巨大なデータが<ORACLE>に降って来る感覚に、オラクルは仕事の手を止めて顔を上げた。
馴染んできた、気配。
オラクルは彼を迎えるべく、すっと立ち上がった。
程なくして、執務室の床に降り立ったデータは急速に圧縮され、形を成して、造り上げられる姿。
「おかえり、オラト……………っ!!」
オラクルの迎える言葉は、中途半端に途切れた。
ささらあめ
「…………」
「…………」
ぶすくれた顔の守護者とオラクルが見合うこと、しばらく。
前回のことだ。
オラクルは所用で<ORACLE>を訪れたオラトリオと、些細なことからケンカになった。
ひどく些細なことだったのだが、生憎と二人には時間がない。
ケンカをするだけでオラトリオが現実空間に戻る時間が来てしまい、仲直りをする暇がなかった。
それから今まで、忙しさにかまけてはっきりと仲直りもしないまま――
「だからって」
呆然と、オラクルはつぶやく。
その体は、いや、頭の天辺から爪先までが、びしょ濡れだ。ぽたぽたと、ひっきりなしに雫がこぼれる。
<ORACLE>に入場したオラトリオは、自身を形成するのと同時に、プログラムを発動させた。
発動したプログラムにより、遥か高く見通せない天井から、どさっと水が降って来た、と。
避けようもない。
大量の水は、執務室全体に満遍なく降ったのだから。いや、現在進行形で、降っている。
おかげでオラクルから垂れる雫は、絶える間もない。
ケンカ別れした。
謝らなければとは思いつつも後回しになって、結局ケンカが続いたような形で。
けれど、今度会ったなら謝ろうとは思っていたのに、こんな形で続行を告げられるとは。
「…………?」
腹に蟠る思いをどう吐き出せばいいのかと視線をうろつかせたオラクルは、ふと眉を跳ね上げた。
オラクルは、びしょ濡れだ。髪からはひっきりなしに雫が垂れるし、おそらくローブも絞れる。
だが傍のカウンタに置かれていたファイルに、濡れた形跡はない。
いや、ファイルのみならず、カウンタの上、床、その他<ORACLE>のすべてに、濡れている様子はない。
濡れているのはただ、オラクル――と、オラトリオ。
「………オラトリオ」
ぶすくれた顔のままの守護者もまた、帽子からコートから、水を垂らしてびしょ濡れだ。
オラクルへの意趣返し、もしくはケンカの続行宣言なら、オラトリオまで濡れる必要はないはず。
「…………これは、なんだ?」
声音に怒りを乗せることなく、オラクルは静かに訊く。
オラトリオはというと、目元にわずかに朱を刷くと、そっぽを向いた。
「雨だ」
「…………あめ」
「見たいって言ったろうが」
静かな声音のオラクルに対し、オラトリオは声までぶすくれている。
素っ気なく、けれど答えは。
――確かにオラクルは、雨が見たいと言ったことがある。
オラトリオに、なにか外でしたいことがないかと問われて、空が見たいと。
特に考えもない。
そもそも、『外に出る』ことなど考えないのだから、『外に出てしたいこと』などを問われても、咄嗟には出てくるわけもない。
ないよと答えても良かったが、軽さを装うオラトリオの瞳が、ひどく切羽詰った色を浮かべていた。
その感情がどこから兆すものかはわからないが、『ない』と答えるのはだめなのだと思った。ひどく繊細に造られた守護者を、追い詰めてしまうのだと。
そこに理屈はない。
理屈がないから、オラクルとしても対処に困るのだが、結局はそのとき、たまたま手にしていたファイルから連想して、『空が見たい』と――
確かそのときも、オラクルの答えが頓珍漢だとかで、微妙にケンカのような感じで終わった。
それからというもの、オラトリオはたまにこうして、見たいとつぶやいた『空』を<ORACLE>に持ち込む。
「…………うん。言った。――ありがとう、オラトリオ」
「………」
濡れそぼりながら微笑んだオラクルに、オラトリオはがしがしと頭を掻いた。
気まずさを刷いて表情が引き歪み、大きなため息がこぼれる。
「オラトリオ?」
つまりこれが、オラトリオなりの謝罪かとオラクルは思ったのだ。
ケンカの続行を宣言したわけではなく、オラクルが以前に『見たい』と言ったものを見せて――経験させてやることが。
いわば、仲直りのための手土産のようなもの。
やり方が唐突で不器用だから、さらなる関係の悪化を呼んだかもしれない。
たぶん、現実空間にいるときに、あれこれと考えて、考えすぎて、頭がこんがらがって。
オラクルに比べればずいぶんと器用な彼だというのに、こんな不器用な結果。
微笑ましさを掻き立てられて笑うオラクルに、オラトリオは頭を掻く手を止めた。
ようやく視線を合わせて、真剣にオラクルを見つめる。
「――違う、オラクル」
「ん?」
「礼にはまだ早い」
「え?」
オラクルがきょとんとすると同時に、オラトリオは両手をぱんと打ち鳴らした。
その途端、降りしきる雨が止み、明るい<ORACLE>内にさらに強い光源がもたらされる。
「オラトリオ?!」
「………右手をご覧ください」
「右手?!」
慌てたオラクルは、言われるがまま自分の右手を見た。もちろん、そうではない。
「………おまえ、この期に及んでお約束をやってくれるとか、どういうサービス精神だよ」
「お約束って、………っ」
なにかしら脱力したオラトリオがぼやき、オラクルは反射できっと顔を上げる。
離れたところにいたはずのオラトリオが、ずいぶんと近くにまで来ているのに気がついて、瞬間的に見惚れた。
ぼんやりとするオラクルに構わず、オラトリオはその腰を抱くと、体の向きを変えさせる。
「右手。右方向。ご覧ください」
「みぎ…………え?なに、あれ……………っ」
「…………」
向きを変えさせられ、背後から抱かれたうえで見たのは、立ち並ぶ本棚がある一角だ。
そこに、きらきらと輝く光の橋が架かっていた。
「すごい………………きれい、……………きれい!」
「虹だ」
見惚れながら呆然とつぶやくオラクルの耳朶にくちびるを寄せ、オラトリオはそっと吹き込む。
オラクルはぱっとオラトリオを振り仰いだ。
返るのは、笑顔。
「虹だ。和平の架け橋、彼れと誰れ、汝れと我れを結ぶもの――」
「にじ…………虹。あれが…………」
美しいものへの純粋な感動で、オラクルの言葉はいつも以上に舌足らずであどけない。
腰を抱く腕に力を込めて、オラトリオはオラクルの肩に顔を埋めた。
「………この間は、悪かった。言い過ぎた、俺が」
「っ」
素直に謝られて、束の間ケンカのことを忘れていたオラクルはびくりと肩を跳ねさせる。
オラトリオは腰を抱く腕にますます力をこめて、そんなオラクルに擦りついた。
「仲直り、してくれねえか」
「してくれないかもなにも」
――おそらく、売り言葉に買い言葉で、結局はオラクルにも非があった。どこかで、どちらかが冷静になれば良かったのだ。
オラトリオが一方的に悪いとは思っていない。そもそも、次に会ったら謝ろうと――
「あ。にじ……………そうか」
「ああ」
虹について、オラトリオは言った。
和平の架け橋、彼れと誰れ、汝れと我れを結ぶものだと。
「………雨が降ったら、虹が出るもんなんだ。雨が降ってびしょ濡れになって、惨めな気持ちになっても、空を仰げば虹が………」
「…………」
肩に懐いたまま、オラトリオはぼそぼそと言う。
「ずっと後悔してた。謝ろうと。けど、液晶越しに適当に、悪かったで済ませるんじゃ、違う………」
「そんなの………」
そこまで怒るようなことではなかった、と。
しかし最近わかってきたが、どうにもオラクルの守護者はひどく律儀だ。少なくとも、オラクルに対しては。
オラクルは体から力を抜き、オラトリオに凭れかかった。
「…………うん。私も、悪かった。興奮して、言い過ぎた」
「おまえが癇癪起こすのなんか、いつものことだからどうでもいいんだ」
「なんだとっ?!」
素直に謝ったというのに、そんな混ぜっ返しをされて、オラクルは瞳を険しくするとぱっと振り返る。
きりっとオラトリオを睨んでから、ため息のように笑った。
「………やめた」
「………悪い。また、余計なこと……」
「そうだな。おまえはちょっと、口を閉じていたほうがいい。少なくとも――」
和平の架け橋である、虹が出ている間は。
語尾は、触れ合ったくちびるから、感覚を繋げて揺らして――
言葉の代わりに、オラクルを抱くオラトリオの腕にはますます力が篭もった。