Dear Dr.Clevers
電脳空間に聳える知の結晶、<ORACLE>。
そこに降り立った<ORACLE>監査官にして『電脳最強』の冠を被る守護者を迎えたのは、渋面の管理人だった。
珍しいといえば、珍しい。珍しくないといえば、珍しくない。
どちらなのかと問われれば、オラトリオは笑うだけだ。明確な言葉として、その『ココロ』を誰かに説明することはない。それは<ORACLE>監査官としての守秘義務もあるし、――
「どうした」
わずかにくちびるを尖らせ、むすっと考えこんでいるオラクルに、オラトリオは軽い調子で声を掛けた。
着地した床を三度、踵で叩き、感触を確かめて、感覚を添わせる。現実空間から、電脳空間へ――
ほんの一瞬ほどの適合処理を終えると、オラトリオは声の調子と同じく軽い足取りで、<ORACLE>管理人が居座すカウンタに歩いて行った。
カウンタは、公共図書館のカウンタと同じようなつくりだ。
己が『電脳図書館』と称されることもあると知ったオラクルが、ある日改装し、それからずっとこうだ。細部の手直しはあっても、基本は変わらない。
貸出と返却手続きのカウンタがあり、カウンタには検索や手続き用のパソコンが置かれ、そして向こう側には司書ならぬ『管理人』がいて、すべてを統括している――
「なんか問題か?」
「これだ」
カウンタを超えることなく、向かい側から覗きこんだオラトリオに、オラクルは一枚の布を示した。
そもそもオラクルが、カウンタに広げて眺めていたものだ。眺めながら、むすりとして考えこんでいた、おそらく今回の『問題』のブツ――
は、ぱんつだった。
オラトリオの知識で表現するなら、そうだ。ぱんつだ。下着、アンダーウェア等、表現は人それぞれ好き好きだが、まあ、俗語で『ぱんつ』と呼ばれる。
もっと細かく分類するなら、『パンティー』という単語に直せる女性ものではなく、男性もの。形状は、一般にトランクスと称されるもので、サイズは――
「どうでもいいな、そこは。なんだこれは」
「ぱんつだ」
オラトリオの問いに、オラクルは答えた。先にも述べたように、そこは理解している。
オラトリオが訊きたいのは、なぜこんなものがカウンタに広げてあって、そしてそれをどうしてオラクルが渋面で睨んでいるのかだ。
「まあ、薄々理由がわかんねえでもねえが……」
「『なえなえ変柄おぱんつ大作戦』というのに参加することになったと、プルニエ博士とハンプティ博士から連絡があって」
「まったく予想外の理由だったな!!」
オラクルはぶすっとしたまま、ある意味で非常に真面目に説明してくれるが、中身だ。
参加することになったという、作戦の名前もアレだが、オラクルに通告してきたという博士たちの名前も非常にアレだ。アレ方向にアレで、アレ的なことしか思いつかない。
ところで、アレアレ言っているが具体的にはなんだと問われたなら、やはりオラトリオは笑うだけだ。明確な言葉にはしない。
ただしそれは、オラクルのことを誰かに説明しないのとは意味が異なる笑みで、沈黙だ。
「『なえなえ変柄おぱんつ大作戦』、……な?」
確認するように復唱したオラトリオに、オラクルはこつこつと、下着を置いたカウンタを指で叩き示した。
「なんでも、私がおかしな柄の描かれた下着を穿き、それを見たおまえの反応が、今回のイベントの肝となるらしいんだが……」
「なるほどな………ツッコミどころがあり過ぎるんで敢えていっこもツッコまずに流すが、そうするとなんにも言えることがなくなるんでとりあえず、なるほどな。理解したわ。道理で、まあ……」
説明された中身が、作戦名から予想していたものとほぼ、相違なかったこともある。ついでに、オラクルとオラトリオ――<ORACLE>&<ORATORIO>:システム<ORACLE>という、枠を超えた関係を築く二人に対する周囲の理解ぶりに、改めて言及したくないという事情もある。
曖昧に流し、オラトリオはくちびるを呆れた笑みで歪め、カウンタに広げられている『主役』を見た。
種別は下着、分類は男性もの、形状はトランクス、サイズは――
そういった、冷静に判断を下せるデータ外のところに、問題がある。
作戦名にもなっている、柄だ。紛うことなく、変柄だ。これは変柄だ。
そもそも電脳空間の、それもアクセスが限られる<ORACLE>内部にしかいないオラクルにはぴんと来ない話だろうが、オラトリオだ。
現実空間では女性と見ればとにかく声をかけまくり、生みの親たる音井教授に頭を抱えさせたり、弟たちに白眼視されたりしているが、要するに『経験豊富』だ。
雰囲気をつくってムードを盛り上げ、ベッドルームまで行ったところで――開いた下着によって、その後の展開が大きく左右されるというのは、わかる。
言ってもオラトリオは『ロボット』なので、必要とあらば平然と笑って流すが、たとえば、相手の女性。たとえば、一般論としての、男性側の反応具合。
そういったものは重々に、理解している。
理解したうえで結論を下すと、今回用意された下着の柄は、必ずやベッドルームの二人に亀裂を呼ぶものだ。大いに物議を醸す柄だと、断言していいだろう。
選んだのは、シンクタンク・アトランダムが誇る最高にして最上の頭脳二人、プルニエ博士とハンプティ博士――頭脳の優秀さはもちろん折り紙つきだが、溢れて留まることを知らない遊び心も突出している、二人。
この二人がタッグを組んだ以上、『しかし変というのも千差万別、ひとによって基準が違うので』云々という、物堅い反論は通じない。
変だ。
ひと言で言って、
「大丈夫なのか、あの人たちは?」
眉をひそめたまま訊くオラクルが、心底から真剣に案じていることがわかって、だからこそオラトリオは逆に、吹き出しかけた。
「あー………いや、………っ」
なんとか笑いを呑みこむが完全には殺しきれず、口元がひくつく。
誤魔化すように、オラクルを真似てカウンタをこんこんと叩きながら、オラトリオは小さなため息を逃がした。
「おまえに心配されるったぁ、末期だな!まあ、言いたいことはわかんねえでもねえけどよ……なんなんだろうな、このセンス!あの二人だから、逆に予想の範囲内の予測不可能なセンスだけどよ。どこで売ってんだ、こんな柄。そもそもよくも、商品化出来たよなあ……ああ、いや、違うか。リアルじゃねえもんな。あのひとらが手ずから、今回のことのためにデザインしたのか、もしかして?」
「ん?」
最後は感心したようになったオラトリオに、オラクルがぴくりと眉を跳ね上げた。渋面が解け、身に纏う雑音色が、ぱたりと明滅する。
いつもの無邪気な表情に戻ったオラクルは困惑に色を揺らめかせ、世界の基準と置く、己の守護者を見た。
「………そんなにヘンな柄なのか、これ?」
「変だろ。頭が痛くなりそうな………ん?」
ごく明朗に腐そうとして、オラトリオは止まった。
オラクルは単に、柄の変度合いを念押ししようとしたとも、取れる。
が、表情に口調、ニュアンス諸々から考えるに、今の問いは――
「オラクル?おまえ、さっき言った『大丈夫なのか』って、そういう意味じゃねえの?これと睨めっこしてたのも……こんな、アタマがおかしいとしか思えない柄物を寄越すったあ、どうなってるんだっていう………もしくは、こんなデザインを考えつくとか、どうかしてるっつう……」
「いいや、違う」
世間知らずの箱入りさんにも通じるよう、懇切丁寧に説明したオラトリオに、オラクルはあっさりと首を横に振った。
振って、再び表情は困惑に染まる。とんと、指がカウンタの下着を叩いた。
「私は、ただ――そもそも<私>には下着の設定がないにも関わらず、製作者である彼らがこういうものを、事前のカスタムやアプデもなしに、ただぽんと渡してくることについて、記憶回路やその他の観点から『大丈夫なのか?』と」
困惑はあっても、オラクルの説明は淡々としている。言い換えて、冷静だ。
がしかし、だ。
「……あ?」
「もしもどうしても参加する必要があってこれを穿けということなら、穿いたうえでおまえにまで見られるようにしろということなら、基幹設定から……」
生真面目に吐き連ねるオラクルだが、オラトリオはそのずいぶん手前で思考が停止していた。
なんというか、爆弾発言があったような気がする。
いやいやいやそんなはずはないと、オラトリオは懸命に記憶を漁った。
電脳空間においてだが、体を重ねることもある二人だ。現実空間において恋人同士が、愛情確認の一手段としてそうするように、だが、ところは電脳空間で、『プログラム』だ。
『重ねる体』は比喩的な表現ではなく、実際解けて折り重なるプログラムで、互いの体に融けこんで混ざる。
現実のような、互いの着ているものを脱がし合うというプロセスは、存在しない。着ているものも諸共に『自分』で、プログラムであり、着ているものは着ているまま――
「『下着の設定がない』?」
「ああ。ないぞ?」
貼りつけた笑顔で確かめたオラトリオに、オラクルはなにを今さらとばかり、当然と答えた。
「下着の設定が」
「なんだ?!しつこいな、オラトリオ!見るか?!見るものなんてないが!!」
壊れたように同じ言葉をくり返すオラトリオに、オラクルは憤然として叫ぶ。
恋人同士だ。見られて恥ずかしい下着など――いや、恥ずかしいが、見せたからといってそれほど不自然なことではない。
が。
「した……っ、の、設定が、ないっ!だとぉおおおおおおおおおっっ?!」
――どうにも、我慢しようがなかった。
オラトリオは腹の底からふつふつと滾ってくるなにかの衝動まま、存在も曖昧などこかのだれかに向かい、全力で叫んだ。