「なあ、オラクル。――この愛は、自己憐憫とどう違う?」
唐突に放たれた、問い。
Who Loves Me?
「…………」
ベッドサイドに立ったオラクルはしばし瞳を瞬かせ、纏う色を戸惑いに揺らした。
電脳図書館<ORACLE>、その最奥にひっそりと作られた、管理者たちのためのプライヴェート・ルーム。
そこに鎮座まします特注サイズのベッドに横たわったオラトリオが浮かべるのは、ひどく透明な表情。
涙も枯れて、悲哀も尽きて、無に堕ちる――
瞬きながら立つオラクルを見つめる瞳にあるのは、ひたすら静かに沈む神鳴る色。
「…………眠れ、オラトリオ。時間になったら、起こすから」
「…………」
微笑んで、オラクルはオラトリオの瞼に手を置いた。
答えもないままにはぐらかされたような状態でも、オラトリオが抗議の声を上げることはない。
それこそ、無に堕ちたがままのごとく。
睫毛がオラクルの手のひらをくすぐって、引き結ばれていたくちびるがわずかに解けた。
あえかな感触から、続く静かな寝息――
「…………なんというか」
瞼を塞いだまま、オラクルはつぶやく。
「私の守護者は、ときどきとても、気難しいな」
こぼすくちびるは、戸惑うでもなく、笑みを浮かべるでもない。
単なる感想としての、言葉。
「電脳空間最強の守護者と冠しながら、どうにも――」
続けて、オラクルの表情はようやく、笑みを浮かべた。
日進月歩、これまでの歴史上に類例を見ないほどのスピードで進化を遂げるのが、電脳空間というもの。
そこで、一年といえども『最強』を冠していられれば、すでに英雄だ。
一年を超し、今でもそうと呼ばれ続けるなら、それはもはや、伝説。
伝説となった守護者を冠しながら、<ORACLE>もまた、伝説のごとき知の巨城と成った。
来客は引きも切らず、仇なすものも引きも切らず――
伝説の守護者の、疲弊の癒える間もないままに。
オラクルは、オラトリオがどうして伝説となるまでになったかを知っている。
臆病さゆえだ。
態度こそ強気なおにーさんを気取ってみせるが、オラトリオは実際にはひどく臆病だ。
臆病で、怖がり――
心の内に常に、気も狂わんばかりの恐怖と怯えを抱いて、日々、研鑽に励む。
慢心することも、安寧に居座ることもない。
恐怖も怯えも一向に治まることなく、オラトリオを急かし続ける。
先へ、先へ――
進まなければ、恐怖に食われる。
行かなければ、怯えに潰される。
その果てに待つのは、最上のと位置された相手――<ORACLE>⇔<オラクル>の消滅。
「…………疲れたのだろうね、きっと」
執務室に戻って仕事を片付けつつ、つぶやくオラクルの声はやわらかでやさしい。
思いやりと慈愛とが、惜しげもなくオラトリオへと向けられる。
「………外で誰かに、なにかを言われたのかもしれない」
揶揄して『引きこもり』などと言われるオラクルと違って、オラトリオは監査官として、<ORACLE>の顔として、対外交渉の多くを受け持つ。
オラクルが言われる『なにか』よりも遥かに多種多様、雑多にして酷いことを、オラトリオは耳に入れる。
「かわいそうにね」
ぽつり、こぼれる憐憫。
「かわいそうに――」
それは、うたにも似て、言祝ぎにも似て――
ややしてオラクルは仕事にひと段落をつけ、再びプライヴェート・ルームへと戻った。
約束した、相方を起こす時間だ。
寝起きの瞬間が、この世でもっとも嫌いだと言い切る相手だ。そうだとしても、オラクルが躊躇することはない。
起きねばならない。
彼は、<ORATORIO>⇔<ORACLE>の対。
=の存在なればこそ、<オラクル>が起き続ける限りは――
「オラトリオ」
オラクルはやさしく呼んで、冷たく凍えさせた手で、そっと額の髪をかき上げてやる。
「オラトリオ………」
「ん……」
動物でも撫でるように髪を梳いてやりながら、オラクルは同時に、オラトリオの顔中にキスを降らせる。
わずかでも、この世への未練を思い出すように。
未練そのものである自分に縋って、起きるように。
「…………はよさん」
「ああ」
微妙に苦い声で、しかしオラトリオの表情は笑みだ。仄かであえかでも、そのくちびるは笑みを刷いている。
「おはよう、オラトリオ。目覚めのお茶を飲む?」
「優雅だぁなあ」
微笑んで訊いたオラクルに、オラトリオも今度ははっきりと笑った。
屈めていた腰を伸ばしたオラクルを追うように、ベッドから体を起こす。
「季節的には、フルーツフレーバの紅茶なんかどうかな。グレープフルーツとか」
「ああ、いいな。香りだけでしゃっきりしそうだ」
提案に頷いたオラトリオにもう一度微笑みかけて、オラクルは踵を返す。
その体が、プライヴェート・ルームから出る間際。
「――悪ぃ、オラクル。変なこと訊いた」
「………」
ぽつんと、背中に投げられた謝罪。
小さく、聞こえるか聞こえないかの――
たぶん、なにも聞こえないふりをして、出て行ったほうがいい。
それだけで、気になどしていないと、なによりも相棒が安心するから。
ばかなことを言ったものだと、わずかな自己嫌悪に陥るだけで済むから。
なにかを言えばそれ以上に果てしなく、オラトリオは傷つく――
オラクルは振り返り、ベッドに座して見つめる守護者へ微笑んだ。
「<私>が<私>を愛さなければ、誰が、<私>を愛してくれる?」
「っっ」
案の定、オラトリオは息を呑んだ。
引き歪む表情を視界の端に収めても、オラクルはそれ以上の言葉を継ぐこともなく、プライヴェート・ルームを後にした。