ヘンぱんつの変
「がーくーぽーーーっっ!ぱんつっっ!!」
「あー………うむ。よしよし……」
リビングの扉をどかんと、爆発するような勢いで開くや否や、どどどどと走って来て飛びついたカイトを受け止めてやり、がくぽはとりあえず頷いた。頷きつつ、カイトをよっこらせと抱き上げる。馴れているカイトの足もすぐさまがくぽの腰に回って、しっかりとしがみついた。
「ヘンぱんつっ!がくぽっ!」
「うむ。良かったな……」
その状態で得意げに主張するカイトに、がくぽは曖昧かつ無難に返した。なぜといって肝心の下着を、がくぽはきちんと見ていないのだ。
がくぽの動体視力は悪くはないが、勢いよく走ってくる相手の下着の柄をつぶさに観察していたわけではないし、カイトがリビングに入って来てから飛びつくまでの、掛かる時間も時間だ。
さらに重ねてこういった体勢となってしまうと、下着をまざまざと観察するどころではない。
というような内実を、がくぽは特に説明しなかった。説明したところで理解できるカイトではないし、理解してほしいわけでもない。
ことに、今回のような内容だと。
「ナエた?」
「………」
無邪気かつ、きらきらしい顔で覗きこまれ、がくぽは口を噤んだ。ナエただのナエだの、そんな言葉をどこの悪い鋺-かなまり-に教わったのかと問い質したいが、堪える。いつもと違い、鋺云々ではないのだ。
そもそも今回の内容、参加しているイベントだ。『なえなえ変柄おぱんつ大作戦』という。
名前からしてだめだ。だめなところは多々あるが、ひと言で言い表すなら、カイトの健全育成的に。
ぐぐぐっといろいろなものを堪えているがくぽに、カイトは腕の中できょときょとんと首を傾げる。
「ナエない?」
――だからがくぽはその、カイトが穿いたという肝心要のブツである、『思わずうっかり萎えてしまうような変柄ぱんつ』を見ていない。むしろ、下着一枚の姿になったカイトの素肌しか見ていない。
結論。
「がくぽ?」
「うむ……」
「あー、カイトかいとー。とりあえずな、がくぽにぱんつ、見せてやろうなー?見ないと、がくぽも判断つかないしなー」
「マスター?」
答えをせっつくカイトと、堪えるものが時々刻々と多方面へ増殖していっているものの、言葉にうまく表せないがくぽと――
カイトを追ってリビングに来てから、とりあえずは扉の近くに待機し見守っていたマスターだが、見かねて声を掛けた。
この二人、一応は相思相愛な仲だが、意思疎通の面で非常に難がある。見た目や関係性ともあれ、カイトはあまりに子供過ぎ、そしてそんなカイトを『育てて』いるがくぽもがくぽで――
とにもかくにも、マスターがたびたび仲介に入ってやらないと、なにがどう転がっていくのか予測がつかないのが、この二人なのだ。ましてやこんなイベントとなれば、なおのこと。
舵が取れないのは怖い。
というわけで助け舟を出したマスターだったが、マイペースが服を着た――今は下着一枚しか着ていないが――と言われるカイトだ。
マスターの言葉に、がくぽにしがみついたまま、不思議そうに首を傾げた。
「『みる』?」
がくぽは起きているし、目も開いている。悩んではいるが、意識を飛ばしているわけでもなく、目を閉じているわけでもない。
『見え』るし、『見て』いるはずだ。なにかしらは。
いったいどういうことだと理解が及ばないカイトへ、マスターは苦笑した。
「うん、カイト。あのな、そうしがみついたら、がくぽも下着、見えないと思うんだな、マスターは」
「そうなの?」
「うむ…」
マスターから顔を戻して訊いたカイトに、がくぽは頷いた。下着は見えない。身を乗り出すなり、姿勢に工夫をすれば見えるかもしれないが、現状、そこまではしていない。するべきかの判断もつかない。
ゆえにがくぽに見えるのは晒されたカイトの肌であり、詳細に言うなら、なめらかな肩で、浮かぶ鎖骨で、ぎりぎりのところで薄いピンク色の以下略。
「じゃあ、……………」
言いかけて、カイトは口を開けたまま止まった。しばし止まってから、眉をひそめてくちびるを尖らせてと、今度は百面相をくり広げる。
がくぽとマスターが痺れを切らして問いを放つところで、カイトはようやく、言葉を続けた。
「……おり、…………る……?」
「そこまで抵抗のあることか、カイト……!」
マスターはそっと横を向き、目尻を拭った。
さんざん間を空けたうえに、どもりどもりの渋々で、しかも疑問形だった。どれだけ、がくぽに抱っこされていたいのかという話だ。どれだけでも!と、カイトは威風堂々答えるのだが。そしてがくぽも、どれだけでもと、同意するのだが。
そして、そのがくぽだ。
「降りたいのか」
真顔で訊く。
だけでなく、カイトを抱える腕にもわずかに力が入った。離したくないと、降ろしたくないと――
これが単に、降ろしたら変柄ぱんつを見なければいけないじゃないかという、抵抗感からなら、いい。
しかしマスターは、賭けられた。いや、言い切れた。
ただいまのうちの子、がくぽの頭の中に、変柄ぱんつのことは一切ない。忘却の果て、彼方の水平線だ。あるのはただ、カイトを離したくない、降ろしたくないの一念のみ。
カイトもマイペースの塊だが、実のところ、がくぽもマイペースの極みだ。非常に淡々と端正かつ端然と、己の道を己の歩きたいように歩く。
もちろんマスターの育成の成果というものだが、しかしかかし。
「おr」
「よし降りよう、カイト!がくぽもカイトを降ろそうな!とにかく話を進めてとっとと終わらせて、そんで改めて抱っこにしなさい、二人とも!」
話が終わらないループに突入し無為に長引く前にと、再びマスターは介入した。結果、溺愛するロイド二人から、じっとり目で見られるという拷問に遭った。
どれだけ抱っこが好きなのかと――どれだけでも!と、二人して答えることはわかっているので、マスターはわざわざそこにツッコむような愚は犯さなかった。
ひたすらに黙って、視線の拷問と己の目頭にこみ上げてくるものを堪える。
「………カイト」
「んー」
――マスターが堪えきれなくなって男泣きに入る前に、がくぽとカイトはなんとか思い切った。がくぽが促し、カイトはいかにも不承不承に、腰に絡めていた足を緩める。
がくぽはカイトが足を傷めることのないよう注意深く、きちんと地についたことを確認してから、腕を離した。
さらには一歩下がって距離を取り、カイトの全身を眺める。
「ぱんつ!!」
カイトといえば一瞬で気分を入れ替え、威風堂々と胸を張った。
下着一枚穿いただけの、全裸にも近い状態だ。しかし恥じ入る様子もなく、悪びれるふうでもない。威風堂々としか言えない、ご立派な態度だ。まさに幼児以下略。
カイトは胸を張るだけでなく、わずかに腰を突き出すようにして、がくぽに下着の柄がよく見えるようにもした。
まあ、つまり、言うなれば、
「……………いつもと、なにが違う?」
たっぷり観察する時間を取ってからの、端然としたがくぽの問いに、カイトはきょとりと無邪気に目を瞬かせた。一度俯いて、今穿く下着を確かめ、首を捻りひねり不思議そうに、がくぽへ視線を戻す。
「いっつもちがうの、はいてるよ?」
「うんうんそうだな!毎日ちゃんと着替えててエライけど、でもそういうことじゃないなー、カイト!」
会話はキャッチボールに喩えられる。しかしカイトはボールをキャッチせず、ファウル方向へ高くかっ飛ばすことを得意としていた。
がくぽが言いたい『いつもと違わない』は、そうではない。
着替えもせず、毎日同じ下着だという意味では。
ちなみに、カイトは確かに毎日、上から下からすべて着替えてはいたが、自主的にではない。カイトの着替えはすべて、がくぽが行っている。強制であって、カイトに選択権はない行為だ。着替えて偉いのどうのという話でもない。
今回のイベントに関してのみ、初めてマスターに任せたが、そう、『任せた』のだ。カイトがひとりでぱんつを穿き替えたわけではなく、任せると言っても、がくぽの様子は不本意の不承不承もいいところだった。
どれだけがくぽが普段、カイトの身辺の世話に気合いを入れているのかということだが。
それはそれとして、カイトの着替えをがくぽが行うという点について、重要な註釈がひとつある。
少なくとも、がくぽが関わるのは着替えるという『行為』のみだということだ。
着るものの組み合わせを考えたり、もっと言って、着るものの購入時に柄を選ぶとなると――
懸命にボールを戻そうと奮闘しているマスターに、がくぽは端然としたまま向き直った。
「たとえば白ブリーフだとか、もしくは黒色だのグレーだのといった、シンプルシックなボクサーでも穿いていたほうがまだ驚くし、むしろ退くが」
淡々と言うがくぽに、カイトは自分が穿いた下着――諸々省略して簡単に説明するなら、『大漁旗』をモチーフにしたトランクスだ――を確認する。
話は下着のはずだ。そして柄は『大漁旗』だ。
「ぶり……サカナ……?ぼく、ボクサー………ぼく……ぶり………ぶりボクサー?サカナボクシング?ボクシングサカナ?それおいしい?いたい?おいしい?」
――マスターの奮闘も虚しく、今日もボールはどこかへ飛んで行った。
「がくぽ?」
「ああ、まあ。………痛いかもしれんが、美味しいだろう、たぶん………マスターの作るブリのたたきは、カイトも好きだったな?」
大量のハテナマークを飛ばす『なぜなぜなあに』期のカイトに、がくぽは手を伸ばしながら答える。
下着の種類を示すブリーフとボクサーという言葉がサカナボクシングという新ジャンルの娯楽だかスポーツだかに変身し、そして『たたき』という料理に――
発想が柔軟だ。そしてある意味、キャッチボールが成立しているような気がしてきた。
「うん!おいしい!!俺、みょーがもシソも、たたきなら食べらいるよ!!」
「ああ。偉いな、カイト」
「んっ!!」
伸ばされたがくぽの手にカイトは素直に招かれ、ぴょんこと飛びついた。いつも通りの抱っこに落ち着いて、がくぽの肩にねこのようなご機嫌顔で擦りつく。
抱えたがくぽも、仄かに表情を和ませた。擦りつくカイトの頭に頬を寄せ、花色の瞳を細める。
大団円だ。少なくとも、ご本人たちは。
大団円に混ざれないマスターは項垂れて床に膝をつき、涙を拭っていた。
「違うぞカイト、がくぽもだ。違うんだが、うん、………がくぽ。苦労しているな。強いこに育ったな………なんだかおかーさんは、涙で前が見えないぞ?」
「そうか」
がくぽは端然と頷いた。頷いてからなにかに気がつき、わずかに首を傾げる。
カイトを抱っこしたまま、項垂れるおかーさんもとい、くま太郎なマスターを見下ろすと、がくぽは仄かな困惑とともに疑問をつぶやいた。
「ところで、俺が記憶するに――少なくともカイトの下着は日常、すべてマスターが選び、買い揃えていたはずだが……」