演算を重ねる。慎重にくり返すシミュレーション。
我ながらこんなことをやっている場合ではないのだが。
たぶん、きっと、世間知らずの相棒がとても喜んでくれると思うから。
仕事をサボってやっているから、ちょっとは怒るかもしれないけれど、それ以上にうれしそうにするとわかるから。
想像するだけでも愉しいけれど、実際に目にしたら、もっともっと。
逸るこころを抑えて、オラトリオは演算を重ねていく。
すべては、電脳を同じくする相棒のために。
バブル・パズル
「…むう」
カウンター向こうのオラトリオを見やり、オラクルは眉間に皺を刻む。
久しぶりに来たと思ったら、来客用のソファに座りこんで、なにやら小難しい計算を始めた相棒。
ずいぶんと複雑で繊細な演算を重ねていて、ちょっとした圧迫感がある。
といっても別に、オラクルの仕事に支障が出るほど食われているわけではない。あくまで、相棒がずいぶんと頭を使っているな、という気配を感じているだけ。
別にそれはいい。
オラトリオにはオラトリオの業務があり、逐一すべてをオラクルに報告しながら進める必要などないのだ。オラクルの業務を妨害しているでなし、好きにさせておけばいい。
そう、業務であれば。
「…むぅ~」
小さな唸り声を漏らし、オラクルは目もやらずに書類を片付けながら、片手をわきわきと鳴らす。
オラトリオは、ひどく楽しそうだ。
普通、これだけの演算を食う仕事をしていたら、夜叉面のごとき仏頂面か、男前台無しの駄々っ子顔で、めんどくさいめんどくさいと不機嫌オーラを撒き散らしているはずなのに。
絶対、遊んでる!
と、確信したので、「お仕置き」したい。
だってオラクルはきちんと仕事をしているのに。なんで相棒ひとりだけ、遊んでいるのだ。それも、ただいまもそこそこに、離れていた間の報告もなしで。
ファイルの雪崩に巻き込んでやるか、ファイルの洪水に埋めてやるか、ファイルの滝に打たせてやるか…。
いろいろ、「お仕置き」の方法を考えた。
のだが、手を出しあぐねている。
なにしろ、ずいぶんと複雑な計算なのだ。
慎重なオラトリオのことだからバックアップは取っているとは思うが、万一にも取っていなくて、自分の「お仕置き」で全データがぱあになってしまったら。
全データはぱあにならなくても、一部でも欠けてしまったりしたら。
重大な分岐点に差し掛かっていたところで、データを飛ばしてしまったら。
遊んでいるそっちが悪い、で済ますには、なんだか可哀想な気がする。
それにもしかしたら、たぶんそんなことはないのだけど、万一にも遊びでなくて、仕事だったら。あり得ないことなのだけれど、ごく稀少な例で、うれしくなる仕事だってあるかもしれない。基本的に、ワーカホリックだし。
どう考えても、どうシミュレーションしても、遊んでいる可能性が永遠の99.9…パーセント。
残りの、あるかないかわからないコンマ0いくつの1に掛けるなんて、どうかしているのだけれど。
「♪」
「…う~」
楽しそうなのだもの。
こころから、うれしそうなのだもの!
常に身を食い潰すストレスと闘っている彼が、あんなふうに無邪気に楽しそうな顔をしているのを見ると、もう、なにをしていてもいいや、と言いたくなる。
私のことをほっぽらかしにして、とか、おまえのことをずっと待っていた私をなんだと思っているんだ、とか、詰りたいことはたくさんあるけれど。
仕事しろよ、とか。
言いたいけれど!
同じくらい、それ以上に、この時間を守ってやりたい。
「…の、たくらんけ…っ」
小さい声で罵倒して、「お仕置き」のためにわきわき鳴らしていた手を軽く振った。
「…」
オラトリオが、不思議そうな顔で眼前に展開しているウィンドウを見る。処理能力が上がったせいで、計算が早くなっているはずだ。
しばらくきょとんとウィンドウを眺めていたオラトリオは、ふと気がついた顔でカウンター向こうのオラクルに目を向けた。
「…」
あかんべ、をしてやる。
以前にもやって怒られたが、知ったことじゃない。オラトリオの体感覚の演算を引き受けることくらい、管理脳の自分には軽いものなのだ。
電脳空間にいるオラトリオにとってはずいぶんな負担となっているこの演算を引き受けてやれば、彼の処理能力は格段に上がる。ふたりともそれはわかっていて、けれど譲れない矜持とか。
「…」
しばし見合ったのち、オラトリオは困ったようにぽりぽりと頬を掻いて、それから笑った。
軽く片手を上げて会釈する、あの合図は確か、「悪い、恩に着る」!
「…ふ」
私は怒っているんだぞ、のポーズが、崩れた。
うれしさのあまり、笑みが堪えられない。
甘えてくれた!
こころの中で、ガッツポーズしてしまう。
オラクルを甘やかすことを至上命題としているようなオラトリオは、簡単にはオラクルに甘えてくれない。
けれどオラクルだって、オラトリオが大事だから甘やかしてやりたいのだ。甘やかされるばかりでは、なんのための相棒かと思う。
打って変わってご機嫌になり、オラクルはカウンターの上に積まれていく仕事を片付けることに専念した。
***
オラクルを喜ばせてやりたいがための演算で手間取って、結局彼の手を煩わせることになってしまった。
それは、ちょっと悔しい。
担当野の違いで、演算能力に優れるオラクルにとっては「煩わされた」というほどのものではないとわかっているのだが。
これで喜んで貰えなかったら、二重三重にへこめる巧妙な天然トラップ。
終わった演算を整形し、オラトリオは肚に力を込める。
きっと喜ぶと思うけれど。
「オラクル」
「ん」
一心不乱にファイルに向かっているオラクルに、声を掛ける。無愛想に返して、数秒。
「なに?」
手元の片を付けて、オラクルが顔を上げる。仕事を押し付けられて怒っている様子ではない。どこか楽しそうだ。
ほっとしつつ、手の中のストローを振った。
「見ててみ」
「ん?」
きょとん、とした顔が、すぐに驚きに染まった。
驚きから、感動。興奮。
からだに纏うノイズが、目が痛いほどに踊り狂い、跳ね回る。オレンジ、ピンク、黄色…。
「なに、これ?すごい、きれい!」
上がる声は、かん高く幼い。いつもは不自然なほど白い肌が、興奮にほんのり赤く染まっていた。
思っていたとおりの、思っていたよりずっとずっと目の保養のかわいらしい反応に、オラトリオは満面の笑みになる。
再度口元にストローを咥え、そっと息を吹きこんだ。
ふわふわ生まれる、大小さまざまな虹色の球体。降り注ぐ光と、空調の風によって、微妙に形を変え、色を変えしながら飛び回る――シャボン玉。
ほとんど無意識だろう、立ち上がったオラクルが、カウンターからふわりと飛び出し、宙を漂うシャボン玉に触れる。
「っわ?!」
「っはははっ」
触れた瞬間、ぱちん、と弾けて消えるシャボン玉。驚いたオラクルが目を見開き、中空で凝固する。
この弾けるときのリアルさを出すのに、それは苦労したのだ。
多少雑でも、外を知らないオラクルにとっては十分だとわかっていたけれど、それでも。
正確に、伝えたかった。
自分が、感じたものを。
「…オラクル?」
中空で凝固して動かなくなったオラクルの顔が青褪めていく。ぎょっとして声を掛けると、大きくからだを震わせた。
「オラクル」
もう一度声を掛けると、ふよふよと揺らぎながら目の前に降りてきた。可哀想なくらいに、しょんぼりと項垂れている。
「…気に入らなかったか?」
訊くと、ふるふると首を横に振り、ローブを灰色に沈めた。
「こわしちゃった」
泣き出しそうな声。実際、その瞳は色が瞬くだけで止まらずに潤んでいる。
予想外の答えにきょとんとしたオラトリオは、次の瞬間、堪えきれずに吹き出した。手の中で、薄いシャーレに入れたシャボン液が跳ねる。
「ちょ、なにがおかしいんだ?!だっておまえが、あんなにがんばって作ってたものなのに…っ」
「いや、悪い、だって、おまえ…触ったら、わかりそうなもんなのに」
「なにが?!」
半ギレ状態のオラクルに、オラトリオは必死で笑いを収める。片手で膝を叩いて、オラクルを招いた。毛を逆立てながらも素直に身を屈めたオラクルを膝の間に座らせて、からだを後ろから抱え込む。
「壊れてもいいんだよ、アレは。ほら、こうやって」
シャーレにストローの先端を浸し、膜が出来たところで持ち上げる。反対側を咥えると、そっと息を吹きこんだ。
ふわふわ、生まれるシャボン玉。
「わ…っ」
至近距離で生まれていく幻想に、オラクルの声が幼く跳ねる。
気流計算によって執務室の上方へとゆっくり昇っていくシャボン玉を見つめ、口をぽかんと開いた。
きらきら、雄弁なのは纏う色彩だ。光を弾くシャボン玉に負けない極彩色が瞬いて、目がちかちかする。
「な?こうやって、何度でも作れる。ほら、ちょっと触ってみろよ」
「ん…っ」
後ろから抱いたからだにさらに密着し、オラトリオは上向く頬にくちびるをつけた。境界を融かし、そこから自分が作り上げたシャボン玉の設計書を流す。
見てしまえばなんということはない、ただのプログラムだ。だが、「遊ぶ」ためにはある程度の知識が必要で。
「わかっただろ。壊れていいんだよ、これは」
薄紅色の頬に名残惜しくキスしながら囁く。
流されたデータを解析しているオラクルの瞳は、束の間うつつを離れた霞に染まり、それからぱっと輝いた。
「シャボン玉。知ってる。これが?初めて見た。すごい、きれいだ、オラトリオ!」
興奮を示して、オラクルの声は色彩とともに跳ねる。鮮やかな色彩に負けない艶やかな笑みが惜しげもなく披露され、オラトリオもまた会心の笑みを浮かべた。
「やってみるか?」
「いいのか?!」
まるきり子供の反応で、オラクルが腕の中で暴れる。オラトリオはオラクルを抱えたまま、シャボン液を零さないように苦労した。
「そのために作ったんだ。ほら、ちゃんと座れ」
「ん!」
膝の上に横抱きにして、オラトリオはわずかに自分を追い越したオラクルのくちびるにストローを咥えさせた。
「そっとだぞ」
「んー」
そうは言っても、普段からあまり呼吸が意識にないオラクルだ。しかも、渡したデータには呼気の強さを入れていない。
加減もわからずに吹き出された息は強すぎて、ストローに出来た膜は無残に破れてしまう。
何度か試したが、どうにもうまくできない。
「うー」
夢破れた顔になったオラクルにわずかに胸が痛みつつも、オラトリオはほくそ笑んだ。
「難しいか?」
「難しい!」
矜持がオラトリオとは違う部分に向いているオラクルは、虚勢を張ることなく素直に認める。
オラトリオはストローとシャーレを片手に纏めると、空いた片手でオラクルの後頭部を掴んだ。
「こうやるんだ」
「ん?…っんっ」
くちびるを合わせて、そっと息を吹きこむ。
ついでに、余計なものも少々。
境界を融かして、オラクルの回路に侵入する。自分だけがアクセスできるように設定した感覚を開くと、オラクルの背が大げさなほどに震えた。
「オラトリオ…っ」
切なさと甘さを増した声が、熱を伴って名前を呼ぶ。縋りついてくる手が愛おしい。
オラクルの中を掻き回してやると、苦しげに悶えながら、それでも干渉を弾かない。どこまでも受け入れられる感覚は、悪いとは思っていても癖になる。
まだ足らない、と貪欲に求めるこころを宥めながら、最後に少しだけ深くオラクルに潜って、離れる。
途端に、からだに戻ってくる重み。
「…オラトリオ…」
オラクルのくちびるから、恨めしげな声が零れた。潤む瞳がどこか寂しそうだ。
オラトリオは笑って、今度は触れるだけのキスを贈った。
「また今度な。困ったときは、頼むわ」
「…」
体感覚の演算を取り戻してみれば、それは記憶していた以上に重いような気もした。それでも、その重みも含めて、自分だ。
どこか拗ねた顔になったオラクルのくちびるに、誑かす笑顔でストローを咥えさせる。
「今度はできるだろ?」
甘える声で囁く。
応えて、ストローの先端からはふわふわとシャボン玉が生まれた。
***
「うわ」
執務室に入ってきたオラトリオの第一声が、それ。
執務室の中空に浮かんで座り、ファイルを捲っていたオラクルは、そのまま、きょとんとオラトリオを見下ろした。彼がなにに驚いたのかがわからない。
とりあえず守護者がいるときの礼儀として、ゆっくりと床面に降り立った。
「…すっげぇなあ…」
「オラトリオ?」
どこか呆れたように、オラトリオは口元を覆ってつぶやく。
入ってきて早々に呆れられるような、そんなおかしな行動を取っていた覚えはない。現実空間に住まう彼の前では滅多にやらない「空中浮遊」なんてものをやっていたのが、意外なのか。それにしても、反応がおかしい。
手を組んで不安そうにするオラクルに、オラトリオが苦笑いする。帽子を取って頭を掻き混ぜ、また帽子を被って、ちょん、とつついた。
ぱちん、と弾けるシャボン玉。
「そんなに、気に入ったかよ?」
「うん?」
オラクルはきょとんと首を傾げる。
オラクルの周りには、これでもかとシャボン玉が飛び交っていた。それも、オラクルの周囲だけ。
シャボン玉の宿命として、時間が来ると弱々しく弾けて消える。そうすると、これはまったく不自然に新しい一個が生まれて。
そんなことをくり返しながら、オラクルを包むように大小さまざまなシャボン玉が浮かんでいる。オラトリオが苦労した複雑な演算すべてをきれいに再現しながら、オラクルは大して容量を食われているふうでもない。
お気に入りの玩具を傍らに置いて、通常業務に励んでいる。
「だって、きれいだよ。かわいいし」
笑うオラクルはシャボン玉の取り巻きの中だ。浮世離れした存在感と相まって、ほんとうに幻想世界の住人と化してしまっている。
「おまえって、気に入るととことんだよな」
つぶやきながら、オラトリオはもうひとつ、ぱちん。
ぱちん、ぱちん、と続けざまに弾いていくと、オラクルがちょっと離れた。
「悪いか?」
むっとした顔だ。あともうひとつつきすれば、おそらくファイルの雪崩が降ってくる。
わかっていて、口を開こうとするオラトリオに。
「だって、おまえがくれたものだぞ」
「…」
きっぱり、衒いもなく言い切った。
少しだけフリーズして、オラトリオはまた顔を覆う。覗いた口元が、笑みに歪んでいた。
「オラトリオ」
「…敵わねえ」
くつくつと笑いながらつぶやき、オラトリオは一歩踏み出して手を伸ばした。シャボン玉の中に分け入り、大事に守られた聖所、オラクルに触れる。
引き寄せて、抱きしめた。
「きれいだ」
「うん?」
痛いほど抱きしめられて囁かれ、オラクルは首を傾げる。それでも、オラトリオが「降参」したことはわかって、会心の笑みを浮かべた。
「そうだろう。きれいだろう?」
「触るなって言われてるみたいだ」
「ばちばち触ってたくせに」
「おまえ、ほんとに<ORACLE>だ」
「…?」
会話が微妙に噛みあっていないことにさすがに気がつき、オラクルは口を噤んだ。
オラトリオの腕は強くて、からだを離すこともできないから、どんな顔をしているか確かめることもできない。
けれど、なんだかどこか悲しんでいるような感情は伝わってきて。
「違うだろう?おまえと私のふたりで<ORACLE>だ。私ひとりではだめ、おまえひとりでもだめ。ふたり揃って初めて、私たちは<ORACLE>なんだから」
宥めるように言うと、オラトリオが笑う気配が伝わった。縋りつく必死さで回されていた腕が緩む。
そっと離れたからだを追って、手を伸ばした。頬を包むと、軽く浮き上がって高さを合わせ、触れるだけのキスを贈る。
瞳を閉じておとなしくキスを受けたオラトリオは、浮き上がるオラクルを腕に抱え上げた。
頭ひとつ分高くなったオラクルを眩しそうに見上げ、笑う。
「おまえが、あんまりきれいだから。触ったら、神様に怒られるかと思った」