道の向こうから、軽い足取りで駆けてくる少女は美しく、明るく弾んだ表情は見るものすべての心を和ませた。
――シグナルの心以外は。
「えぇえええええええーーーーーーすぅうううううううーーーーーーっっっ!!!」
いんもらりあ・やんがる
「あああ、えええっとぉ!!」
ぶんぶんぶんと片手を振りながら、満面の笑みで全力疾走して来た美少女は、名をエモーションと言う。
シグナルにとっては、幼馴染みのひとりにあたる。しかしそう年の変わらない彼女はなぜか、エースことシグナルの『母』を自認していた。
それも、溺愛気味の。
彼女の兄と比べると、ある意味当然の資質だ。
おそらくは幼いころの刷り込みとかなんとか、いろいろ理由はあれ――
「おひさしぶ…………ぶっ!!」
公道だが、ことシグナルに関することとなると、人目を気にするエモーションではない。
駆けてきた勢いままに飛びつかれ、シグナルは揺らぎながらもなんとか踏みとどまった。
昔はよく、潰れていた。成長するものだ。
微妙な感慨に耽るシグナルを、エモーションはきらきらの笑顔で見上げた。
「しばらく見ないうちに、大きくなりましたわねっ、A-S!!元気にしていましたか?!病気や怪我など、していなくて?!」
「ぁあ、はい、大丈夫………」
感慨に耽ることと、現実は違う。
久しぶりとはいえ、エモーションとシグナルはほんの一、二週間、会わなかっただけだ。
ご近所さんに住んでいるものの、エモーションは高校生の身ながら、モデルとしても活動している。
過保護な兄との約束で、学業成績を落とさないことが条件となっているが、そこそこ人気がある彼女は頻繁に、ロケだコレクションだと、各地を飛び回っている。
その関係で、数日会わないこともよくあるのだが、そのたびに――
成長期のシグナルだが、一、二週間で、親戚のおばさんもびっくりの変容を遂げたりはしない。
「元気でしたよ、僕は。それより、エモーションさん。この間聞いたお仕事の、雑誌に載ってましたね。読みました」
「まあ、A-S!!」
自分に関する話題のままにしておくと、際限なくどうしようもない方向に転がる。
今日は運よく、変えられる話題があった。
エモーションはたびたび雑誌に載っているが、その多くは女性向けのファッション誌だ。男性、それもシグナルくらいの年頃の少年向けの雑誌に載るような仕事ではない。
なにかの雑誌を買ったらついでに載っていた、というわけにはいかず、覚悟を決めて手に取らないと、読むことはできない。
そういう苦労をわかっているので、エモーションはかわいい『息子』の言葉に、うれしさとともに、うるるんと瞳を潤ませた。
抱きついていた体から離れて腰を屈め、殊更に上目遣いとなって、シグナルの表情を窺う。
「まさかわざわざ、買ったりなんてしていませんわよね?!高校生の限りあるおこづかいを、エルのためになんて使わせられませんわ!!エルのお仕事に興味を持ってくださるなら、言っていただければサンプルをいくらでも差し上げます!!保存用と切り抜き用と、あといくつ必要です?!!」
「あー、ええと、そのっ、ごめんなさいっっ!!」
実母はきちんと存命だ。不在期間の長さに、顔を忘れがちだが。
それでも『母』を自認するエモーションには、ひたすらに低姿勢、及び腰になってしまうシグナルは、先に謝った。
「買ってないんです!……オラトリオが、その雑誌にエッセーを連載していて。うちにもサンプルが送られて来るんですけど、エモーションさんが載ってるよって、見せてくれて」
「ああ!そういえば」
オラトリオはフリーライターをしているが、大体の仕事で、従兄弟でイラストレータのオラクルと組んでいる。
オラクルはエモーションと共に育った、彼女のきょうだいだ。
もれなく、彼女からの溺愛を頂戴している。
「そのエッセーでしたら、読みましたわ、わたくしも」
あっさり納得したエモーションに、それ以上の意図もない。
わざわざ買ってくれたわけではないのかと、がっかりしたりしないのが、エモーションだ。
彼女はシグナルを溺愛していたが、同じくらいに自分を愛したり、興味を持ったりしろと迫ることはなかった。
ただシグナルかわいさのあまり、あなたもモデルとしてやっていけますわよ!と、仕事に誘ったりすることは、あるが。
「ええと、でも、もし良ければ、エモーションさんが載ってる雑誌は、教えてくれるとうれしいです。お仕事しているエモーションさん、応援したいですから」
自分から続けたシグナルにしても、完全なおべんちゃらではない。
この勢いに呑まれがちではあるものの、シグナルもそれなりにエモーションを慕っている。母親不在、厳父と見紛う厳しい姉という女性環境で育ったシグナルにとって、確かにエモーションは『母』だった。
にっこり笑うシグナルに、エモーションも満面の笑みとなった。
「もちろん、A-S!!あなたが言うなら、雑誌もチケットもいくらでも差し上げますわ!で、雑誌は保存用と切り抜き用と」
「一冊でお願いします」
「あら」
「一冊で!」
「まあ」
――ひたすらに負け負けしていると、惨状だ。
そこのところはきっぱりと言い切ったシグナルに、エモーションはきゅるんと瞳を見張った。
ちょんと首を傾げてから、ぽんと手を打って首を戻す。
「ああ!思い出しましたわ、A-S!!わたくし今日、自分の仕事の話をしに来たわけではありませんのよ!」
「そうなんですか?」
エモーションはシグナルを見かけると、どこのどんな場面であろうとも、駆け寄ってきて構いつける。
どこのどんな場面でも、だ。そう、たとえ、仕事中であっても。
完全に愛情が暴走している。
シグナルを見かけてとりあえず構いつけたものの、本来の用事を思い出したからこれでサヨナラ、――というのは、黄金パターンだ。
今日はなんの用事の途中だったのかと首を傾げるシグナルに、エモーションは片手に持っていた紙袋を掲げた。
紙袋と言っても、取っ手のあるタイプではなく、封筒タイプのものだ。中身を反映して、薄い。
掲げたうえで、エモーションはにっこりと笑った。
「うふふっ♪エルのお仕事についてはチェックを欠かさないA-Sといえど、これは知る由もないでしょう!」
「なんですか?」
きょとりとするシグナルに、エモーションは紙袋の中から一冊の雑誌を取り出した。
筆書の古風なタイトル文字に、黒を基調とした、静かでずっしりとした表紙。
中身紹介に並ぶ文字の字体もかちこちとお固く、高校生モデルとして、ティーン向けを中心に活躍するエモーションが載っていそうな気配が、さっぱりない。
「『古武道』…………?」
ごく普通の高校生のシグナルには、ひとに読ませる気がないとしか思えないタイトルをなんとか読み解けば、さらに疑問が募る。
確かに彼女の兄は――しかし、エモーション自身はというと………。
わけがわからない顔のシグナルにエモーションは、雑誌とまったく不釣り合いな、かわいらしい付箋を貼ったページを、ばん!と開いた。
「お兄様が載ってますのよ~~~!!なんとうちの道場が、取材を受けましたの!師範として、お兄様のお写真と、ちょっとしたいんたびぅも載ってますのよ!!」
「コード?!!」
誰から教え込まれたわけでもなく、いつものシグナルは女性に対して、非常に礼儀正しい。
母だと言い張るエモーションのみならず、女性という女性に対して、礼儀正しく――はっきり言うと、引け気味に接する。気安く触れると、壊れそうな気がするのだと言う。
だが今、シグナルはくわっと瞳を見開くと、エモーションの手から雑誌を奪い取った。
大きな瞳をますます大きく見張って、ページに見入る。
「ぅふふふ~っ♪」
いつになく乱暴な所作だった『息子』にも、エモーションはご機嫌なままだ。
いや、むしろさらにご機嫌が上向いた。
「どうです、A-S!さしものあなただって、これならば、一冊だなどと言わないでしょう?!保存用と切り抜き用と、あといくつ必要です?!!」
――実兄ではあるが、芸能活動をしているわけではないコードが載っている雑誌で、エモーションがここまで強気になるのには、きちんと訳がある。
彼女が溺愛する『息子』と、彼女を溺愛する『兄』は、実のところ。
「………っ」
「さあA-S!!何冊欲しいかおっしゃい!!」
ぉーほほほほほほと、なにか違うキャラクタに憑依されて高笑うエモーションを、シグナルはきりりと見た。
「全冊回収で!!!」
***
「……………で、なんじゃい」
雑誌に掲載された写真の中では、お澄まし顔で、いかにも上品そうな青年然としていたコードだ。
そもそも、素地が悪くない。悪くない以前に、大変いい。
そのうえに、撮影中に着ていたものが、ストイック極まれる道着だった。
古武道の世界に現れた天使、――とは言わないものの、好青年ぶりを大分、持ち上げられていたことは確かだ。
しかし今、シグナルを見上げる顔はぶっすりと捻くれて、好青年の面影もない。
へそ曲がりの頑固爺と、道場に通う子供たちが影で言っているそれが、ぴったりの表情だ。
そのへそ曲がりの頑固爺は、きりきりと眉をひそめて、幼馴染みの弟分であり、ついでに言うと道場においては師範代すら勤める腕前の一番弟子を、不機嫌に見上げた。
「なにが気に入らなくて、飛び込んできて早々に、俺様を押し倒している」
縁側に座って、日課である刀の手入れをしていたコードだ。
手入れを終えて、満足いくまでうっとりと刃紋を眺め、そろそろ道場を開く準備をするか、と。
刀を鞘に仕舞って、縁側に広げていたお茶の道具をまとめようとしたところだった。
勝手知ったる他人の家、遠慮もへったくれもなく庭から飛び込んできたシグナルは、勢いままにコードへと飛びついて、縁側に押し倒した。
ぎゅっと肩を押さえて動きを封じるシグナルは、ひどく怖い顔をしている。
そんな顔をしたところでコードはへとも思わないし、力いっぱい押さえられても、跳ね除けられる自信がある。
コードはシグナルの師匠だ。
ただ、師匠ではあるが、同時に――
「あんなえっちな写真載せるなんて、赦せないっ、コード!!」
「はぁああっ?!!」
心当たりがさっぱりないことを叫ばれた。
珍しくも限界いっぱいまで瞳を見開くコードに、顔を真っ赤にしたシグナルは、ずびびっと洟を啜る。
「道着でお澄まし顔なんて、えっち過ぎるよ!!僕のコードなのに、雑誌にあんなムラムラする写真載せるなんて、全国のひとがアレ見てムラムラするなんて、ガマンできない!!」
「しぐな」
「普段のがみがみ爺を知ってても、せんせー今なんかすっげぇ色っぽかったとか、小学生ですら目覚めるのに!あんな他所行き顔なんかしたらげふっっ!!」
ぎゃあぎゃあと喚きたてるシグナルの鳩尾に膝を叩き込み、コードは崩れた体の下からよっこらせと出た。
そのうえで、傍らに置いていた刀を掴む。
すぐさま抜けるように構えたうえで、うずくまる一番弟子をきりきりと睨み下ろした。
「最初から最後まで順序良くきっちりと、貴様が来訪することになったきっかけを、一から十まで、すべて余さず話すがいい。細雪を抜くかどうかは、それから決めてやる」
「ぅうう」
容赦のない蹴りだった。
咄嗟には話すこともできず、転がった縁側で鳩尾を押さえて呻く一方のシグナルを冷たく見下ろし、コードはふっとナナメに笑う。
「話を聞いてやってからなど、俺様も丸くなったものだ」
自賛し、コードはかちりと鍔を回す。そのうえで、未だにうずくまっているシグナルへと身を乗り出した。
くわっと、牙を剥く。
「で?!誰ががみがみ爺だ、シグナル!貴様、コイビトに向かってよくもほざいたな!!相応の覚悟をして、話をしろよ!!」