愚者の躍進

今日のカイトは強気だった。今日のカイトは漲っていた。今日のカイトは――

とにかく今日のカイトは、いつもと『ひと味違うカイト』だったのだ。

カイト――KAITOシリーズといえば、おっとりぽややんとして、春の陽だまりめいた穏やかな雰囲気を醸し出しているのが常だ。スペックの低い旧型機ゆえ、『処理』が遅いというのとはまた別に、いわば個性の部分で、彼らは非常に鷹揚に出来ている。

カイトもまた、そうだった。

ノロマだとかとろ臭いというのとは、違う。しかしすべての反応がおっとりぽややんとして、ワンテンポかツーテンポか、とにかくなんだかずれている。もとい、緩んでいる。

しかして今日のカイトはちょっとばかり――そう、だから、『ひと味違うカイト』だったのだ。

おっとりぽややんとして穏やかな雰囲気が、まったくなくなっていたわけではない。胸を張り、威勢よく、鼻息の荒いとでもいうべき状態だったが、どこかしらにお育ちや、基本の性格は窺えた。

窺えたが、胸を張って威勢よく、鼻息が荒いと喩えてしまうような状態だったのだ。

そしてその『ひと味違うカイト』は、自室で新曲の譜面をさらっていたがくぽの元にやって来た。

ノックとともに応えを待つこともなく、勢いよく開かれた扉に――しかしてこれはこの家の慣習であって、今日のカイトの状態にはよらない――、目を向けたがくぽの思考には、『カイト が あらわれた!!』という一文が過った。そう、古式ゆかしいロールプレイングゲームなどで表示される、モンスター出現時の文面だ。

現れたのはカイトで、そしてがくぽが溺愛する恋人なのだが。

つまりカイトはそういう勢いで、様子だったということだ。

だが扉の開き方だけによらず、今日のカイトが『ひと味違う』のだと、がくぽにはすぐわかった。

勢いよく扉を開け放ったところでカイトが発した、第一声だ。

「たーのもーーーっっ!!」

「『頼もう』?!」

――がくぽとカイトのいい加減なマスター曰く、がくぽとはイコールで=『古式ゆかしいネオサムライ』だ。

古式ゆかしいのかネオなのか、そもそも古式ゆかしいとネオを同居させる言語能力など、ここらへんが、がくぽがマスターをいい加減と評する一因だが、ともかく。

大別してがくぽとは、=サムライなのだ。少なくともその気質が、他のロイドよりは多分にある。

だとしても、これまでなにかの挨拶に『頼もう』を使ったことはない。確かに普段、親しい仲でも堅苦しい言葉遣いではあるし、言い回しの古さも否定しないが、それでも『頼もう』を使ったことはない。言い切れる。

現代日本のどこで、なにがあって、挨拶に『頼もう』を使う機会や隙があるというのか。未だ存在しているかは不明だが、道場破りに赴いた人間だとてもはや、『頼もう』と叫びながら押しこんでいくことはないだろう。だからといって、ではどう叫びながら道場破りに押し入るのかという、代替の挨拶は思い浮かばないのだが――

といった、逃避を極めた思考を一瞬でやってのけるくらい、がくぽは驚愕した。ある意味で冷静に過ぎる分析ともいえるが、がくぽは驚愕したのだ。

そして悟った。

今日のカイトはなにかが違う。

そう。

がくぽとひとつ屋根の下で暮らす最愛のコイビトは、ちょっと目を離した隙に、ひと味違った方向にイってしまわれたのだと。

よくあることだった。

「で、今日はなんだ?」

よくある日常にすぐさま我を取り戻したがくぽは、進撃してくるカイトへ、とても冷静に問いかけた。

腰を浮かせることもない。泰然と座ったままだ。

しかし畳に広げていた譜面はざっくりまとめ、部屋の片隅に置いた文机に投げて避難させた。カイトのこの勢いでは、大事な仕事道具であっても構わず、踏みつけるなり破るなりしかねないからだ。

注記しておくと、カイトが故意にやらかすと、がくぽが考えているわけではない。勢い余って存在が知覚できず、無意識にやらかしかねないということだ。

がくぽは非常に諸々冷静に対処しながら、とても強気で漲って、なにかはわからないがなにかしらのヤる気に満ちているカイトを迎えた。

ちなみに、こうして表面こそ冷静で泰然とした態度に見えるが、がくぽのカイトに対する盲愛加減にブレがあるわけではない。これもこれで愛らしいと、内心ではじったんばったんと萌え転がっている。

そういった意味でブレはないが、とりあえず表面は冷静に見えるのが、がくぽだった。内心が即、イコールで素直かつほぼ正確に表へ現れるカイトとは正反対だ。

そして内心イコールのカイトは今、滅多になく漲っている。つまり――

「だれになにを吹き込まれたマスターがまた、おかしな仕事でも持って来たかそれとも、きょうだいのだれぞな妹が……」

「むっふんむっふふん!!」

候補を上げ連ねるがくぽに返って来たのは、荒げた鼻息もとい、項垂れたくなるような怪笑だった。

そもそも胸を張っていたカイトだが、がくぽの問いに怪笑を放ちながらひっくり返る。違う。そっくり返る。

――だが一瞬、『ひっくり返った』と誤認するほど、そっくり返った。とても得意そうだ。くり返すが、強気で、漲り、ヤる気に満ちている。こういう様子は滅多にないのが、カイトだ。

「カイト……」

思わずバランス感覚を心配するほどそっくり返ったカイトは愁眉のがくぽへ、びしいっと人差し指を突きつけた。

高らかに、宣言する。

「今日の俺はひと味ちがいます、がくぽ!」

見ればわかる。

――と思ったが、がくぽは賢明な沈黙を守った。なぜ敬語なのかというツッコミも呑みこみ、ひとを指差してはいけないという注意も控えた。

なにしろ『ひと味違う』ことはわかるのだが、塩か砂糖か、もしくは他のなに味なのか、どの方向に違うのかがわからないのだ。

いくら思考や感情の繊細さを誇り、機微に敏く推理力に長けるがくぽでも――いや、そういう『がくぽ』であればこそ逆に、カイトの発想の飛び先は読み難かった。

雑に過ぎるからだ。

筋道が通っていない。通っていない筋道を辿って、思考を追うことは不可能だ。通っていない以上、辿れるものはなく、追いようがないからだ。これでプログラムかと、それも物堅さを残す旧型プログラムなのかと、しばしば愕然とするが。

だからがくぽは、今はまだ少な過ぎる情報を補填すべく、カイトの次の言葉を待った。

一方のカイトだ。短時間ではあったが、この体勢は腰あたりに無理がクると自覚したらしい。

それでも十分にそっくり返った姿勢ではあったが、少しばかり体を起こしてから、一軍の将もかくやという力強い声を発した。

「進化したのです進歩したのです!!進展したのです!!きょうじんるいははじめてもくせいにつきました!!そんですいたいしました!!ぴてかんとろぷす!!」

「まあ、なにかはまったくわからんが、前置きと前振りが長く、そしてお主が非常に自信に満ち溢れていることはわかった。それ以外はきっぱり理解できん文言が並んだが、で、本題はなんだ?」

「『ぐぅ』?!」

堪えきれずに怒涛の如くのツッコミを押しこみ、がくぽは先を促した。

いわばダメ出しの嵐を喰らったカイトは『ぐう』の音をこぼし、束の間、正気に返ったような顔になった。

が、カイトだ。『カイト』なのだ。

マイペースの王を通り越して、神であり鬼だ。

すぐさま元の威勢を取り戻すと、一度は折れかけた人差し指を再び、ぴんと伸ばした。

がくぽをびしりと指差し直し、きっぱり言い切る。

「もうがくぽのハダカなんて、こわくありませんっシラフでもガン見デキる俺になりましたっっ!!」

「ほう!」

がくぽは思わず、感嘆の声を漏らした。

なんの話かというと、――説明しようもなく、言葉ままだ。

カイトはがくぽのハダカ、裸体を、シラフの状態では直視することが出来なかった。羞恥の余りだ。

言っても年頃の、成年カップルだ。やることはやっている。それこそ、ひとつ屋根の下に住む家族が頭を抱え、談判をくり返した挙句に耳栓を購入する程度には。

それが毎回まいかい、着衣のままというわけでもない。着衣のまま及ぶことも確かにあるが、大抵はきれいさっぱり、脱げるものはすべて脱ぐ。

それでも、いや、だからこそカイトは、がくぽの裸体をシラフでは見られなかった。本人は『だってカッコ良過ぎるもんんーーーっっvvv』とかなんとか悶えながらほざいているが、要するにおばかっぷる、もとい、おばかっぷるなのだ。

がくぽはもちろん、服を着ていても格好いいが、裸体も均整が取れていて美しい。そしてその裸体は主に、初心で晩生だったカイトへ、あれやこれやの刺激的なことを手取り足取り教えるとき、晒される――

諸々の記憶や経験値が相まった結果、カイトはシラフでがくぽの裸体を直視出来なくなった。

見ようものなら、のぼせて大変だ。カイト本人もだが、周囲も非常に。

しかも付き合いはじめならともかく、すでに初々しいときが過ぎたはずの今となってすら、そうだった。

そのカイトがようやく、弱点を克服したという。

それは強気にもなろうし、漲ろうし、ヤる気に満ちた、ひと味違うカイトにもなろう――

「……ほう!」

がくぽはもう一度、感嘆の声を漏らした。

ちらりと走らせた視線の先、文机に置いた卓上カレンダーは、今朝起きてすぐ、新しい一枚に変えたところだ。

卯月の初日――言い換えるなら、四月一日。

今日は、四月一日だった。

がくぽはこくりと頷いた。

「ほう……!」

…………………

…………………………………

……………………………………………………

打ちひしがれるカイトは、敗北者だった。無残に、惨めに散らされ、威厳を失い、尊厳を損なわれ――

「ぇうぇうぇうぇう~ぅうっ!」

カイトは押入れから引っ張り出してきた、お気に入りのお昼寝ケットもとい、がくぽの寝間着である浴衣で、全身をすっぽりと覆っていた。

お気に入りなので、馴れたものだ。頭からつま先まで、それこそ髪の一筋すら漏らすことなく、きれいに隠している。

くるんと体を丸めた胎児の姿勢でもあり、完全に防御態勢に入っているとわかる。

さらにはその状態でしくしくぐじぐじと、盛大にべそを掻いていた。

「がくっ、がくぽ………がくぽ、がぁ………っ」

「あー……………その。カイト……」

傍らに胡坐を掻いて座るがくぽは、軽く天井を仰ぎ、俯きとして、言葉を探していた。

いや、謝罪一択しかないのだが、どういった言葉を選ぶかが、この後のカイトの機嫌というか、二人の関係性というかに、非常に重要かつ重大な――

「その、つまり、な例年とはまた違った趣の、まあ、そう、いわば斬新。斬新というか、要するに、清新、な四月一日ネタであったとは、思うのだが、だから、……言うなれば、今ひとつ、脆かったというか、見込みが甘かったと………」

「ふぇえええんっ!」

「……っっ」

漏れ聞こえるべそに本格的な泣きが入って、がくぽはびくりと肩を揺らし、口を噤んだ。

四月一日だ。春の陽気は変動が大きい。今日に関して言うなら、空気は冬ほどではないが、そこそこ冷たかった。

ことにこういった状態になると、身に沁みる。がくぽは寒さ冷たさに強いロイドだが、諸々相俟って非常に、非常に、非ッッッ常に、沁みた。

つまり、部屋の中であっても衣装をすべて脱ぎ捨て、裸体を晒しているような状態になると。

「そん、そんなつもりじゃ、なか………なかったのに、がくっ、がくぽがぁあ………っ!」

「ああ、うむ。否――すまぬ、カイト。俺に大人気がなかった。言い訳もない。真実まこと、済まなかった!」

カイトは現状、がくぽの浴衣で頭から爪先まで全身、すっぽりと覆っている。ミノムシかサナギかという状態だ。

だから見えていないとわかっていても、がくぽは畳に手をつき、深くふかく頭を下げた。

未だ全裸だ。いいから先になにか羽織れという話だが、そこまで気が回らない。動転している。

いや、がくぽの動転はそもそも、カイトががくぽの裸体を直視しても平気だと言い放ったところから始まっていた。

もはや愛も冷めたか、よもや飽きられたのか――と。

がくぽが冷静なのは、表面だけだ。内心は萌え転がっていたり、表記し難い声で雄叫びを上げていたり、むしろとても激しい。

その激しさがうっかり表に出てしまうと、――カイトのミノムシが出来上がるという寸法だ。

今のがくぽはとりあえず、表面を取り繕うだけの冷静さは戻った。戻ったが、目の前にはカイトのミノムシだかサナギだかがいる。これを後の祭りという。

こうなると、羽化させるには非常に手間が掛かった。それだけのことをやらかしたということで、だれにも同情してもらえないのだが。

「己でも、な………芸能の世界に従事しながら面白味に欠け、洒落の分からぬ、戯れごとを解さぬ堅い頭だと、日々常々、反省しきりではあるのだが……」

「がくぽが、かっこいすぎるよぉおっ!」

懸命に反省をこぼすがくぽだったが、カイトの耳にはまったく届いていなかったらしい。がくぽにとっては脈絡も繋がりもなく、唐突としか思えないことを叫ばれた。

機微に敏く反応が早いと言われるがくぽだが、さすがにさっぱり予想していないこととなると、即応は厳しい。

今もだ。すぐには理解が追いつかず、口を噤むとしばし、花色の瞳を無防備に瞬かせた。

がくぽが熟考状態に入ったことも、カイトにはもちろん見えない。見えたとしても気遣ったかは不明だが、見えない以上、考慮する余地はまるでない。

ミノムシサナギカイトはぐずぐずと洟を啜りながら、続けて喚いた。

「めーちゃんにコツ教えてもらったから、もうデキる俺ヤれる俺今日の俺イケ俺!!とか思ったけど、ムリだもんデキないもん俺!!だってがくぽ、かっこいすぎるもんかっこいいんじゃないもん!!かっこいすぎるんだもん!!そんなのダメだもんムリだもんデキないもんんんーーーっっ!!」

駄々っ子だ。ミノムシでサナギで駄々っ子だ。カイトは成年だ。

なにかが救いようないが、これもいつものことだった。

「あー………つまり、………………」

情報処理能力の高さを売りにするのが、がくぽだ。

高い能力を下支えする繊細な感情と思考は、持てる威力を無為かつ無駄に、遺憾なく発揮した。これまでに集積した情報と経験値、現状から、カイトの思考経路と行動原理を推理し、帰着点を洗い出す。

結論。

ミノムシサナギカイトを羽化させるのは、当初の予測より楽そうだ。

ついでだが、己の身になにかしら羽織るのも、まだ先のことで良さそうだ。寒いが、すぐに温まる。むしろ熱い。たぶん。

「なにか、まあ、………本当に済まぬな、カイト……」

「そーだよまったくだよちょっとはかっくいーのじちょーしようよ、がくぽっ!!」

「うむ。じちょー、…………ああ、『自重』な、自重………………うむ。自重、か………」

洟を啜りながらもぷんすかぷんとしているコイビトの要望に、がくぽは軽く、目線だけで天井を仰いだ。

自重――重い意味を持つ、大事な言葉だ。漢字から来る洒落ではなく、揶揄する気持ちもなく、そう思う。真実心の底から、言葉が含む意味の重さを噛みしめる。

しかしてがくぽはこれからもうしばらく、一糸纏わぬ姿のままで過ごす気だ。

そしてミノムシサナギカイトも、羽化させる予定だ。どうやってと言って、まあ、あれだ。つまり、アレだ。そして羽化というのはあれだ。そう、アレなのだ。

自重とは程遠い。

「たぶんまったく無理かつ不可能なのだが、――努力義務程度で、気に留めておくようにはしよう。とりあえず今後、覚えていることがあったなら、では、あるが……」

カイトが求めたものとは違う方向で受け取った挙句、誓いの言葉にやる気がないこと甚だしい。

むにゃもにゃうにゃと、語尾を有耶無耶に誤魔化しながら、伸ばす手はヤる気に満ち、――

がくぽはミノムシサナギカイトを羽化させるべく、繭こと浴衣を掴んだ。