「もはやこの関係も終わりだ」

「………こー、ど………」

細雪を仕舞い、静かに告げたコードに向けられていたシグナルの瞳が、大きく見張られる。

名前をつぶやく以上に言葉を継げないまま、無邪気な信頼を宿したプリズム・パープルが、突きつけられた現実に揺らいだ。

超越オメガ

子供っぽい表情だと、コードは思う。

ロボットゆえの加齢されない見た形まま、幾年経っても子供まま――

「………ふん」

コードは鼻を鳴らして、立ち尽くすシグナルの背後を飾る、電脳の庭の花を眺めた。

一応の季節は取り入れているが、すべてではない。どこかしらに、多少の狂いがある。

電脳における自宅の庭はコードとエモーション二人がかりで管理しているが、主に担うエモーションは電脳しか知らない。狭い世界で無聊をかこつ妹のちぐはぐな造園に注文をつけるコードでもなく、なにより彼女は美しいものが好きだ。

現実空間の季節を無視していようとも、花で溢れる庭は美しい。

そしてその中心に立ち尽くすシグナルの、凛とした姿――

瞳を細め、コードは相対して立つシグナルに視線を戻した。

子供だ未熟なと口うるさく干渉し、パートナーという立場以上にこれまで、サポートしてきた。

けれどもはや、シグナルは子供ではない。

『大人』からのサポートを必要とし、コードが導いてやらねば力も安定しないような、幼い時期は終わった。

――いや、とっくに終わっていたのだ、本当は。

続けてしまったのは、コードの弱さで甘えだ。

終わらせたくなかった。このまま、ずっと。

無理な願いで、不可能だとわかっていても、望んだ。

このままずっと、ずっと――シグナルに、繋がれていたいと。シグナルと、繋がれていたいと。

「貴様のサポートプログラムとしての、俺様の役割は終いだ。博士たちも了承した。もはや現今の貴様に、『サポート』は不要と」

「コード」

史上初にして、史上唯一の特殊金属使用ロボット――

その他の通常のロボットや、システム<ORACLE>とは違う。シグナルの『成長』は、一度つけたサポートを二度と解消できない彼らとは、まったく異なるものだった。

たとえば、バンドル。

結局、一度も正気で見えなかったコードの初めの相手だったなら、一度サポートについたら二度と離れることはなかっただろう。

コードが壊れるかバンドルが壊れるか、コードとバンドル、双方が壊れるかしない限り、『パートナー』という関係は永続的に――

シグナルは違う。

彼はパートナーが補っていた部分をも自分の能力に取り込み、成長を遂げる。それこそまさに、人間のように。

いつしか子供が成長して教師や師匠を追い抜き、一人立つように――

シグナルはコードの『能力』を超えた。

コードがサポートできる範囲を。

これ以上コードが『サポート』につくことは、かえってシグナルの成長を阻む。

どんなに慕っても、愛しもうとも、――慕って愛おしめばこそ。

思い切らなければいけない、離れなければいけない関係が、ある。

「これからは貴様の好きなようにやれ、シグナル。貴様が考えたまま、思うまま、感じるまま――囚われることなく、進め」

「……………」

手向けの言葉に、シグナルは答えない。

大きな瞳は見開かれたまま、さらに子供っぽい。

卑怯な相手だと、コードは笑う。

そうやっていつまでも子供だ子供だと油断させておいて、ふとした瞬間にひどく大人びた、男臭い表情を見せて、こちらの度肝を抜く。

サポートしているのはこちらなのに、気がつけば手を引かれて――

束の間でも、傍にいられたことは僥倖だった。

これから先、あと幾年自分に時間が残っているかはわからなくても、この記憶は光となる。

記憶は過去でも、光は進むべき道を射して先へ先へと、コードを導くだろう。

「………コードは、これから、………」

ようやく開いたシグナルのくちびるから漏れたのは、緊張に掠れてひび割れた声だった。

見た形が幼くても、シグナルも生まれてからほどほどの年数を経た。生きてきた中で、『役目を終えた』ロボットの行く先をいくつも見た。

幸福なものもあれば、幸福とは言い難いものもあった。

いや、幸福なもののほうが、圧倒的に少ない。

懸念も不安もわかるが、コードは軽く笑い飛ばした。

「さてな。検討中だ。またしばらくは無聊をかこつ――と思いたいがどうも、カルマが動いている。いい加減俺様もロートルなはずだが、どうしてなかなか、隠居爺とはさせてもらえんな」

「カルマ、が………」

つぶやくシグナルの表情に、明るさが戻った。

カルマはA-ナンバーズ統括だ。逸脱しがちな彼らの行動を規制する立場でもあるが、権利の擁護もまた、重要な仕事だった。

シグナルよりもよほど、ロボット草創期の悲劇を知るカルマは、A-ナンバーズを守ることに役職以上の手を尽くす。

時としてその精神負荷が危ぶまれるほどだが、手を尽くさずに無念を抱えた場合と比較すれば、ほどほどにしておけとは言えない。

むしろそれならば、カルマの案に加担してやったほうがいい。

「じゃあ、もう、僕とコードは、本当に……」

「ああ。パートナーは今このときを持って、解消だ。俺様は今後、貴様のサポートをしない。これからは、自分の尻は自分で拭え、ひよっこ」

癖で腐して、コードの笑みは苦さを含んだ。

シグナルが『ひよっこ』ではなくなったから、コードが離れるのだ。

蜜月は終わり、関係は切れ、別れのときがきた。

悔しいし、悲しい。

傍にいたかった。ずっとずっと繋がれていたかった。

負担になるとわかっていても、誰よりもいちばん、傍に――

「………っ」

瞬間的にくちびるを噛んでから、コードは不敵な笑みを取り戻した。

バンドルとは違う。

その他のロボットとも、違う。

この別れは、歓びを伴う別れだ。

捨てられ、廃棄され、削除され――そういった、これまでに経験した幾多数多の別れとは、違う。

誰かが成長し、先へと進み、それゆえに道が分かたれる。

生まれたときには望むべくもなかった、新しい別れだ。

互いに前へと進み、一時的に交わった道は離れて、けれど永遠に会えないわけではない。

活躍を耳にする機会もあろうし、ドジを踏んでと腐すこともあるだろう。遠くで心配することもあれば、たまには会って、近況を交換することも――

「終わりなんだ」

「ああ。終わりだ」

常に力強く前を見据えて進むプリズム・パープルの瞳が、明るく輝く。

解放の歓びに染まるそれを見て痛む胸は錯覚だと誤魔化し、コードも頷いた。

終わりだ。

もう、今後は――

「じゃあこれからは、僕とコードは普通の恋人同士なんだね!!」

「ぁあっ?!」

きらきらんと飛ぶ星が見える勢いで快哉を叫んだシグナルに、コードは思い切りガラの悪い声を上げた。

このひよっこを卒業したひよっこは、いったい今、なにを――いや、どうしてこうまで輝いて。

驚嘆の声から先に言葉を継げないコードに構わず、シグナルはきらきらと光を放つ。

現実空間ではない。電脳空間だ。作用したプログラムは実際にシグナルの姿を煌めかせ、ある意味でもって無駄に神々しい。

いやなにか、こいつならきっと現実空間でもびかびか光りそうな気がするがと、コードは微妙に逃避して考えた。

眩しいほどに輝くシグナルは、纏う光に負けることのない、明るい笑みをコードに向ける。

手が伸びて、腰を引け気味にしていたコードを抱き込んだ。くるりと体が返されて無理なく運ばれ、縁側にすとんと腰が落ちる。

まるでダンスの上手のようだ。軽やかな動きだが、こちらの有無を言わせない強引さを含み、抵抗を思いつく余地もない素早さだった。

子供だ子供だと思っていると、こうやって不意を突かれるのがシグナルだ。

意外に生臭い『男』の顔を見せられて、やわらかく強いられる行為にコードの胸は騒ぎ、いつものように跳ね飛ばすことができなくなるというのに。

「普通の――ううん、対等の、恋人同士だ。やっと、やっと、コードとちゃんと、恋人なんだ」

「しぐ………待て、どういう………」

きらきらぴかぴかの光と、思いもよらずに伸し掛かられた圧によって、コードの思考はうまくまとまらない。

切れ味鈍い不明瞭な問いになったコードに、シグナルはこつんと額を合わせてきた。

にっこり笑う顔が、幼い。

幼いのに、堪え切れない欲を含んで甘く蕩け、抱く腕の力が強い。

溶かされる。

コードの背筋が、記憶に震えた。

プログラムにシグナルが潜りこみ、煽られ追い込まれるあの感覚。

――パートナーを解消した以上、もはや経験することもないはずの、シグナルに繋がれる快楽。

「だってこれまでの僕たちって、師匠で弟子で、サポートする相手でされる相手で、それに加えてついでに恋人っていう感じでさ。なんだか、『恋人』っていうのはオマケみたいだったじゃないか」

微妙にくちびるを尖らせているような、不満げな声でシグナルは吐き出す。

しかしすぐに、声は明るさを取り戻して弾んだ。

「でもパートナーを解消したら、そういう余計な部分はなくなって、『恋人』だけが残るだろこれまでは師匠だからとか、サポートしてもらってるしとかで、遠慮してたけど………これから僕は、コードのことうんと甘やかしてもいいし、いっぱいかわいがってもいい。そうだろだって、ただの恋人なんだもん」

明るく笑う声が、とろりと蕩けて甘く沁みこむ。

パートナーを解消した以上、もはやコードのプログラムを自由にすることは、シグナルには――

「………ぁ」

近過ぎて眩しさに目が潰れそうな相手を懸命に見つめるコードのくちびるから、堪え切れない吐息がこぼれた。

溶かされている。

シグナルが、中にいる――コードの、『中』に。

もう二度と得られないと思っていた快楽を伴って、シグナルに繋がれている。

「やっと、コードのこと全部、僕のものにできる………」

「っふ、っ………っ」

額を合わせて、眩しい相手を見つめていたはずだ。

だが気がつけば視界は白く染まり、光に侵されてなにも見えない。

見えないが、光こそが相手――シグナルだ。

コードがサポートし、導き、手塩にかけて育てた愛弟子。

今、手を離すと、道を分かたれると宣言したばかりの、パートナー。

コードが愛して、誰よりもコードを愛した――

「っの、ひよっこっ!!」

「っわっ!」

繋がれる感覚を強引に解くと、伸し掛かる体を押しやり、コードは喘ぎながら叫んだ。

できれば威厳を持ってシグナルと対したかったが、生憎と座っていてすら腰が立たず、すぐにも転がりたいほどに感覚が蕩けている。

体の芯を苛む快楽にぷるぷると震えながら、コードは精いっぱいきりりとした表情になった。伸し掛かろうとする姿勢まま、きょとんと瞳を瞬かせるシグナルを睨みつける。

「ぱ、パートナーを解消したところで、貴様が俺様の弟子だということに、変わりはないわっ一人立ちしたからといって、そうそうすぐに立場が対等になると思ったら、大間違いじゃっ!」

「えええー…………っ」

「えええじゃないっ大体貴様、これまでも好き勝手しておいて、なにが遠慮していただっもう一度辞書を引き直せっそもそもシグナルの分際で、俺様を甘やかすだの、か、かわいがるだの…………っ」

威勢よくそこまで叫んで、コードは眩暈を感じた。

聞かされても衝撃的な言葉だったが、自分で口にすると衝撃が倍々どんだ。

蕩ける体の芯が痛むほどに疼いて、コードはくちびるを空転させた。喘ぐ音だけが、ひどく大きく耳に響く。

「ま、まだ、はやい……………」

ぐだぐだとなりつつも、どうにかこうにか結論を吐ききった。

「………………」

伸し掛かったまま退く気配もなく、しぱしぱと瞳を瞬かせてつぶさに眺めていたシグナルは、軽く眉をひそめる。

軽く眉をひそめるのみならず、微妙に歪んだ形のくちびるを尖らせ、顔を上げた。あらぬ方を睨んで考える間が数瞬あり、ややしてまた、コードに視線を戻す。

手に力が込められて、回復しきっていないコードはあえなく縁側に転がった。

「シグナルっ」

「コード。僕の本気、見せて上げようか?」

「なにっ?!」

落ちた問いはむしろ、静かだった。

目を剥いたコードに本格的に伸し掛かったシグナルは、静かな声に見合わない重甘い欲と熱を滴らせている。

「ぁ…………」

息を呑んで抵抗を忘れたコードに身を沈めながら、シグナルは生真面目に頷いた。

「見せて上げるよ、コード。どうしても師匠だっていうならいいけど、僕の恋人なんだって。――これからは僕の成長とか育成とか考えながら触るんじゃなくて、僕の恋人だから触られるんだって………蕩かすのは、弟子でもパートナーでもない。コードを甘やかしてかわいがりたい、コードの『恋人』であるだけの僕だって」

言葉の最後はプログラムに融け、否応もなく沁みこまされて馴染み、甘さとともに深奥に刻まれた。