「あ」
現在の住み処である世田谷の教会に足を踏み入れて、ジャンは大きな瞳をさらに大きく見張った。
聖堂の椅子に凭れて、クロードがうたた寝をしている。
陽光明け染めても、其はまだ暗く
「………」
こんなところで寝ているのが見つかったら、ピエールはともかくとして、アンリには大目玉を食らうはずだ。
いつ何時、『迷える子羊』という名の顧客=飯のタネが来るかわからないのだ。そのときに、肝心の神父が聖堂でだらけていたら、それだけでマイナスイメージも甚だしい。
「……くろーど」
小さい、ちいさい声で呼ぶ。
そっと足音を忍ばせて傍に行き、きょろきょろと辺りを見回した。
アンリの姿も気配もない。もちろん、ピエールも。
起こすなら、今のうちだ。
「………くろーど」
けれど、ジャンの口からこぼれるのは、小さなちいさな、ささやきだけ。
きょうだいの中ではいちばん、ふまじめで怠惰なクロードだが、こうまでだらけた――くつろいだ姿を見せることは、ない。
それまでの人生がすべて、ジャンを通じて現れるバロールとの戦いの緊張の中にあったからだ。わずかでも油断を見せれば、バロールは現出して悪逆を尽くす。
だから、決して気を抜けなかった。
「………」
ジャンは言葉も失くして、クロードの寝顔を見つめる。
ジャン=バロールの悪逆に、きょうだいは皆泣いたし、怒りもした。やめてくれと縋られもした。
その中でも、クロードの怒りは激しかった。
今でも思い出せば背筋が震えるほど、彼は全身で怒って、ぶつかってきた。
きらわれている、と思っていたその記憶が、クロードの自分への愛情ゆえだったのだと、今ではわかっている。
だれよりも自分のことを愛していてくれたから、余計、赦せなかったのだと。
ジャンが傍らにいるのに、クロードは穏やかな顔で眠っている。
考えられなかった奇跡が、ここにある。
「………うん」
頷くと、ジャンはクロードへと手を伸ばした。
精神的にはきょうだいで最も幼い自分だが、幸か不幸か、体の発育だけはいい。クロードは生意気だと言うけれど、どうやらその生意気さが役に立つときが来たようだ。
「………っう」
クロードの体の下に手を入れて、持ち上げようとする。なんだかんだで霊魂を具象化しているだけの自分たちだ。
簡単に――持ち上がる、はず、なのだけど?
「………なんでおもいのぉ………っ」
すでに泣きが入って、ジャンはつぶやく。
まるで地縛霊になったように、クロードの体は椅子から離れない。ジャンがどんなに力を入れても、びくともしない。
「ぅ、うえ」
アンリに見つかる前に、ベッドに移動させてやりたいのだ。さもなくば、どこか木陰とか――とにかく、眠っているのが見つかっても、四の五の言われないところに。
それなのに、クロードの体は動かない。
「ぅ、ぐすっ」
こんなに大きな体になったのに、なにひとつとしてきょうだいに返せない。
自分=バロールがこわいことをしようとすると、いつでも止めてくれたきょうだいたちに――ずっとずっと、見捨てないで怒ってくれたクロードに。
大泣きするともれなく、クロードを起こしてしまう。
それでも、自分が不甲斐なくてかなしくて、ジャンは大きな瞳に涙を溜めた。
「ぐす、ぐすっ」
歯を食いしばって耐える。
ふと、クロードが身動ぎした。ぼんやりと、瞳が開かれる。焦点の曖昧なそれは、彼がまだ夢うつつにいることを教えた。
いつもきりりと吊り上った顔が、やわらかに崩れてジャンを見上げる。
「………ジャン」
「………ぅん」
なぜかどぎまぎとして、ジャンは頷いた。クロードの顔から目が離せない。もともと造作は整っているのだが、今はいつにも増してきれいに見えた。
「………ないてるのか」
「……」
ぽつりとつぶやかれ、ジャンは瞳を瞬かせる。
泣いている――泣いていない、泣きそうなだけ。
でも、もう、泣いていると言ってもいいのかもしれない。
応えのないジャンの顔に、クロードが手を伸ばす。頬がやわらかに撫でられて、引き寄せられた。
「なくな」
「ん」
言葉とともに、キスの感触。瞼に、額に、頬に――顔中に。
あたたかく与えられる、キスアンドキス。
「………くろーど」
自分の無力さに打ちのめされていた心が、ふわふわと浮き上がるのを感じる。
現金だとは思ってもキスはただうれしくて、ジャンは強請るように顔を突き出す。寝惚け半分のクロードは押されるままに椅子に転がり、それでもジャンの顔を抱えたまま、キスを与えた。
「ジャン」
「ん……ん?」
応えようとした、くちびるが、塞がれた。
あれ、これって、……。
疑問に思う間に、クロードのくちびるはジャンのくちびるに深くふかく合わさる。ふいに生温かい感触があって、ややして、舌で舐められたのだと思い至った。
「くろーど」
束の間の呼吸に離れた瞬間に呼ぶ。その開いた口の中に、クロードの舌が滑りこんだ。
「んん………っんっ」
クロードの舌が口の中を撫でて回る。
ぬめってあたたかい感触。
背筋がぞわりと粟立ち、ジャンは大きく震えた。
いつものキスとは違う。あたたかくて、やさしい、家族のキスではない。
それはわかって、けれど、止めたいとは思わなかった。
体の境界が溶けて、混ざり合うような酩酊感。煽られていく熱。ふわりと立ち昇るクロードのにおい。
頭が眩んで、確かなことはなにも考えられなくなる。
自分でも舌を伸ばして、クロードの舌を舐めた。甘噛みすると、体の下でクロードが震える。
「んぁ………っ」
「っ」
クロードの上げた甘い鼻声に、ジャンは血が逆流する感触を味わった。
束の間離れて見下ろしたクロードは、深いキスの余韻に蕩けている。ぼんやりとジャンを見つめる瞳は潤み、雪白の肌はうっすらと紅く色づいていた。
咬みつきたい。
欲求がもたげて、ジャンは喘いだ。
「くろーど」
「………」
呼ぶ。
見返される瞳に、なにかの感情。
けれど、言葉はこぼれることなく。
「………」
口を噤んだまま、クロードはそっぽを向くと、再び瞳を閉じた。
「くろーど」
驚きと、もどかしさで呼ぶ。
このまま、放っておかれるなんてあんまりだ。
このまま――このまま?
「………?」
なにが、どうなるのだろう。
この先に、なにがあると?
再び健やかな寝息を立てだした体を下に置いて、ジャンは呆然と考えこんでいた。
離れられない。
離せない。
このひとがほしい。
思う心が膨らんで、治める術を知らない。
「クロード」
つぶやいて、ジャンは身を屈めた。
緩やかにほどけたくちびるに軽く触れて、肩口に顔を埋める。
バロールの気配も感じないのに、身の内に凶暴な衝動があって、もう、微動だにできなかった。