「いい季節に来たもんじゃのう」
駅まで迎えに来てくれた音井教授は、オラトリオを見るなり、瞳を細めてそう言った。
仄花慕情
「いい季節、っすか?」
これが教授でなければ、オラトリオは如才なく、話を合わせている。
日本の季節は春、今日は天気もいい。
――ええ、冬も終わって花も盛り、いい季節になりましたね。
けれど相手が音井教授――ほかならぬ、自分というプログラムを造ったひと、いわば『お父さん』なので、遠慮なく、その真意を問い直してみた。
実際のところ、稼働したばかりのオラトリオは、デフォルトでインプットされたプログラムに基づいて応答をくり返すだけでは、微妙に不安だ。
本当にそれが相手の真意に適っているのか、自分の意のままにならない勝手なプログラムの判断が、信用できない。
今のところは、その応答はおかしい、というような指摘をされたことはないが、いつ何時、<ORACLE>の新監査官はロボットであるとばれるか、気が気ではないのだ。
だから、生まれたてのロボットらしく、『知らない』ことは『知らない』と、『わからない』ことは『わからない』と言える条件下では、衒いも躊躇いもなく、そう言おうと――
つい最近、そう決めたところだ。
「そうじゃよ。丁度いいとこじゃ」
「なにがっすか?」
ひとの意を汲み取って、当意即妙に会話を繋げていくのが、オラトリオの本来だ。
こうやって、単純な問いだけを重ねることはない。
相手が、初期段階の心理調整を担当したみのるや、その夫で、鋭敏に尖り過ぎた神経を持つ正信あたりなら、すでになにかしら、アクションが入る。
――オラトリオが、なにか企んでいる。
いや、みのるは『企んでいる』とは思わないだろうが、なにかしら問題を抱えているかもしれないと、監察モードに入るはずだ。
しかし肝心の製作者である音井教授は、おかしいともなんとも素振りを見せないまま、笑ってオラトリオへと手を振った。
「桜がな、満開なんじゃ。あと数日遅ければ、もう葉桜になっていたし、早ければ、咲き初めだったろうし――いい時に来たもんじゃよ、おまえさん」
「はあ………」
オラトリオは示されるまま、駅の周辺を見た。
春のイメージはと訊かれれば、それは国によって異なる。
日本に限っていうなら、春のイメージ色はピンク――桜色。
花色にも示される薄紅の花が、大木を華やかに彩りながら、ちらほらと花びらを散らしている。
「桜は散り時が、もっとも美しいと言われておってな。こうやって、ちらちらと花びらがそぼ降るくらいが、いちばん見ごろなんじゃよ」
「散りどき………」
つぶやいて、オラトリオは桜を見つめた。
日本人は、桜が好きだと聞く。
日本人である音井教授も、もちろん好きなのだろう。いつもやわらかな空気のひとだが、今日は一段と和んでやさしい。
そこになにか、桜以上のものを見遥かすように、愛おしげに瞳を細めて眺めている。
「………」
無言で桜の木へと歩き出してから我に返り、オラトリオはわずかに音井教授を振り返った。
「すいやせん、ちょっと、見て来ても?」
「ん?おお、いいよいいよ。わしも隠居の身じゃし、ちっとも急いでおらんから」
「ありがとうございます」
軽く会釈して謝意を表し、オラトリオは桜の下へ行った。
ちらちらはらはらと花びらが舞う中を、ゆっくりと歩く。
オラトリオは日本人ではないから、桜に関しておそらく、それほど思うことはないはずだ。
きれいだ、とは思っても、そこに教授が見出していたような、なにかを見出すことは――
「………」
立ち止まり、オラトリオは花びらを散らす木を見上げた。
差し出した手に、花びらが掠って落ちて行く。
青い空に、薄紅。
さやさやと、微細な春の風にすら、散る花びら。
思うことなど、ありもしない――
「………教授が造ったせいかね」
ぽつりとつぶやき、オラトリオは瞳を細めた。
差し出した手をわずかに動かし、散る花びらを捉まえる。
手袋を外して花びらの感触を確かめ、構成を観察した。裏に表にと返し、最終的には口の中に入れる。
「……………花だな」
もちろん、花だ。
しかしその言葉にツッコミを入れるようなものもおらず、オラトリオはひたすらに、桜を見つめた。
***
「すいやせん、お待たせしました」
「おお。なにやら、ずいぶん熱心じゃったの」
いくら隠居の身とはいえ、教授は完全には引き継ぎを終えていない。未だにシンガポールと日本を行ったり来たりで、時として日本にいてすら、ネット越しに呼ばれることもある。
オラトリオにしても、メンテナンスという名目で教授のもとを訪れただけで、居られる時間は無限ではない。
すぐに取って返し、<ORACLE>監査官としての仕事に戻らなければならない身だ。
双方ともに、まったく暇ではないが、オラトリオは桜の観察にずいぶんと時間を費やした。
それでも、教授が腐したりすることはない。
ただ、わずかに不思議そうに、オラトリオを見ただけだ。
文句を言われたり問い質されれば、『本能的』に言い訳を放ち、真意を誤魔化す。
けれどそうやって受け入れられてしまうと、どちらかというと、『子供』である部分が顔を出してしまう。
「――土産にと、思いまして」
「土産?」
「ええ」
誰への土産かと首を傾げた教授には、笑うだけに止める。
――オラトリオを造ったのが、音井教授だ。その製作意図も、就く仕事も、行う業務も、こちらから説明するまでもなくわかっている。
誰へ、と明言できないことで、オラトリオが『誰へ』の土産としたかったのかも、通じた。
教授は瞳を細めて桜を眺め、ひとつ頷いてオラトリオを見上げる。
「………歓んでくれる、相手なんじゃな」
「………」
答えない。
応えない――応えられない。
オラトリオはやわらかに微笑んでいるだけで、教授にはそれで十分だった。
起動当初、性格的な相性諸々で、『二人』が多少揉めたことは知っている。
その過程でオラトリオは、起動途端に廃棄寸前まで行って、教授はそれはそれは冷や汗を掻いたものだ。
だが、それからしばらく経ち――どうやら、土産を持ち帰って不自然でない仲にまで、進展したらしい。
いや、オラトリオが、土産を持ち帰ってやりたいと思う仲にまで。
「さて。いつまでも、こうしていても仕様がないの。ちゃちゃっと済ませてしまって、今度は茶でも飲みながら、のんびり花見と行こう」
「はい」
オラトリオは素直に頷き、歩き出した教授に従って足を踏み出した。
それでも一度だけ、振り返る――
「…………」
感情を表して瞬く色の、長いながいローブ。
その下に着る、電脳の闇色――
桜の散る中に立たせれば、それはそれは、美しく映えるだろう。
荷重や重力といったものを頻繁に忘れる相手を思い、オラトリオのくちびるは笑みを刷いた。