一瞬走った、動揺。
すぐさまそれは消えて、あとはいつもどおり。
アラートが鳴り響くわけではない。声も枯れよと轟く悲鳴もない。
リンクを通じて流れてくる感情は、いつもどおり。
静かで、穏やか。
不安を感じる要素など、なにもない。
はず。
Episode00-色は匂へと-07
「………」
息せき切って基盤に降り立ち、オラトリオは門の前で止まった。
目の前には、いつもどおり。
まったく平素と変わらない<ORACLE>――電脳図書館が、そびえ立っている。
荒れる呼吸を宥め、オラトリオは瞳を閉じる。
いつもと変わりない、<ORACLE>。
アラートが鳴り響くわけでもなく、相棒が上げる悲痛な絶叫が轟くわけでもない。
少なくとも、異変らしい異変などなにも起こっていない以上、オラトリオが息せき切って中に飛びこんだら、いたずらに相棒を驚かせるだけだ。
異変ではない。
――と、思う。
感じたのは、ほんの一瞬の動揺。
オラトリオにまで波及するような、驚きの感情。
ただ、一瞬だけ。
はっとしたときにはもう、いつもどおりの穏やかな感情が胸を占めていた。
<ORACLE>を共有するオラトリオとオラクルは、常に相手の状態を感じている。思考の詳細まではわからなくても、現在、元気にしているかどうかくらいは、世界のどこに離れていてもわかる。
それでも、オラトリオがこれまでに感じたことのあるオラクルの感情といえば、侵入者があるときの耐えようない恐怖と怒り。
侵入者がなければ、なにも感じないほどに平坦で穏やかなのが、オラクルの感情だ。
胸を刺すような動揺を感じたのは、これが初めてだった。
だからというわけでもないが、いても立ってもいられなかった。
適当な口実で仕事を抜け出し、ボディの安全を確保したうえで、電脳空間へとダイブイン。
無事な顔を見られればいいのだ。
いつものように笑う、その顔を見られれば。
そうしたら、また適当な口実をつけて、現実空間に戻る。
けれど、確認するまでは帰れない。
胸騒ぎが治まらなくて、どうしてか不安で不安で押し潰されそうで。
「……くそ」
クラッシャーではあっても、上品揃いで知られる音井ブランドらしからぬ罵り言葉を吐いて、オラトリオは一度、天を仰いだ。
どこまでも暗く、静謐に覆われる電脳の天。
そこはもしかすると天ではなく、地の底かもしれない――なにひとつとして、定かなことはない、世界。
ここが、オラトリオの相棒が住む、オラトリオの半故郷。
「っ」
気を入れ直して平静な顔をつくると、オラトリオは門を潜った。もうひとりの主の帰還に、扉は自然と開かれる。
普通に迎え入れられる。
だから、大丈夫。
ひとつひとつの状況を細かに突き合わせて、いちいち確認する自分が、いい加減情けない。
それでも、相棒の笑顔を見るまでは――
「よぉ、オラクル」
いつもどおり、と言い聞かせ、執務室へと足を踏み入れる。
「…」
迎えたのは、静寂。
思わず戸口に固まって見回したそこには、だれの姿もない。常なら主が座しているカウンタの中も空なら、くつろぐときに腰かけている来客用のソファも空。
ぎこちなく見回して、カウンタの前に置かれたカートに目が行った。
大量のファイルを腕に抱えて、何度も何度も行ったり来たりするオラクルを見かねて、オラトリオが贈ったカートだ。
現実空間で図書館に行ったときに、司書たちが実際に使用しているのを見て、それをそのまま持ちこんだ。
――すごいな。確かに、効率がいい。
無邪気に感心して、オラクルは笑った。
――ありがとう、オラトリオ。
大したことじゃねえよ、と返した。
照れくさくて、ぶっきらぼうになった。それでも相棒はめげることなく、うれしそうに笑っていた。
――だって、これは『私』のためにしてくれたことだ。すごく、うれしい。
ああも衒いもなく、自分を曝け出せるオラクルは、強いと思う。
傷つけられても傷つけられても、オラトリオへと手を伸ばし続けてくれる、そのやさしさが――
「……っ」
カートにファイルを積んでいたということは、これから保管庫へ行くつもりだったということだ。いや、もしかしたら、カートに積めない分を、先に返しに行っているのかもしれない。
ならば、少し待てば戻ってくるだろう。
少し、待てば。
――その、少しが待てずに、オラトリオは<ORACLE>全体にサーチを掛けた。
探すのは、管理人。
どれだけ<ORACLE>が広大で膨大な情報量を扱っているとはいえ、さすがに管理人を探すとなれば。
「――適合率、98%?」
サーチヒット、と言って、表出された数字に、オラトリオは瞳を見張った。
<ORACLE>の管理人を探せと命じて、見つけたと言って出してきた数字が、「適合率98%」。
常なら、なにかのバグかと思う。
いや、確かにこれはバグなのだろう。
なのだろうが。
「………俺はなんにも感じなかったぞ?!」
くちびるからこぼれた声は、知らず、悲鳴のようになっていた。
戦慄に動けない時間を過ごして、それからオラトリオは足を踏み出した。空間を捻じ曲げ、接合し直し、道を拓く。
オラクルがいると示された、機密エリアに。
適合率98%の、オラクルがいるという、その場所へ。
***
「………オラクル」
出た声は固い。
びくりと顔を上げた彼は――オラトリオの姿を認めて、大きな瞳をさらに大きく見開いた。
「あ…」
驚きに固まってから、慌てて飛び退る。オラトリオから距離を開けると、空間を捻じ曲げて移動しようとした。
「待て!」
叫んで、オラトリオは手を伸ばす。ネズミ獲りは得意なのだ。
逃げるものを追いかけるスキルも、捕まえるスキルも、おそらく、情報処理能力の高さに関わらず、彼よりずっとずっと優れている。
空間を移動される前に首根っこを掴んで、オラトリオは目の高さにまでそれをつまみ上げた。
「それ」――つまり、幼児化管理人を。
「オラクル………」
つまみ上げたはいいが、それ以上、言葉が続かない。
オラクルは幼い顔をひどく情けなくしているが、おそらく自分の顔だって似たりよったりだ。
オラクルが幼児化するのは、侵入者に怯えたとき。
そのトラウマが暴走しての、一種のバグであり、必要に生み出された自己修復機能だ。
「俺は……」
「私だってわけがわからないんだ!」
オラトリオが言うのを遮って、オラクルが叫んだ。声はかん高く、ひどく甘い。浮かべる表情は、どこまでも戸惑い。
「仕事をしていたら、なんでか急にこんなになってしまって!なにがあったわけじゃないんだ、いつもどおりに仕事をしていただけなのに――なんで、こんな!」
「オラクル」
混乱して叫ぶオラクルに、オラトリオは逆に冷静さを取り戻した。
首根っこをつまんで吊り下げていたのを、腕の中に抱えこみ直す。
「落ち着け、オラクル」
「落ち着いていられるか!」
腕の中でじたばたともがくのに、苦労しながらもあやすように背を叩く。
「こんな、こんな情けない姿――こんな!」
「…オラクル」
情けなくなどない。
必要に迫られて生まれた智慧であり、否定されるようなことはなにもない。
それでも、オラクルにとっては納得がいかないのだろう。往々にして、こころの傷とはそういうものだ。
「………侵入者があったわけじゃねえんだな」
確認したオラトリオに、オラクルはくちびるを噛みしめて頷く。
興奮に、幼い顔が真っ赤に染まっていた。
「…そうか」
安堵と同時に違和感が掠めて、オラトリオは納得した返事を返しながらも、首を傾げた。
違和感の正体は掴めない。
そもそも、なにを見て違和感を持ったのかもわからない。
「――なら、いい」
「いいわけあるか!」
叫ぶオラクルを、オラトリオはきつく抱きしめた。身を固くして抱きしめられるオラクルに、ため息のように囁く。
「いいだろう。侵入者がないに越したことはねえんだから」
「……そう、だけど」
正論は正論でも、現状にはそぐわない。
言い淀むオラクルに、オラトリオは笑みを浮かべた。
「とりあえず、戻るか」
つぶやいて、空間を捻じ曲げる。機密エリアから、執務室へと。
悠然と歩いてソファへ向かうオラトリオの腕の中で、オラクルは黙りこんで下を向いていた。
オラトリオがソファに座って、小さなからだを膝の上に乗せても、下を向いていた。
「オラクル」
「…」
やわらかく声を掛けたオラトリオに、オラクルは顔を上げる。興奮して真っ赤だ。今にも爆発しそうなのを、くちびるを噛んで堪えている。
「……オラクル」
想定外の事態に弱いのは、オラクルのほうだ。
未だにプログラムの多くは、想定外の事態に弱い。それは世界一を謳われる情報処理能力を持つオラクルであっても、変わらない特性だ。
むしろ、想定外の事態のほうが想定内であるオラトリオのようなものが、珍しいのだ。
オラトリオが教えられ、そして実戦の中で身に着けた経験則は、「事態は常に想定を超える」という、人間であってすらうれしくない事象。
今日の常識は、明日にはロートルになっている。
ロートルになる条件とは?
想定を超える、「進化」が起こるゆえだ。
目まぐるしい世界にあって、最強の冠を被り続けるためには、気が狂うほどに学習せねばならず、想定外の事態だなんだと、いちいち立ち止まっていることも出来なかった。
想定外の事態はすぐにも内に取りこみ、分析にかけ、次の想定に組みこむ。
それが当たりまえになり過ぎて、オラトリオはオラクルがこうなっても、あまり慌てていなかった。
だが、オラクルにとっては重大な問題だろう。
ファイルを山積みにしたカートを放り出していたこともある。このままでは仕事にならないかもしれない。
「ちょっと落ち着けよ。冷静になんなきゃいい考えも浮かばねえって、よく言うだろ?」
「……」
あやすように背を撫でながら言ったオラトリオに、オラクルはくちびるを噛んだまま顔をしかめる。
「深呼吸とか――あとは」
いっそ大泣きして、吐き出すもの吐き出して。
言いかけて、オラトリオは胸を掠めた違和感の正体に気がついた。
オラクルは今、幼児の姿だ。
幼児といえば、なにかあればすぐにも大声を上げて泣くのが、相場と決まっている。ちょっとでも機嫌を損ねれば、耳をつんざく大声で泣き喚くことが、常態の生き物。
なのに、オラクルは泣いていない。
泣く寸前のような、情けない顔は見せた。
けれど、涙がこぼれることはついぞなかった。
それはまあ、見た形はこんなでも、本人が再三再四主張しているように、中身は『おとな』だから、そう簡単に泣かないかもしれないが――
「…っ」
そんなはずはないと、浮かんだ仮定を否定する根拠を求めて、オラトリオは高速で記憶を漁った。
出会って、ともに歩んで。
上手く行ったこと、行かなかったこと。
それほど長い時間を共にしたわけではないが、いろいろあった。感情を揺さぶられるようなことが、いろいろと。
――その、記憶の中で。
「――オラクル」
オラトリオの口からこぼれた声は、果てしなくやさしかった。
いやな予感に震えて、感情を抑えこもうとするあまりに、蕩けるように甘い声になっていた。
見つめるオラクルに、オラトリオは微笑んだ。
「――おまえ、泣いてみ?」