ひんやりと冷え切った空気、耳を切り裂くような静寂。
外界から完全に隔絶されたこの部屋に入り、六柱石を模した<ORACLE>本体を見上げるとき、オラトリオは常に、言い知れぬ安堵と寂寥を抱く。
あわいの夢
「たでーま」
つぶやきは、応えを期待するものではなく、ただ、習い性として。
――『家』に帰ったら、そう言うのよ。
昔、教えてもらっただけのこと。
ここは『家』ではないけれど――
『おかえり』
「っ」
応える声があって、オラトリオは顔を跳ね上げた。
『久しぶりだな、オラトリオ』
「オラクル…………」
六柱石の上に、夢まぼろしのごとき人影を認めて、オラトリオは瞳を細めた。
高い台座に居座す彼は、電脳空間で会うそれより、液晶越しに見るそれより、ずっとずっと儚く霞んでいる。
「たでーま」
今度はさっきよりしっかりした声で返し、オラトリオは定位置である執務机に向かう。
大柄な体格に合わせてつくられた特注の椅子にどっかり座ると、深いふかいため息がこぼれた。思わず目を閉じて、――そのまま、意識が消え失せてくれればいいのにと、痛切に願う。
『疲れたみたいだな』
「ああ…………」
守護者である自分が、弱音を吐いてはいけない。不調の欠片でも見せれば、それはとりもなおさず『守護者』の力への絶対の信頼が揺らぎ、いつ侵入者に負けるかと不安に怯えなければいけなくなる。
わかっていても、この部屋に入って、この椅子に腰かけると、突き上げる疲労は永眠へと誘われるような心地すら覚える。
「…?」
ふと目を開ける。なにが動いたわけでもない。
『………』
「………」
目の前には、実存を疑うような幽けき姿の相棒がいて、机越しにオラトリオを覗きこんでいる。
いつもいつでも凶悪なほどに素直に感情を閃かせる、身に纏った色は、静かに沈んだ暖色。
まるで宗教画の聖人のように穏やかに微笑むオラクルは、透ける手をオラトリオへと伸ばした。
「…っ」
垂れた前髪を掻き上げる仕種は、電脳空間でよく見せるもの。
疲れた、とぼやいてうつぶせると、管理人はたおやかな手を伸ばして、乱れた前髪を梳き上げてくれる。そのまま、ひんやりと冷えた掌が額を覆って、オラトリオの抱える負荷を吸い取っていく。
だが、それは電脳空間であればのこと。
この部屋は、電脳空間ではない。オラクルはCGこそ出現させられても、その触感や温度までは持ち出せない。
前髪を掻き上げられる感触もなく、額を覆った掌の、冷たくさらりとした質感を感じることもなく、ただ視界だけが存在を主張している。
「………オラクル」
『うん』
オラクルにしたところで、オラトリオに触れている感触などないはずだ。
隔てられた感覚で、幻をなぞる――それが、今の状態。
そのもどかしさを気にするふうもなく、オラクルは穏やかに微笑んでいる。実在しない手はオラトリオの額から、頬を撫で、耳たぶをつまんで、首をなぞる。
そうされても、なにも感じない。
人間の技術は、映像を立体的に見せるところまでは進んだが、それに確かな感覚を与えるに至っていない。
彼は確かにあっても、夢幻の住人。
夢うつつの狭間に居座す、あわいに消える幻想。
「っっ」
ふいに、その状態が耐え難くて、オラトリオは顔を歪めた。強張ったからだで、拳だけを折れよとばかりに握りしめる。
彼は存在する⇔存在しないのは彼。
存在する彼のためにつくられた、自分は存在しない影。
その彼が存在しないなら、存在する自分は――
『オラトリオ』
やわらかな声が、そっと耳朶を打つ。
透けて淡いオラクルの顔が近づいてきて、痛みに歪む額にキスが落とされた。
感じない。
なにも――感じることは、ない。
与えられても与えられても、受け取ることの出来ない恩寵。
『疲れたんだな――ご苦労様』
労いの言葉が、苦痛に荒れる思考に沁みこんで、オラトリオは強張ったまま、小さくちいさく呼吸をくり返す。
『おまえはよくやっている――私の、私だけの、絶対の守護者』
「ああ」
頷く。
よくやっている――それは、お互いに。
お互い様だけれど、なぜかいつも、オラクルが先に言う。
オラトリオは頷くのが精いっぱいで、おまえもな、と返してやれることは少ない。
「オラクル」
強張ったからだをどうにか起こして、椅子の上ではあっても、精いっぱいに居住いを正した。
触れあうことのない手を取り、引き寄せる。引き寄せられてくれるのは、掴めているからではなく、オラクルがオラトリオの動きに合わせてくれているだけのこと。
握り潰そうと思えば握り潰せるその手を恭しく掲げ持ち、オラトリオは俯いた。なにも無いに等しいその手の甲に、くちびるをつける。
触れる、空漠。
「…………すぐに、そっちに行くからよ」
『うん。待っている』
手を預けたまま、オラクルはいつもどおりに穏やかに笑っている。
持ってもいないのに離しがたくて、オラトリオは預けられた手を黙って見つめた。
この手に、確かに触れたい。
このからだに、このひとに、この存在に――
『早くおいで』
「っ」
笑って告げて、オラクルの顔が寄せられる。くちびるに、なんの感触もない口づけが与えられて、彼の姿は掻き消えた。
「………っ」
電脳空間に戻っただけだとわかっている。
呼べば、再び姿を現すことも。
それでも、姿が消えた瞬間の衝撃は巨体を揺らがせるほどで、オラトリオはしばらく身動きひとつ取れなかった。
「…………だーめだこりゃ…………」
小さくちいさくこぼして、笑う。
ほんとうなら、ここでやる仕事がある。
<ORACLE>へと降りる前に、片づけておかなければならない仕事があって、それでも。
もう、ほんのわずかでも、現実に留まっていることが出来ない。
狭間の世界に降りて、確かな彼を抱きしめなければ――これ以上、息を継ぐことすら、出来ない。
そうやって、息を止めても、自分がほんとうに死ぬことはなくても。
削られて、抉られて、毟り取られる自分が、少しずつ少しずつ死んでいくから。
笑いながら、オラトリオはジャックポッドにケーブルを繋ぐ。
彼を抱きしめて、キスをして。
それから、怒られよう。
やることもやらないで、おまえはほんとうに怠け者だと。
怒られて、怒りながら、きっといっしょに仕事を片づけてくれるから。
確かに触れられる彼の傍で、間の夢に溺れよう。