Episode00-鳥啼く声す-10
渡された感覚の意味を知らない。開かれるその理由も、煽られるわけも。
同じような体格でも、遥かに頼もしいオラトリオの体に凭れかかり、オラクルは眩暈のするような感覚に翻弄される。
感覚プログラムを渡したのは、オラトリオ、オラクルがだれより信頼する守護者だ。
彼は、彼だけは、決してオラクルを傷つけない。害さない。
だから、このプログラムも悪いものではない――はず、だ。こんなに苦しくて、辛くても、悪いものではない、なにかしら意味のあるものなのだ。
そう思えばこそ、身をこころを翻弄する感覚にも耐えようとするが。
「…別に苦手ってわけじゃない」
オラクルに答えるわけでもなく小さくつぶやいたオラトリオが、手袋を外した手でオラクルの顎を撫でる。肌を走り抜ける痺れに、オラクルは小さく呻いて震えた。
乱れ飛ぶ思考を掻き集めて、感覚を閉じようとする。オラトリオにのみアクセスが赦されたその感覚は、オラトリオならすぐにも閉じられるのに、肝心のオラクルにはひどく閉じにくくなっている。
自分のからだのことだというのに、優先権がオラトリオにあるのだ。
どこかおかしい、とは思うものの、なにがどう、とはっきり言えない。
「閉じるなよ」
「…っ」
低い声が耳に吹きこまれ、同時に、閉じようとしていた感覚をまたも開かれる。くちびるが耳朶を含んで、感覚を揺さぶった。
「ゃ、あ…っ」
守護者は決して自分を傷つけない。害さない。
その前提がはっきりとあって、だから、オラクルはオラトリオに助けを求めて縋りつく。
そのオラトリオが今、まさに自分を追い込んでいるのだと、それもどこかで気がつきながら、しかしどうにも出来ない。
オラトリオだけは、疑わないのだ。なにがあっても、どんなことがあっても。
「っねが、ぃ、オラトリオ…っ」
切れ切れに懇願したオラクルに、オラトリオがさらに深く潜りこむ。芯を灯されて、オラクルの瞳に涙が滲んだ。身に纏う雑音色が、激しく明滅をくり返す。
「オラトリオ…っ」
わけがわからない。頭のどこかが、オーバーフローだと警告を発する。だが、オラトリオがなぜ自分を追い込むのだ。追い込むわけがない。だから。
「…嫌か」
くちびるを離したオラトリオが、静かに訊く。伝いこぼれる感情は、ひどく切なく苦しい。
なにが彼をそれほど苦しめるのだろう。
自分には、なにもしてやれないのだろうか。
オラトリオに関しては常に感じている無力感に苛まれ、オラクルは涙目でオラトリオを見つめる。
「いや…っ」
「…」
声は切なく掠れ、うまく音にならなかった。
思考が震えてうまく言葉が継げないオラクルは、ただひたすらに首を振る。
オラトリオが小さくため息をついた。
再び耳朶に触れたくちびるが融け、プログラムに潜りこんでくる。オラトリオのみに開かれる感覚プログラムへとアクセスすると、オラクルのからだを奔放に跳ね回るそれを静かに閉じだした。
「…いや…っ」
オラトリオを傷つけないように注意しながら、しかし、はっきり拒絶を示して、オラクルは融けたプログラムをもぎ離した。
「オラクル」
オラトリオが暁の瞳を見張る。
融けたプログラムを無理やり切られたことなどない。オラクルはいつでもおとなしく、従順に、すべてを受け容れて、受け止めていたのに。
どこか傷ついたような守護者の顔に、オラクルは手を伸ばした。
「これは、いやだ。オラトリオにさわりたくて、さわってほしくて、ヘンになる。だから、いや、だ」
「…っ」
舌ったらずに告げられた内容に、オラトリオの瞳がますます見張られる。
その彼の頬を両手でくるむと、オラクルは自分から口づけた。オラトリオの真似で、軽く境界を融かし、プログラムにオラトリオを招き入れる。
「かきまぜて」
融けたプログラムから、直接、ねだる。
「おまえで、いっぱいにして」
求める言葉は甘く、蕩けたプログラムは熱い。
だが、オラトリオが手を伸ばそうとした瞬間、オラクルは繋がりを断ち切った。
「オラクル…っ」
追ってこようとするオラトリオを、オラクルは苦しげに見つめる。
「我が儘ばっかり、言いたくなる…っ。一度だけって、言ったのに…――また、オラトリオと繋がって、からだのなか、いっぱいにしてほしくなる…っ」
世間知らずのオラクルの告白は、あまりに情熱的で直截だった。その意味もわからないまま、感覚だけを素直に言葉に置き換えるからだ。
癇性なオラクルは、わずかに怒ったように、どん、とオラトリオの胸を叩いた。
「我が儘なんか言いたくない…おまえにこれ以上きらわれたくない…うっとおしいって、面倒くさいって思われたくない…!」
言い募りながら、これこそもっとも嫌われる要因ではないかと、どこかが警鐘を鳴らした。
こんなふうに癇癪を起こして、なにもかもぶちまけてしまうつもりではなかった。だが、それもこれもすべてはこの感覚が――オラトリオが開く、意味も知らない、理由もわからないこの感覚が。
きれいな紫雷の瞳を呆然と見張っていたオラトリオが、そろそろと口元を押さえる。
小さな吐息がこぼれて、ああ、呆れたため息を吐かれた、とオラクルは悲しくなった。
オラトリオが感覚を閉じようとしたときに、素直に閉じさせておけばよかったのだ。
だけど、我慢も限界だった。
オラトリオと過ごしただけ開かれた感覚は、オラクルをどこまでも貪欲にする。意味も知らず、理由もわからず、ただ怖い感覚なのに、どうしてか癖になって。
オラトリオが触れてくれるのを、感覚を開いてくれるのを、焦がれて待つようになった。
開かれれば、翻弄されるばかりで怖いだけなのに。早く閉じてくれと、願うばかりなのに――。
オラトリオが、あんな声で、「嫌か」なんて訊くから。
あんな顔で、訊くから。
怖さを飛び越えてしまった。
呑みこまれて、わけがわからない状態に、足を踏み入れてしまった。
「おねがい、さわって…私のなかに入って、かきまぜて、」
「っオラクルっ」
どこか悲鳴じみた声を上げて、オラトリオがオラクルを抱えこんだ。強く抱きしめられる、その境界は堅固に守られて融けない。
嗚咽を漏らすオラクルの感覚を、オラトリオがやさしく揺さぶった。慰撫するようでもあるその触れ方に、オラクルは嗚咽を啼き声に変える。
空間を震わせるその声に、オラトリオはますます強くオラクルを抱きしめた。
「悪かった。ちゃんと言えばよかった…。おまえだけは、絶対に、俺を傷つけたりしないんだから…。おまえだけは、俺の絶対の味方なんだから」
自分が守護者に対して持つ信頼感と同じものを聴かされて、オラクルのこころが跳ねた。
そんなふうに思ってくれているとわかっただけでも、十分だ。
それだけで、満たされる。
そのオラクルの耳朶にくちびるを寄せ、オラトリオはわずかに境界を融かした。音ではなく、プログラムを直に震えさせる言葉が、吹きこまれる。
「好きだ、オラクル。愛してる…おまえだけを」
「…」
吹きこまれた言葉は、すぐには理解できなかった。世界随一の演算能力を誇ってはいても、情緒面の理解はいまいちなのだ。
優秀な演算能力を無駄に使う時間が流れて、オラクルは身に纏う雑音色を激しく明滅させた。色が鮮やかに踊り、目が痛い。
融かした境界を元に戻したオラトリオが、オラクルの肩に顔を埋めて、小さくため息を吐く。
「俺だけのものになってくれ、ってのが、無茶だってのはわかってる。…わかってるが、言わせてくれ。おまえを独占したい。俺だけの宝物なんだ。だれにも触らせたくない」
それは、守護者としては当然の感情かもしれなかった。オラクルの頭の片隅は冷静に判断する。
だが一方で、その声に含まれる感情は、守護者としてのそれを行き過ぎている、とも。
「私、は…」
その『言葉』を言うことは出来ない。
オラクルは、<ORACLE>の管理人であって、それ以上にも以下にもなれない。
だれかに独占されることを望むことは出来ず、だれかに独占されることを赦すことも出来ない。
それが<ORACLE>であるということ。
だが、オラクルは震える手をオラトリオの背に回した。大きなからだに、きつくしがみつく。
「『私』は、おまえのものになろう…――『私』、は、…おまえ、だけの、ものに…」
降りかかる思考統制をくぐり抜け、オラクルはこころの奥底に生まれる感情を言葉にした。
「『私』を…」
区分されたその言葉の意味はオラトリオにも通じて、からだに回された腕に力がこもった。
泣いているような声が、歓喜と悲哀を帯びてうたを紡ぐ。
「それでいい。…それでいい。『おまえ』を俺にくれ。望むのは、それだけなんだ」
強張るからだが、そっと長椅子の上に横たえられた。伸し掛かるオラトリオの望みがわかって、オラクルは硬い笑みをこぼす。
オラトリオの上から、桜が花弁を散らしている。しなやかに美しいその花びらは、尽きることもなくオラトリオとオラクルの上に降り積もり、静かに想いを燃え上がらせる。
取り散らかる思考をなんとかまとめて、オラクルは精いっぱい、からだから力を抜いた。
「来て」
掠れて潰れた声に誘われるように、境界が融けた。膨大なオラトリオのプログラムが『オラクル』の中に入って来る。膨張し、膨れ上がり、腫れあがるそれは、オラクルを苦しいほどに満たした。
「オラトリオ」
融けたくちびるでオラクルは、まだ伝えていなかった言葉を紡ぐ。
「だいすき」
響きとともに、オラトリオが極限まで膨張し、オラクルの中を痛いほどに掻き回して、激情がぶちまけられた。