シグナルは疲れていた。
「ぅうう……っ!」
呻きながら、よろよろよたよたと、音井家のリビングに入る。疲れすぎて、まっすぐに歩けない。
愚者の光背
今日は朝からハードだった。まず、起きてすぐにパルスとケンカした。なぜと言って、パルスが起きていたからだ。
そしてそのケンカを長兄のオラトリオに仲裁、もとい力技で止められ、ねじ伏せられた格好のまま、カルマにお説教された。
『今日は大人しくして、目立たないようにしておいたほうが身のためだと思いますよ、シグナルくん。……まあ、普段から目立っていますし、もはや今さら無理というものでしょうが。しかしせめて、無駄な体力は極力費やさず、後々に温存しておくべきです』
箒を構えた家政夫さんもとい、麗しきA-ナンバーズ統括は、仲の良過ぎる兄弟にきびきびとお説教し、最後にため息に混ぜてつぶやいた。
『なにしろ今年は、正信さんもいますし………』
正信どころではない。
今日、――いや、数日前からか。常には静かな田舎町であるトッカリタウンには、次から次へと来訪者があった。
彼らの目的地は総じて同じで、シグナルの家――音井ロボット研究所だ。
まずは信之介の息子夫婦、信彦の両親である正信とみのるが、カルマを伴って帰って来た。
続いて、オラトリオだ。滅多によりつかないはずの音井ブランズ長兄は定期メンテナンスを口実に戻って来て、そしてなぜか引き続いて、もっとよりつかない音井ブランズ長姉、ラヴェンダーが来た。
しかもラヴェンダーは、躾中で目が離せないとか言い、現在鍛錬中である自分の『弟子』――クイーンを引っ張って来た。そのクイーンは、あたしひとりじゃ怖いじゃないとかなんとかで、クイックを。
これでもう、かなり騒がしい、収拾のつかないことになっていたのだが、そこにプラスしてクリスの姪と甥、マリエルとテリーも、春休み中の信彦と遊ぶという口実でやって来た。
さらになぜか、彼らの付き添い人はアトランダムとユーロパで、さすがに二人の滞在先はエララの元だったのだが――
そうでなくとも、ここ最近の音井研究所は大所帯だ。そこに詰め込むこと詰め込むこと、人間にしてもロボットにしても、皆が皆、それぞれに癖の強い――
なにとはなく、不穏な気配を漂わせて迎えた本日だ。
四月一日だ。
この日付がこれほどの悪夢となって己に刻まれることを、シグナルはまったく予感していなかった。
もちろん、音井研究所に滞在する、もしくは日常暮らす家族たちも、問題だ。
先にも言ったが、彼らは皆、癖が強い。しかも総じて、茶目っ気があるというか、出来る限り肯定的に表現するなら、つまり、悪戯好きだった。
悪人はいない。いないと信じたいシグナルだが、まあ、悪戯好きなのだ。
ちなみに悪戯好きといえば、住所地たるトッカリタウンの住民たちもだった。
そもそもシグナルたちが暮らすトッカリタウンの住民は、法を守る警官や常識を説き授ける学び舎の教師まで含め、非常に、だからこちらも可能な限り肯定的に表現するが、つまり、個性的だった。
悪人はたまにいる。しかして無辜で表現される一般市民もかなり、そう。
個性的なのだ。
この日――四月一日。
本年のエイプリルフールは、音井研究所に集った世界最高峰の頭脳と才能と技術と、トッカリタウンに暮らす一般市民たちの非凡な能力とが融合し、うっかり新しいものを開花させてしまった的な感じで――
シグナルに、襲い掛かった。
災難だった。
「ていうか、なんでこういう日に限って、逆にカントだけは見当たらないんだよ……っ」
夕方だ。疲労困憊も著しく、誰もいない、薄暗いリビングによたよたと入ったシグナルは、ソファにどさりと倒れ込みながらぼやいた。
今日はもう、トッカリタウンの全住民と関わったのではないかという気すら、している。
もちろんそんなことはないと理解しているが、それぐらい濃い面々と関わり続けた一日に、ねこの姿だけはなかった。いつもは呼んでもいないのに、余計なところに余分なタイミングで現れる彼が、今日という日に限って――
ねこのなにが大事と言って、ねこアレルギーを持つ信彦がくしゃみをする。信彦がくしゃみをすると、シグナルのバグが反応する。
バグが反応すると、シグナルはちびへと変わる。
通常は、僕こそがシグナルだと言って、ちびへと変わることを嫌うシグナルだが、今日は違った。信彦がくしゃみをして、ちびへと変わることを渇望していた。
現金だと自分でも思うが、同時に強く理解していることもあった。
エイプリルフールは、ちび向きだ。シグナル向きのイベントではない。
少なくともトッカリタウンに在住し、音井研究所に住む限りは。
シグナル――A-ナンバーズ最新型、<A-S:SIGNAL>。
彼を唯一無二たらしめる、その基幹であり機関であるMIRAとSIRIUSは、飛び抜けた能力を遺憾なく発揮し、学習していた。
エイプリルフールのトッカリタウンは、地獄と同義だ。ことに、音井研究所に『親族』たちが集っているようなときには、取り返しのつけようもなく。
「ぅうう………終わらない………もう夕方だけど、まだ夕方だ………今日がおわらないぃい~~~っ」
ソファに俯せで倒れたシグナルは、薄暗い窓の外と時計とを見比べて、泣きべそを掻いた。
そんなことを認めたくはないが、心が折れ折れだ。ばっきぼきだ。立ち上がる気力も尽きた。これが単純な戦闘であるなら、こうまでになることはないというのに。
だからシグナルにとって、今日のような『闘い』は不得手なのだ。ちびのほうが余程うまいことくぐり抜けるし、おそらく彼なら楽しめる。いや、楽しむだけでなく、逆襲すら可能だろう。
だが、シグナルは無理だ。<シグナル>には、無理なのだ。あーれーと、くるくるくるくる、巻きに巻かれて流れに流され、辿りつく先も不明なままどんぶらこっこどんぶらこっこと。
釣り上げたのがやさしいおじいさんとおばあさんならいいが、今日、シグナルを釣った相手は総じて邪悪だった。
いや、通常は善人だ。善良な人々だ。無辜の一般市民というやつだ。吸血鬼や爆弾魔幼女、改造魔人に兄もいるが――
「特に長兄ぃい……っ」
「なんだ、シグナル、そのざまは」
「ぴゃっ?!」
恨みから気力を取り戻しかけたところで、唐突に声を掛けられた。
応じてシグナルの口から洩れたのは、情けないにも程がある悲鳴で、声を掛けた相手もさすがに呆気に取られたらしい。
ばさりと羽音をさせてソファの背に下りると、半身を起こしかけた状態で固まったシグナルの顔を、まじまじと覗きこんだ。
シグナルもシグナルで、驚愕に固まりながらも周囲を素早く観察し、経過の理解に努めていた。
ソファの背に止まったのは、鳥だ。ただの鳥ではなく、鳥型のロボット――シグナルの補佐役であり、師匠であるコードだ。
電脳空間においては青年姿を取るコードだが、先にも述べたように、現実においては鳥型だ。翼はあって空を飛ぶが、『手』はない。部屋の中に入ろうにも、扉が閉まっていれば易々とはいかない。
そこでシグナルだ。
つまりシグナルは今、疲れ切っていた。リビングに入っては来たが、扉を閉める気力まではなく、――開け放していた扉から、コードが難なく入って来たと。
相手が相手だから、気配に疎くても仕様がないとはいえ、よりによって今日この日、精根尽き果てた今になっての、この遭遇。
観察がひと段落ついたらしい。呆然としているシグナルより先に、コードのくちばしがかしかしと鳴った。
「最新型の名が泣くぞ、シグナル。なんだそのよたり具合は。それでも俺様の弟子か」
「こー………っ」
もう無理だ、と。
常に希望に輝くシグナルのプリズムパープルの瞳は、絶望を宿して堪えきれない涙を浮かべ、――
そこで、意識が途切れた。
***
「ん………?」
シグナルが初めに知覚したのは、撫でられている感触だ。長い髪をやわらかに、やさしく、梳き撫でられている。
気持ちがいい。
疲労が抜け切れていないのだろう。多少の不快さを伴っていた覚醒だが、すぐに払拭された。撫でる手のリズムに合わせてくちびるが緩み、笑みを形作る。
手が止まった。
「目が覚めたか、ひよっこ」
「へっ?!」
頭上から掛けられた声に我に返り、シグナルはかっと瞼を開いた。見上げた先でまず目に入ったのが、きれいな桜色の枝垂れと、ぬめるような白い肌――
もしもシグナルが冷静な状態であれば、覗きこむ瞳が常よりずいぶんと丸み、案じる色を宿していると気がつけただろう。それはそれでパニックに陥りそうなことではあったが、少なくとも相手に悪意や害意がないことは理解できたはずだ。
しかし我に返ったものの、同時に『直前』までの経緯も思い出したシグナルは、一気にパニックへと陥った。
「コードっ!!コードはなに企んでっ」
「落ち着け、ひよっこ!そして見ろ!!」
「ぶぎゃっ!!」
――パニックに陥っていようがいまいが、相手はコードだ。シグナルの師匠だ。単に年嵩であり、サポート役であるという以上に、諸々すべてにこなれている。
シグナルは最新型の機能の半分も発揮させてもらえぬうちに、板間に叩き伏せられた。しかも頭を鷲掴みにされて無理やり持ち上げられるという、至極乱暴な固定法まで取られる。
そうしたうえで、コードがシグナルの眼前に突きつけたのが、暦機能を兼ね備えたデジタル時計だった。
表示は『2/APR-00:00:52』
「あ……!」
見入るシグナルの前で時は刻まれて過ぎ、規則正しい速度でぱたりぱたりと、ある意味和やかに秒表示が進んでいく。先へ先へ、四月二日、零時ゼロ分から零時一分、――
「理解したか、この未熟者が」
「お、わった………っん、だ……っっ!!」
強張っていたシグナルの体からどっと力が抜ける。落ちていく体を引き留めることはせず、コードは掴んでいた頭を離してやった。
べったりと情けなく縁側に懐いたシグナルの傍らに、コードは再び腰を下ろす。軽く、鼻を鳴らした。
「ふん。相変わらず、運ばかりはいい。あと少々、起きるのが早かったなら、俺様も揉んでやったというのに」
嘲るように告げるコードに、シグナルは起き上がることもなく、首を横に振った。
「ムリ。もうムリ。ぜったいムリ」
「軽々しく無理無理言うな。そんな脆弱な男に育てた覚えはない」
「でもムリだよ………」
珍しい弱音を吐くシグナルだが、声は笑っている。どうやら笑える気力は戻ったらしいと見て取って、コードはまたも鼻を鳴らした。
回復力が高いのも、この最新型の取り柄のひとつだ。他に取り柄を上げろと言われると、――
「未熟なひよっこめ。尻が青いにも程がある。無様を晒しおって、この箱庭育ちの甘ったれたぼんぼんが」
「うーーー………」
これでもかと罵倒され、シグナルは呻いた。ちょっとばかり回復しかけたが、また気力が尽きそうだ。
これでこのまま、厳しい師匠の長時間に渡るお説教に耐えろと言われると、それはエイプリルフールが続行していたのと同じ程度のダメージがあるようなないような、あるような。
だが今日のコードは、そこまで鬼ではなかった。罵倒もそれだけで、口を噤む。
そもそも、縁側にだらしなく懐いたままの姿勢でも赦されているのが、なによりの証だ。普段ならとっくに蹴落とされて、立ち上がれと叱りつけられている。
ふと気がつき、シグナルは軽く、首をもたげた。
ようやく、周囲を観察する余裕が出て来たが――
コードが鳥型ではなく、青年体であることからもわかる。なにより、『空気感』がまったく違う。
電脳空間だ。
しかしもっと言うなら、シグナルが寝そべるこの場所だ。
「ここ………コードの『家』?」
「ああ。教授のところか、<ORACLE>かとも思ったがな。俺様がもっとも落ち着くし、把握してもいる。なにかと好都合だからな」
「ふうん………」
その、『なにかと好都合』の『都合』がなにのどこを差しているのか、シグナルは訊かなかった。少なくとも、お子様だと罵倒し尽くす『コイビト』を連れこむにもってこいだという意味ではないことだけは、理解している。
いや、――ある意味では、『そう』なのだろう。
疲れ果て、意識を失った情人を守るに、コードがもっとも適していると判断したのが、ここ――
和風建築の屋敷の、庭に面した縁側にシグナルは転がっていた。体を反せば、掛け軸などで飾られた座敷もあるが、今、目が離せないのは、庭だ。
春らしく花に溢れて、けれど現実とはどこか違う――
「桜だ。藤も……」
「ああ。<外>とは多少、狂いはあるが、まあ……」
「きれいだ」
コードの言葉を聞かず、シグナルはつぶやいた。遮る意図はなく、ただ、素直な感情が募って溢れたとわかる、純粋にして無垢な声音だった。
コードは口を噤むと、寝そべったまま庭に見入るシグナルを眺める。
落ち着かせるためとはいえ、乱暴に頭を掴んだ。長い髪は乱れたままで、うまく出来たCGだと思いつつ、手を伸ばした。
「ん?」
「もう少し、休め。回復しきったわけではなかろう」
「………」
伸ばした手でぐしゃりと髪を掻き混ぜ、コードはつぶやく。伏せられた瞳はシグナルから微妙に逸れ、向かい合おうとはしない。
輝きを取り戻した瞳を瞬かせてそんな相手を見つめ、シグナルは梳き撫でられるまま、ことんと頭を落とした。
目覚める前と同じ、コードの膝上に。
目覚めたときと同じ、コードの手に撫でられ、あやされながら。
「僕、コードに撫でられるの、好きだな……」
「甘ったれのお子様が」
眠気に重くなった口でとろりとつぶやいたシグナルに、コードは無碍な罵りを返す。手はやさしい。やわらかに、労わりに満ちて、シグナルの長い髪を丁寧にていねいに、撫で梳く。
シグナルは笑って、頭を支えるコードの膝に擦りついた。
お子様扱いも甘ったれ呼ばわりも、普段なら抗議する。一人前と認めろよと、認めて貰えなければ、この関係まで否定されているようだと――
けれど今は、いい気がした。
なぜならコードがやさしいし、自分は疲れているし、それに――
「コード」
「無駄口を叩かず……」
「好きだ」
とっとと休め、と。
叱責は聞かれることなく無邪気な告白に打ち殺され、コードは口を噤んだ。膝の重みが増した気がする。視線をやらずとも届く呼気と撫でる手に伝わる感触で、相手が寝入ったことがわかった。
「………甘ったれのお子様が」
もはや聞こえていないとわかっていても腐し、コードはシグナルの頭から手を離した。替わって、先に縁側に置いたデジタル時計を取る。
ぱたり、ぱたりと。
規則正しい速度で進んでいた時計が、止まる。
一瞬後には、ぱたぱたぱたと忙しない音を立て、巻き戻った。四月二日の零時五分から、四分、三分、二分――
それもまた止まって、再びぱたりぱたりと、規則正しい速度で進み始める。
表示は『1/APR-23:56:04』。
「ふん」
歪ツな笑いを浮かべて鼻を鳴らすと、コードは正確にして『正しい』時を刻む時計を宙に放った。具象化し、袂からすらりと抜き出したのは刀剣型の攻撃プログラム、細雪だ。
膝上で安心しきって眠るシグナルとはまた別に、コードの半身とでもいうべきもの。
こうして力を解き放っても、戦闘型たるシグナルが危険を感じることなく、寝入ることを赦した――
落ちる時計を、斬るというよりは触れた先から霧消させ、細雪はまた、袂に戻った。
あとには『解体』された時計の名残りが、花びらのように、ちらちらと光りながら舞っている。
――きれいだ。
こぼれた、感嘆の声。
嘘ではないと誰にもわかる、その無邪気にして無垢な驚愕と、感動。
こちらまではっとして、咲く花々に目をやった。
そして気づく。
ああ、この花は、この庭は、これほどうつくしかった。なんと綺麗なのかと。
「綺麗に作っているからな」
素直ではないことをつぶやきつつ、コードは庭を眺めた。くちびるが、やわらかな笑みに緩む。
暇だ。
膝上でお子様が寝ているから動き回れないし、不便も極まりない。重みで痺れるということはないだろうが、だとしてもこの代償は高くつく。高くつかせる。
どんな理由があれ、無様を晒したことは師匠として赦し難いし、鍛え方が足らないと腹が立った。そのうえに、情人たる自分相手に二度も、警戒心を剥き出しにしたりして――
「………まあ、多少、大目に見てやらんでもない。所詮、お子様だからな」
つぶやく、言葉は自分への戒めだ。
お子様だ、相手は子供だ、未熟で、未成熟で、未だ世界を知らぬ。
世界を知らぬ相手に開かれた、綺麗なきれいな庭を眺め、コードは信頼とともに眠りを貪る相手の髪をひと房取った。
そっと、くちびるに当てる。感触は冷たく、やわらかで、香る甘さに目の奥が痛んだ。