束の間、がくぽは挫けた。さしものがくぽも、挫けずにはおれなかった。
理由は二つある。
MARIE
「が、がくぽ、さま………っ」
「くっ……っ!」
寝台に転がし、伸し掛かったまま項垂れるがくぽに、カイトは恐る恐ると声を上げる。
答えられない。応えられない――なにを言えばいいのだ。なにを言って、いいのか。
いつもの通り、幼な妻かわいさに盛り上がり、転がした寝台。
確かにカイトの今日の抵抗ぶりは、旦那さまを煽ろうとする以上のものがあるような気もしたが、押し切って衣装を開いていき、――
辿りついた、下着。
下着が。
「カイト………この、下着、は………っ」
どうにか声を絞り出したがくぽに、カイトはちらりと目線を下にやった。そうやっても未だ、押さえこまれている身だ。自分が身に着けたものが、つぶさに確認できるわけではない。
ただ、そうやって記憶を起こすよすがとし、カイトはどもりながら答えた。
「ぁ、えっと、あの………『のーぱん』です」
「『のーぱん』」
――聞き慣れない単語だ。少なくとも、がくぽの領内には存在しない。
棒読みでくり返したがくぽに、カイトは転がったままちょこなんと、首を傾げた。かわいらしいしぐさだ。そこだけ見れば。
しかしそのカイトの下半身、正確に言って下着は、とてもではないがかわいいとは言えない状態だった。そう、並々ならず頑強さを誇るがくぽですら、愛して止まぬ幼な妻を押し倒しながら束の間、挫けてしまうほどの。
形がというか、描かれている柄がもう、筆舌尽くし難く、むしろ筆舌尽くしたくない。こんなものに筆舌を尽くすなど、時間と労力の無駄だ。こんなものに労力を費やすために生まれたわけじゃないと、叫びたくなってくる。
だがしかし、カイトを押し倒しながらうっかり挫けてしまった己の、諸共にへし折られた矜持やらなにやらは、どう始末をつければいいのか。
いったいどこのどんな阿呆が用意したのかと、家宰から女中からすべてを広間に集め、糾弾したいほどの――
否。
がくぽにも、うっすらとわかっていた。
屋敷に勤めるもののしわざではない。彼らは無辜であり、八つ当たりも甚だしい。
こういったことを領主の溺愛する『奥様』に、平然とやらかす輩といえば。
無垢にして無邪気ながら、『主』以外には従わぬ忠実なる幼な妻を、諄々と従えてしまう輩といえば。
アレしかいない。
「ミクが……『のーぱんつ』っていう、魔具だって。旦那さまに『お断り』したい日に、穿くといーよって」
「おのれ魔女……っっ!!」
「ふ、ふきゃっ………」
予想通りの名前が出て、がくぽは呻いた。がっくりと脱力し、思わず組み敷いたカイトに体重を掛けてしまう。
だからとすぐさまへし折れるようなやわな体ではないが、重いことは確かだ。憐れなツブれ声を上げたカイトに、がくぽはしかし、起き上がる力を取り戻せなかった。
やはり魔女の仕業だった。
がくぽが治める領地の端、ただびとを寄せつけぬ不可思議不可侵の聖域、封じ森の管守一族――俗世に失われて久しい魔法をよくする、女系の一族。
ここでなにより重要なのは、魔女がカイトの『保護者』であるということだ。
自分らが手塩に掛けて育てた『おにぃちゃん』を奪われたと、彼女らは未だに事あるごとにがくぽへと突っかかってきて、時にはこうした罠も仕掛けていく。
そういう、がくぽにとっては全精力を懸けて戦うべき相手だが、カイトは違う。
彼女たちは家族で、概ね『妹』という庇護対象で、がくぽの次に信頼を置く相手だ。
というわけで、言われるがままに振る舞って至る→現在。
下着の柄の奇矯さも奇特さも奇抜さも、用意した相手が誰かを確認すれば、むしろ納得だ。
納得だが、納得し難いことがある。
それが、がくぽが挫けた第二の理由だ。
第一の理由はもちろん、なにも知らず無防備に目にした、下着の柄の凄まじさに対する単純な衝撃だ。
しかし第二の理由は、もっと根深い。
根深く、時が経てば経つほど、こちらはふつふつとした怒りに変わってくる。
こんなものを与えた魔女に対してもだが、誰よりもなによりも愛し、慈しみ育ててきた幼な妻、カイトへと――
なぜ、夫たる己を挫くことに、荷担したのか。
なぜ、生涯の伴侶と定めた己を拒むのか――
理由如何によっては、ちょっと洒落にならず、惨劇の予感がする。
「ぁ、あの、がくぽ、さま………」
「答えよ、カイト。包み隠さず、つまびらかに――なにゆえ俺を拒む。そなたの夫を遠ざける理由は、なんだ」
「ぅ……っ」
感情が過ぎてかえって淡々とした、静かな声での問いに、カイトは小さく呻いた。後ろ暗いことがあると、それこそ隠すことも出来ずに態度に出ている。
がくぽは顔を上げることも体を起こすことも出来ず、ただ、カイトの答えを待った。
答えを言うカイトの顔を、いや、浮かべる感情を見たくなかった。
もしも嫌悪が混ざっていたなら、憎悪が垣間見えたなら――
他領にまで明晰さを轟かせ、向かうところ敵なしを謳われた己の弱さに、がくぽの顔はなぜか緩んだ。笑うしかない。こんなことは。
たかが『妻』に拒まれたくらいで、なんたる弱腰ぶり。
たかが――
泣きそうだと、がくぽがくちびるを噛んだところで、カイトが震える吐息とともに言葉を吐き出した。
「だ、だってぼく、……きょぉ、キケン日なんですもっ……!」
「………あ?」
ぷるぷる震えながら差し出された答えに、がくぽの思考は空白に落ちた。
キケン日というのは、『キケン』ではなく『キケン日』と言う場合だが、一般的な意味としては、アレではなかったか。そう、つまりアレだ。もしかするとアレだ。
「あぁあ?」
「だから、きょぉ、がくぽさまとしちゃうと……ぐすっ!」
「待てこら」
ぷるぷるから進んでべそまで掻き出したカイトに、がくぽは体を起こした。しかし、憐れな様子の幼な妻を慰めるどころではない。
いや、つまりそうだ。
『カイト』を分類するなら、がくぽの『妻』であり、領主の『奥様』であり――
だが大きく括って言うなら、男だ。
しかしさらに大きく括るなら、ニンゲンではない。おそらく。
封じ森を散策中に魔女が拾った木の実から生まれたというのがカイトで、ニンゲンは木の実からは生まれない。
ましてや一年ばかりで、手のひらサイズから少年サイズにまで成長しない。
ゆえにカイトはニンゲンではないだろう。
そしてさらに大きく括るなら、単なるイキモノでもない。かもしれない。だから前述のとおり、カイトの生まれは以下同文。
「カイト。それでなんで、拒絶に走る。そなたと俺とは、夫婦だな?めおとだな?つがいだろう。むしろそれは、絶対に避けるべきではない日ではないのか?危険どころか、安全安心安泰そのものだろう!」
「でも、でも、がくぽさま………っ!」
ぐっすんと洟を啜り、カイトはうるうるに潤んだ瞳でがくぽを見上げた。懸命に瞳を瞬かせて涙を飛ばそうとするが、堪えきれない。とうとう、ぼろりと雫が溢れた。
「ぼく、ぼく、ニンゲ……っなくて、……っだも………っ!ぼくとのっ、………なんて。や、じゃ………」
「厭なわけがあるか!!」
ぼろぼろにこぼれる涙とともに吐き出された言葉は途切れ途切れで、聞き取りにくいことこのうえなかった。それでもカイトがなにを言わんとし、なにを思っていたのかは伝わる。
がくぽが予想もしなかったところに、劣等感を持っていたらしいと。
意外な思いに駆られながらも、がくぽは即座に否定を叫んだ。
男だから、出来ないことがある、と――
単にそこにだけ引け目を感じているのかと思えば、己の出自に関してもそれなりに、がくぽに対して負うものがあったらしい。
しかし言うが、無用のものだ。もちろん、男だから出来ないことがあると、その常識的な部分に関してもだが、どちらであれ、無用は無用だ。
がくぽにとってカイトは、『妻』だから価値があるのではない。
カイトがカイトだから、価値があるのだ。傍に置き、愛おしみ慈しむのだ。
「厭なわけがあるか、カイト……そなたのすべてが俺の悦びであり、望むものだ。なにを引け目に思い、負うことがある?そなたがそなたであるから、俺は求めずにおれぬし、欲して手を伸ばすのだろうが」
「が、がくぽ、さまぁ………っ!」
ぐずぐずになったカイトが腕を伸ばし、諭すがくぽの首に回してきゅっとしがみつく。大人しく体を落としてやりつつ、がくぽは短い髪をやわらかく、丁寧に梳いてやった。
「仕様のない子だ。俺の情を疑うなど、本来、妻であっても赦されぬぞ?言ってもそなたは未だ幼い。此度は見逃そうが………」
「んっ、んぇっ!ごめなさ、がくぽさ………っごめな……っんんっ!!」
泣きながら謝罪を吐き出すくちびるを軽く塞いでから、がくぽは興奮に熱を持つ額にこつりと、己の額を合わせた。
間近過ぎて見えないことはわかっていても、微笑む。
「そういうわけだ、カイト。もはや問題はなかろう?いや、むしろ今宵、夫を拒むことのほうが問題だと、わかるな?そなたは未だ幼いが、学ぶことを知っているものな?」
「はぃ……っ」
からかうような口調で諭すがくぽに、カイトは未だぐずぐずと洟を啜りつつもこっくりと、素直に頷いた。
その顔に、花が開くような笑みが戻り、がくぽの首に回した腕に力が入る。
「はい、がくぽさま……してください。僕のおなか……いっぱい出して、がくぽさまのあかちゃん、くださいvvv」
「という夢を見ましたの」
枕元に立って訥々と語った女性に、がくぽは壮絶に眇めた目を向けた。
白んできてはいるが、未だ暗い時間だ。ひとを訪ねる時間だろうか。
いやそもそも、ここは領主の屋敷で、領主の寝室だ。そして中では領主とその妻が、すやすやおねんね中だった。
こんなところに客を通す莫迦はいない。少なくともがくぽは、自分が抱える家宰にも女中にも、そんな輩はいないと自信があった。
もうひとつ言うなら警備態勢だが、いくら領内が落ち着いていて治安もいいとはいえ、気を抜いているわけではない。手も抜かず鍛錬に勤しみ、ましてや領主の寝室近辺に配置するとなれば、それこそ精鋭を――
それでも枕元に立つ、垂らし髪のうら若き女性。
白んだ程度の明かりであっても、彼女の胸がことに大きく豊かで、でありながら腰回りは気持ちよく、きゅっと締まってくびれていることがわかる。男なら老若問わず目を奪われる、素晴らしい体型だ。
もちろん体型だけでなく、容貌も優れた女性だ。玲瓏としたと表現してもよく、ぼやけた瞳は神秘的で、じっと見ていると吸い込まれそうでもある。
名をルカと言う。カイトの係累たる封じ森の五魔女――その二番目を取る姉妹だ。
「あまりにはっきりと明確な夢で、単なる夢という気が致しませんでしたの。カイトの身が案じられて、あたくし、いてもたってもいられず」
「夢は魔女の領分ゆえ、俺はなにひとつとして反論しないし、そもそも反応すらもせんが、ひとつ聞け、魔女」
明け方の不法侵入の理由を訥々と語るルカに、寝不足も相俟って普段以上に険しくなった不機嫌顔で、がくぽは吐き出した。
「俺とカイトを勝手に夢に出すな。出演料を寄越せ。しかも夢とはいえ、カイトを泣かせたな。詫び料と慰謝料も併せて請求しよう。ついでに、俺の睡眠時間とカイトと二人きりで過ごす時間を奪った、罰金も置いていけ」
「……それはひとつですかしら。あたくしはどれを聞けばよくて、どれを聞かずにおけばよいかしら、カイト?」
ことりと首を傾げてつぶやいたルカに、がくぽの腕の中ですやすやと眠っていたカイトの瞼がぷるぷると震えた。ゆっくりと手が上がって、こしこしと瞼をこする。
ふんわりほわんと視線を向けて、カイトはもったりと口を開いた。
「んー……んぇ?あー……ぅかたんー……」
「なるほど!ではすべてを聞かなかったことにいたしますわ、カイトの言う通り!」
「ほえ?」
「言っておらん!捏造するな!!賠償金と弁償金も払っていけ、そなた!!」
確かに捏造には違いない。
が、がくぽだ。
先からの発言を振り返るに、ルカの感想はこのひと言に尽きた。
「人間、眠気があると本性が隠せず出ると言いますけれど……本音がだだ漏れではなくて、貴方?この守銭奴の吝嗇家な金亡者」
「喧しい!」
「がくぽさま?」
半身を起こして威嚇するがくぽに、未だ寝台に転がったままのカイトがきょとりと目を瞬かせる。
事情を推し量るような間があり、ややしてカイトは多少慌てた様子で、寝台脇に立つルカと、剣呑に睨みつけるがくぽとを、見比べた。
半身を起こすがくぽの胸元を掴むと、きゅうっと引っ張る。
「そういえば起きたのに、ちゅうしてないっ、ですっ、がくぽさまっ!」
「なに?!」
「タイヘンっ!」
「ちょ、まて、かぃ………っ!!」
――事情を推し量る過程で、どうやら他ごとに気を取られたらしい。
カイトは引き招いたがくぽのくちびるに、ちゅううっと吸いついた。ちゅっちゅっちゅと、口づけをくり返す。
確かにこれは、カイトの習慣だ。起きたなら、まず真っ先にがくぽのくちびるに吸いつく――
「やはりあたくしの懸念は正しかったのですわ。こんなおばかっぷりでは、間違いなく近いうちに、きっと……!」
客の存在をすっかり忘れ、もしくはきっぱり放置を決め込み、互いに溺れる領主夫婦を眺めつつ、ルカはきゅっと拳を握った。それでも言葉はあくまで訥々と、懸念を吐き出す。
「いくらカイトの子とはいえ、あたくしのことを『おばさん』だなんて呼ばないよう、躾を練らなくてはいけませんわ。なにしろ、カイトの血だけを引くわけではありませんもの。この銭亡者の変態色欲魔王の血も引くんですわ……よくよく覚悟してかからなくては!」
言葉は訥々としながらも、ルカはぶるりと武者震いしてさらにきつく、拳を握った。