猛スピードで基盤へと降り立つ。現実ならおそらく、衝突の衝撃で大穴が空いているだろう。
だがここは電脳で、ここでのオラクルは純然とプログラムだ。
衝撃もなく影身は落ちて広がり、駆け抜ける。
目指す先に、<ORACLE>へとしがみつく侵入者の、いつ見ても怖気を振るう姿。
「なんで学習しねえかなあ!!」
叫んで、オラトリオから放たれる紫雷。
Episode00-色は匂へと-05
高速で走るオラトリオからさらに速度を上げて飛び出して行ったそれが、侵入者に絡みつき、<ORACLE>から引き剥がす。そのうえで、破砕。
手口から見て常習者と思しき侵入者は、躊躇いもなく回線を叩き切って追跡路を断つ。それで被る損害がいかほどであろうと、<ORACLE>への侵入失敗のツケくらい、耳に入っているらしい。
だが、攻撃を仕掛けるより先に分析が終わっていたオラトリオは、そう甘くない。
叩き切られることは先に予測済みで、攻撃を仕掛けると同時にシフト。
幾重もの擬装を暴き、曝け出し、攻撃に気がついた所有者が対処するより先にデータバンクを検索、滅殺。
人間がどれほどハッキングの腕を磨こうと、どれほど天性の勘に優れようとも、経験を積んだオラトリオの敵とはならない。
マイクロ・セカンドの世界を操ることは不可能だからだ。
経験を積み、学習し、対策を練るオラトリオの頭には、自分がプログラムであるがゆえの弱点と強みの両方が、容赦のないほどに厳然と把握されている。
弱点は弱点として、強みを伸ばせるなら躊躇いはない。
「…帰り道が塞がれたか」
一瞬の攻防で、データバンクを破砕したものの、来た道も破砕され閉じこめられたオラトリオは、忌々しげに首を振る。
大したことではない。
すでに検証済みの案件だ。
考えてあった対処法を十ほども試したところで、帰り道へと着くことに成功する。
今日の経験もまた、次の瞬間のために裁きにかけられ、審議されて、新たな対処法へと繋がっていく。
おまえは日々、恐ろしいほどに成長しているよと、製作者である工学者たちも口々に語る。
あるいは微笑ましく、もっとゆっくりでいいのよ、と。
オラトリオの向学心はほとんど狂気に近く、見ている人間側が不安になるのだろう。
オラトリオとしては、知ったこっちゃない、という話だ。
日進月歩の電脳世界、狂うほどに研鑽を積まなければ『電脳最強』の冠はすぐに奪われる。
急いで<ORACLE>へと戻れば、いつ見ても堂々たる図書館は、そこに威容を誇って建っていた。
「…」
オラトリオのこれまでの経験から言うと、オラクルがシステムダウンを起こす可能性は90パーセントを超えていた事例だった。
今回持ったのは、奇跡的な出来事だ。
もしかすると、師匠か、さもなければ母親のように頼りにしている電脳ガールがいっしょにいたのかもしれない。
だれか傍にいて慰めてくれれば、ひとりでいるよりずっと、長い時間持つだろう。
なにより、自身のシステムダウンに巻き込めないと、いつもより気を張るだろうし。
頭を掻きながら、オラトリオは図書館へと足を踏み入れる。
慣れた道を歩き、――すぐさま執務室へとシフトしないのは、やはり、いるであろう師匠やお嬢さんへ、思うところがあるからだ。
だが、いずれ辿りついてしまう、その扉を開く。
「やっは、オラトリオさんですよー」
明るい声で入ったオラトリオは、迎える人物がひとりもいないことに、暁色の瞳を見張った。
立ち尽くし、空っぽのカウンターを眺める。それから、座るひとのいない来客用ソファを。
「…オラクル?」
軽く検索を掛ける。
ヒット→適合率98パーセント。
「…オラクル」
半信半疑の声を上げながら、カウンターの中を覗きこむ。奥に潜む影。
『オラクル』はカウンターの中に潜めるほどの大きさではないから。
「隠れ鬼は終わりだ。出て来い」
笑いながら、カウンターの奥へと手を伸ばす。しばしの間があって、小さな手が重ねられた。
すかさず掴んで引っ張り出すと、腕の上に抱き上げる。
「…」
無言で見上げてくるそれは、幼児化管理人だ。
どうやらシステムダウンしないままに、幼児化だけ起こしたらしい。耐えたことは耐えたが、やはりトラウマは克服しきれていない。
それでも、耐えてくれた。
わずかに、自分への信頼度が上がった証拠のような気がして、オラトリオは上機嫌でオラクルを抱え、来客用ソファへと向かった。
「…なんか抱っこ、上手になってないか」
遠慮がちに抱っこされているオラクルが、どこか不満そうに訊ねる。その小さなからだを抱きしめて、オラトリオは笑った。
「そりゃ、あれから育児書を読んで猛勉強したからな。外で空いた時間に、『初めてのパパ向け育児教室』にも通ったし」
「…っ」
オラトリオが明るく語る内容に、オラクルが絶句する。逆はあっても、これは滅多にないパターンだ。
さらに機嫌を上向きにしたオラトリオは、ソファへ座ると、広い膝の上にオラクルを置いた。
「なにやってるんだ、おまえ…」
ようやく呆れたようにつぶやいたオラクルの、小さくなっても色は変わらない頭を撫でる。
ぱたぱたと忙しなく入れ替わる色は、躊躇い、遠慮、それから――小さな、期待。
「おまえの守護者はな、オラクル」
さらさらの手触りの髪を弄びながら、オラトリオはゆっくりと、穏やかにつぶやいた。
「侵入者を退治るだけの存在じゃねえんだ。呼ばれたときにだけ来て、侵入者を灼いて、それで仕事終わりって考えたりしねえんだよ」
「…」
オラクルの纏う色が、忙しなく入れ替わる。感情を隠すことを知らない顔は、ごく素直に不可解だと語っている。
オラトリオは穏やかに、どこまでも静かに、オラクルの髪を梳いた。
「おまえが持ってるもんを、半分背負うくらいのことはできる。なにより、おまえが俺をもう、背負ってくれてんだ。どうして俺には背負えないことがある?」
「そんなの」
きょとりとして、オラクルが口を開く。
「私は、全然、背負ってなんか」
オラクルの持つやさしさは天性のものだ。製作者たちが意図した以上に、彼は自然にひとのために動く。躊躇いもなく、衒いもなく、意識もなく。
オラクルのつむじにキスを落として、オラトリオは笑った。
「俺とおまえと、ふたりで<ORACLE>だろう。ならば俺たちは、互いを半分ずつ持っているようなものだ。互いを半分ずつ持って、互いを支え合い、高め合う。それが<ORACLE>システムであり、つまり俺たちだろう」
「…」
オラクルは理解不能といった顔をしている。
言っていることはわかるのだが、言いたいことがわからないのだろう。
首を捻っているオラクルの小さな手を取り、オラトリオはやわらかなそれを軽く握った。
「守護者として、改めて言う。どうかおまえを、俺に預けてくれ」
「…そんなの」
オラクルの色が瞬く。
「とっくに、預けてる」
言うオラクルのからだは、相変わらず遠慮がちにオラトリオの上にある。どこか緊張気味に強張るそれは、決して預けていると言える状況ではない。
オラトリオは笑うと、くるりと半転してソファに寝転がった。落ちかけた帽子を軽く受け止めると、指先で回す。
衝撃でいっしょに寝転ぶ羽目になったオラクルが起き上がる前に、それを小さな頭に被せた。
「いっしょに成長しようぜ、オラクル。手を繋いで、隣を歩こう」
「?」
普段なら大したことではないが、今は幼児のオラクルに、オラトリオの帽子は大きい。
すっぽりと頭を覆われた状態で、かわいらしく小首を傾げる。
知らず微笑み、オラトリオは天井を見上げた。
燦々と光降り注ぐ、永遠の箱庭。
「俺もまだ、ちゃんとはわからねえんだ。だから、今は」
「…ん」
こっくりと頷いたオラクルが、こてん、と頭を寝かせる。オラトリオのコートを小さな手が掴み、ねこのように擦り寄った。
「おねむか?」
訊いたオラトリオに、胸に顔を埋めたオラクルは、小さく頷いた。
「ん……ねんねだ」
どこから引っ張り出してきた語彙だ。
呆れるオラトリオに構わず、オラクルは寝入ってしまう。
急速に成長を遂げる背を撫で、オラトリオは笑った。
わからない。
わからないけれど、それも良しとして、とにかく始めることにした。
考えるまでもないが、自分はまだ生まれたばかりで、わからないことのほうが多いのが普通なのだ。
だからといって、いつまでも足踏みしていては先へ進めない。
なんでもいい。
一歩を踏み出すことからだ。
その一歩が、道を間違えていても。
恐れているばかりでは、なにも変わらない。
先へ進むこと。
人間が恐れるほどの成長が、オラトリオだから。
「…共に歩もう。未知なる道も、おまえとなら」
ささやく言葉が、まるでプロポーズのようだと思い至るまで、あと少し。