一年のうちで何日か、どうしてもどうしても、恋人といっしょに過ごしたい日がある。
一日中べったりと、とまでは言わないけれど、せめても一時間――ひと目、ただ一度、抱擁を交わす間くらい。
Worldwide Lovers
「そもそも現在、世界的にはいろんなイベントがあるけどよ。ほんとに、『世界的』なイベントってのぁ、ないんだよな」
『ふぅん?そうだっけ?』
知識の宝庫ではあっても、人間が雑多に設定したイベントには疎いのが、<ORACLE>――オラクルだ。
もちろん倉庫には諸所さまざまなイベントの日付や、その由来、関連する諸々の知識が収められているが、<ORACLE>がいちいちのイベントを祝うわけもなく。
呼び出されたイベントの知識を提供することだけが目的の、所蔵。
「なんでか、理由わかるか?」
『さあ?』
音も空気も遮蔽され、ビルの中でも隔離されたうえで、機密が厳重に守られるように配慮された、企業のコンピュータ・ルーム。
いるのは、オラトリオだけだ。鍵も掛けて他人の侵入も完全に弾いて、それでもオラトリオが電脳空間にダイブ・インすることはない。
そんな暇はないのだ。
パソコンのひとつから<ORACLE>自体にはアクセスしたものの、それはあくまで、処理を手伝ってもらうため。
演算能力を貸してもらうためで、遊ぶためではない。
普段はインターフェイスが応じるだけの<ORACLE>だが、管理人個人の「知り合い」のアクセスコードを検知し、そしてその管理人たるオラクルが多少の時間的余裕を持っていたりすると、本人が出て来て手伝ってくれる。
今回の場合、相手がオラトリオだ。
オラクルはすぐに出て来て、送られてくるデータの解析を手伝っていたが――画面越し。
ファクターを通した声はパソコンの性能に左右されて、やはりいつもより質が落ちる。
それでも愛しくても、問題はそこではない。
すぐそばにいないと、思い知らされる、小さな差異の積み重ね。
「宗教絡みだからだよ。昔からのイベントってのは大抵、なにかしらの宗教の決まりごとに則った祝いだからな。――宗教に寛容な国だとイベントの数は増えていくが、戒律の厳しい地域だと、異教の祀りごとは決して取り入れない。結果として、『世界的』なイベントってのは、なくなる」
『へえ……』
しゃべりながらも、オラトリオの手は高速で動き、キーボードを叩く。画面の中のオラクルもまた、書類という見た目に直したデータを、何枚も繰っている。
ふと顔を上げて、オラクルは別の画面を睨みつける守護者へと視線を投げた。
『で?バレンタインっていうのも、宗教絡みなのか?』
「一応な。バレンタイン司教ってやつの、記念日だから」
『ひとの名前なのか………』
検索を掛ければすぐにわかることだが、仕事中の無駄口だ。
そして時間が押し迫っていることも、確かなのだ。
わざわざ検索してすべてを調べることなく、オラクルはただ、オラトリオの言葉に頷く。
『司教っていうことは……ユダヤ教か、キリスト教?』
「キリスト教。恋人の守護聖人たるバレンタイン司教のお祝いの日。が、いつの間にか、企業戦略による、チョコレートの日。つっても結局、元を辿ればキリスト教だからな。それ以外の宗教地域には、受け入れないところもある」
『へえ…』
頷いて、オラクルは再び書類に目を戻した。さらりとペンが動き、別のパソコン画面上にデータが浮かぶ。
『はい、解析結果』
「ぅあ、助かるっ!……………あー………くっそ、やっぱりか……………また休みが遠のく………っ」
浮かんだ解析結果をさらりと見たオラトリオは、盛大に顔をしかめて唸る。帽子を跳ね飛ばすと、きれいに撫でつけられたダーティ・ブロンドを無残に掻き乱した。
「…………………会いてぇ、オラクル」
掻き乱して、がっくりと力を失くして机に額を預けたオラトリオのつぶやきに、画面の中でオラクルはわずかに笑う。
『会っているだろう、こうして?』
「違う…………」
『………』
オラクルが一を言う間に百の切り返しをする口達者なオラトリオだというのに、それしか反駁できなくなっている。
追いこまれ加減が知れて、オラクルは画面へと身を乗り出す。
――それでも、決して埋まることはない、距離。
『……………だっておまえどうせ、チョコレートなんて甘いもの、嫌いだろう?』
「世の中にはビターチョコというものがあってな…………カカオも99%になると、美味すぎて癖になる……」
『よくわからないが、………たぶんそれ、私の口には合わないんだろうな……』
机に懐いたままぼそぼそ言うオラトリオに、オラクルは手を伸ばす――液晶から突き出すことは出来ない、現実の限界。
オラクルはほんの少しだけ瞳を細めると、乗り出していた身を元に戻した。
再びきちんと椅子に座ると、届くことはない手を見つめる。
ゆるりと、その手がなにかを撫でるように動いた。
「……………」
『……………おまえがどこにいようと、なにをしていようと――私たちには距離も関係ないし、時間も隔たりにならない。そうだろう?』
なにかを撫でるように動くオラクルの手に合わせるように、俯いたままのオラトリオは瞳を細める。
慰撫されるねこにも似た表情。
そこにはだれもいないというのに、オラトリオもまた、頭へ手を伸ばし、なにかを掴むようなしぐさをした。
「そういうことじゃ、ねえ」
『………』
空白を撫でる手。
空漠を掴む手。
お互いに画面越しに見合って、オラクルはふっと笑った。
『だったら項垂れている間に、さっさと仕事を終わらせろ、このサボり魔。そして時間をつくって、ちゃんと私に会いに来い』
「…………………おまえは厳しいよ…」
オラクルの手はすでに書類を持っていて、オラトリオもまた、なにもないものを掴んでいた手をキーボードへと戻した。
与えられた、感触。
共有する電脳を通じて、緩やかにリンクしている感覚を最大限に繋げて――距離も時間も飛び越えてみせた。
疲れたとへばるたびに与えられたオラクルの手を、感覚上に再現して。
けれどそうすればそうするほど、不在の空漠が堪える。
撫でられたなら、その体を抱き寄せたい。
抱き寄せたなら、味わいたい。
味わったなら――
「いっそもう、<ORACLE>が世界恋人デーを制定したらいいんじゃねえか!んでもってその日は、<ORACLE>が率先して休む!したらなにがどうでも、浸透しないわけにぁいかねえだろ?!」
高速でキーボードを叩きつつ喚くオラトリオに、オラクルは見ていないとわかっていて、自分が映る画面上にカレンダーと時計を表示させた。
『制定したとして、一日という定義をどう決めるんだ?世界各地で、時間のずれがこれだけ生じる。どこの時間に合わせて、私たちが休みを取る?必ずどこかから、不公平だという声が上がるぞ』
やけっぱちの提案にひどく冷静かつ現実的に対応されて、オラトリオはちょっと涙目になった。
ぎろっとオラクルを睨むと、叫ぶ。
「じゃあ、世界恋人ウィーク!!一週間も休みにすりゃぁ、どっかで丸いちんちくらい、休みが出来るだろ?!」
『……………』
出来るかもしれないが――
世界企業の流れを考えると、宗教的戒律云々より以上に、一週間も休みにすることが不可能だ。
そんなイベントは取り入れて堪るかと、世界各地で弾かれる可能性が高い。
とはいえオラクルはそれ以上ツッコまず、大荒れで仕事を片づける恋人の補佐に徹した。