはちびに手を伸ばした。
「じゃあ、シグナルくん…」
「オラクルくん、もうばいばいですか?」
「ん?うん」
繋いだ手をカルマに渡そうとしたオラクルは、穏やかに微笑んで頷く。
ちびの顔がくしゃりと歪んだ。
「ええ~っ、いやですぅうう!もう少しだけ、いっしょにあそんでくですよぅうう!」
「シグナルくん」
珍しいちびの我が儘に、カルマがわずかに目を見張る。おませっこのちびは、預けられるときに駄々をこねることがない、希少な子供なのだ。
オラクルは小さく首を傾げ、繋いだ手にぎゅうと力を込めたちびへと身を屈めて目線を合わせた。
「今度な。ちびが保育園お休みのときに」
「じゃあ今日おやすみです!」
「ここまで来ておいて」
「やーですぅう!」
ちびは叫ぶと飛び上がって、屈むオラクルの首にかじりついた。
困った顔のオラクルは、しかし怒ることもなくちびの背をあやすように叩く。
戸惑う顔のカルマに、小さく苦笑いを返した。
「今月は結構、スケジュールがタイトで。一昨日まで、締切りラッシュだったんだ」
「ああ」
合点がいった顔で、カルマが頷く。
「そういえば、昨日まで送り迎えもパルスくんでしたね。なるほど、最近、遊んでもらえてなかったんですね?」
「そうなんだ」
理由がわかれば、カルマは百戦錬磨の保父さんだ。
オラクルの背中側に回ると、必死の形相でかじりついているちびを覗きこみ、きれいな顔をくしゃりと歪めて悲しい顔を作った。
「シグナルくん、そんなに私と遊ぶのお厭ですか?カルマくんはもう、用無しなんですか?」
「ええ~っ」
「カルマくんは悲しいです。シグナルくんに嫌われてしまったなんて…」
わざとらしさもなく、くすん、と洟を啜る。なまじ元がきれいなだけに、悲愴感が普通の倍増しだ。
おませっこのちびは、あっさりと陥落した。
「そんなことないでーす!ぼくはカルマくんだいすきですよう!ないちゃ、めー、ですーっ!」
あわあわと手を振り回し、カルマの髪を引っ張る。カルマはにっこり笑うと、振り向いたオラクルから素早くちびを受け取り、胸に抱きかかえた。
「わあ、よかった。私もシグナルくん、大好きですよ。今日はなにして遊びましょうねえ」
「ボールとぉ、おすなばとぉ、」
鮮やかな手並みに、オラクルは純粋に感心して手を叩いた。
世間知らずで知れ渡っている彼の無邪気な賛辞にカルマは苦笑し、
「じゃあ、私は」
「待ってください、オラクル!」
ちびの気が逸れているうちにと、おっとりしている彼にしては素早く背を向けたオラクルの腕を、カルマががっしりと掴んだ。
「なんだ?」
忘れ物でもあったか?
きょとんとして振り返ったオラクルに、ちびを抱いたまま、カルマは言い淀んで口を無意味に開け閉めした。
「余計なことかもしれませんが…あなたも大人なのですし…」
「ん?」
オラクルは無邪気に首を傾げる。
彼の無邪気さはほとんど凶器だ、と意識して腹黒いカルマはこころの中で涙した。
「その、首に、虫刺されが」
「むしさされ?」
「悪い虫が、その、ついたというか、つけたというか」
迂遠に言ったカルマに、オラクルはわからないまま、目をぱちくりしている。
カルマとオラクルの身長差では、普通なら見えなかった、襟元。
ちびがしがみついたせいで服が乱れて、覗いた、そこにある、鬱血痕。
カルマは喘いで、なんとか伝える言葉を探した。
オラクルはコードの弟だ。生来の気質もあるが、兄の過保護な翼に守られて、ど外れて浮世離れして育った。
かてて加えて、従兄弟のオラトリオだ。「従兄弟」のカテゴリ分けが虚しいほどの世話焼きぶりで囲いこむ彼によって、オラクルの純粋培養は加速し。
迂遠に言っても通じないが、直截に言って通じなかったらどうしたらいいのだ。
というか、こんな「悪い虫」がついたと知ったら、あの双璧がどう出るか。
「?」
首を傾げるオラクルと、言葉を探して喘ぐカルマと。
微妙な緊張を破ったのは、ちびだった。
「だーいじょうぶですよぅ、カルマくん。その虫は、オラトリオおにーさんというなまえでっす♪」
「…っ?!」
「シグナルくん?!」
オラクルがはっと気がついた顔で襟元を確認し、カルマは目を見開いて腕の中のちびを見る。
「あああああっ!あいつぅううう!」
オラクルのくちびるから悲鳴が上がり、真っ赤になると、今さらながらに手で「虫刺され」を隠した。
「し、シグナルくん…」
三歳児のありえざる発言に、カルマは本気で悲痛な顔になった。
ちびはひとり、カルマの腕の中で偉そうに胸を張る。
「コードがいつもいってるですよ。オラクルくんについた虫でおいはらえないのは、オラトリオおにーさんだけだって。あれいじょう悪い虫はおらんっていってまーす」
「あ、なるほど…」
深い意味はなく、「悪い虫」発言に反応しただけだとわかり、カルマはほっと胸を撫で下ろした。
いかにちびがおませっことはいえ、あまりに心臓に悪い。
「あ、そういえば、一昨日までが締切りだって言ってましたよね。じゃあ、昨日あなたたち、もしかして打ち上げでお酒飲みました?」
「のんでましたー。ね、オラクルくん」
「ち、ちちち、ちがうっ!」
にこやかに訊かれ、オラクルは真っ赤な顔で首を横に振った。
「オラトリオじゃないっ」
「え~?」
ちびが微妙な顔をする。
三歳児の頭でもわかるくらい、オラトリオはオラクルにご執心だ。コードがいなくても、オラトリオ以外の「悪い虫」がオラクルにつけるわけがない。
カルマは苦笑すると、ちびを下ろした。
「シグナルくん、鞄を置いてきてください」
「えーっ」
「ボール遊びをしたいんですけど、ボールをどこにしまったのか忘れてしまったんですよねえ。シグナルくん、昨日のお片付け当番さんですから、知ってますよね?準備しておいてくれると、助かるんですけど」
「あーいっ!」
ちびが鞄を振り回しながら駆けていく。
見送ってから、カルマは真っ赤なオラクルに向き直った。
「今日、これからどこかに寄られますか?」
「………コードに、呼ばれてる。エモーションのロケ土産を取りに行く約束をしていて…」
「よりによってコードですか」
ため息をつくと、カルマはオラクルに待つように言い、救護室に行った。ややして、絆創膏をひとつ持って帰ってくる。
「バレバレな気はするんですが、まあ、生で目にするより衝撃はやわらぐでしょう」
「…ほんとに、オラトリオじゃないぞ…」
絆創膏を貼ってもらいながらつぶやくオラクルに、カルマは目を眇めた。
「私たちの仲で、オラトリオの酒癖を知らないとでも?私だって、直に見たことがあるんですからね」
オラクルはなにも言えない。小さく呻いて、天を仰いだ。
「…オラトリオには、言わないでくれ」
「構いませんけどね、あなたがそれで良いなら。しかし生殺しではありませんか?」
素知らぬ顔で鎌をかけたカルマに、オラクルは不可思議な感情を宿して瞳を揺らした。
「オラトリオが、ショック死したら、困る」
「……………………しそうですよねえ、ショック死…」
ショック死しないまでも、どん底景気には陥りそうだ。
なにを考えてか、あそこまでバレバレに周囲を牽制しておきながら、決して肝心の一線を踏み越えないでこの年まで来ている。一生このままで行く気かもしれないという危惧すらある。
そんなことはどう考えても不可能なのに。
「ショック死する前にお兄様に手討ちにされないよう、うまくおやりなさい」
「うん?」
きょとんと首を傾げるオラクルを見送って、カルマはため息をついた。
オラトリオの考えていることはわからない。
だが、それ以上にわからないのはオラクルだ。
無邪気と純粋の影に隠れて、彼の本音がどこにあるのかが、実はよくわからない。
どう考えてもオラトリオの対応は異常なのに、すんなりそれを受け入れて臆さないところや、それでいて進展する様子がまったくないところなど。
世間知らず、の一言で片づけていいのか、どうか。実は、あれでいて。だが、そうだとしたら――。
勘繰っても、答えは出ない。
「カルマくーん、ボールみつけたですよー!」
「はーい!」
本当の無邪気に元気いっぱい呼ばれて、カルマは頭を切り替えた。
所詮他人事。
自分には自分で、頭の痛い問題がいくらでもあるのだから。