ぱたんとノートを閉じて、朝から晴れ晴れな空を見上げた。
今日も暑い。
連続打点王の栄光と凋落
そろそろエアコン入れたい。
午前中から入れるとおかんに怒られるけど、正直すでに猛暑だと思うんだよね。南向きのリビングって、冬はいいけど、夏はふっつーに地獄じゃないかと。
しかも最近、日が伸びて、部屋の中に陽射しが入りこんで来るから、なおのこと。
稼働していないエアコンを恨めしく見て、流れでカレンダが目に入って、思わずため息をこぼした。
「あーあ。夏休みもそろそろ終わりかあ」
毎年八月のこの時期になると、やり残したことばっかり思い浮かんで、妙に切ない。
この切ない気持ちを引きずったままに新学期を迎えて、切ない季節の秋とかに突入するから、これは切ないの計画犯行じゃないかと疑っている。
秋の切なさを倍増させるために、敢えて八月で夏休みを終わらせる…………教育委員会は子供のなにを育成したくて、そんな罠を連綿と張り続けているの?
切ないと主に、恋愛意欲が高まるよね。
切ない、寂しい→コイビトとあっためあいたい。
ちょっと待て………教育委員会といえば、ヒステリックなまでに学生の健全交際、もしくは交際禁止を謳っているはず。それがわざわざ恋愛意欲を高まらせるようなことをするということは…………。
「全学生禁よ」
「ない」
真実に気がつきかけた俺の背に、達樹が足蹴を入れる。
「なにを考えたにしろ、すべてが妄想で電波で根拠もない夢想だ。世の真実はそこまで捻じくれていないし、現実はもっと単純かつ明快で素直だ」
「いや達樹さん、甘いよ!それって、タクシー屋さんに『イギリス情報局本部に連れてってください』って言うときちんと案内してくれるのに、そんなもの存在しませんって言い張ってた過去の英政府を本気で信じてたレベルで危険だよ!!」
「どうでもいい」
「っだ!!」
またしても背中に足蹴。
なに、今の達樹の気分は、地べたに俺を踏みつけにして服従させたい、ちょっぴりSな感じとか?それ言ったら、達樹の気分は常にSだけど。
ちなみに否定一転、新聞広告でメンバー募集を掛ける、今の英政府の開き直りぶりもそれはそれでどうなのっていう感想はある。
しかし確かに、英政府がなにをどうしようとどうでもいい。問題は俺たちが所属する日本政府の教育委員会が連綿と企み続ける――
「達樹さん、どうでもよく」
「それより、社会性動物人間としての最低限の義理と恩情で訊いてやるが」
「ん?」
俺の背中に足を置いたまま、達樹はふんぞり返って訊く。
なんだろう、やっぱり今の達樹の気分ってS?跪いて足を舐めろ、犬!とか?ええ、すっごいきゅんきゅん来るんだけど!!
踏まれたまま見上げた俺を、達樹はきりりと睥睨する。
「夏休みの宿題は終わったのか?」
「んあ」
なにを訊くかと思えばそんなこと。
俺は手に持ったままだったノートをひらひらと振った。
「もち終わったよ。カンペキ!」
「ほう?」
信じてなさそうに、達樹は顎をしゃくる。
俺は手に持っていたノートを、達樹にも見えやすいように示した。
「ちゃんと今年も、一日も欠かさず朝顔の観察日記つけた!!」
「そんなに小学校が好きなら、小学校へ還れ!!」
「っぁっだだ!!」
悲鳴を上げる俺にも構わず、達樹はぐりぐりと背中を踏む。
「今年もか!!今年もなのか!!今年も朝顔の観察日記だけを提出して終わりにする気か!!」
「いや達樹!!読書感想文も書いたよ!!」
伊達の反省文常連者じゃない。文章書くのは結構苦にならないから、さらさらっと終わらせた。
どんどん床に近づきながら主張した俺を、達樹は容赦なく踏み続ける。
「心底どうでもいい!どうしておまえはそう、毎年まいとし、朝顔の観察日記ばかり!!」
「だってうちの伝統だもん!」
とうとう床にべったり懐いて、俺はSな達樹を堪能しつつ、叫んだ。
「親父の代から毎年、夏ったら朝顔を育てて観察日記をつけてんだよ!幼稚園くらいから引き継いでずっとやってんだから、今さらこの年で止めるってのも難しいじゃん!」
「は?」
叫んだ俺に、達樹の足から力が抜けた。そのまま俺の上から退くと、ベランダを見る。
そこには、朝顔の植えられたプラの鉢植えが置かれている。
今年もきちんと面倒を見て、枯らすことなく花を咲かせることが出来た。あとはこれが種をつけたら、それを収穫して来年に備えれば、万全。
睥睨していた達樹は俺の傍らに座りこみ、ベランダの朝顔をまじまじと見た。
「うちの朝顔の種は、小学校で配ってるようなのとは年季の入り方が違うよ。すでに初代から数えて、三十代目に入っています!!」
起き上がって解説すると、膝を抱えてしゃがみ込んでいた達樹は、小さくため息をついた。
「………それだけやってて、品種改良に目覚めるわけでもなく、しかも安っぽいプラ容器で育てて、観察日記をつけるだけ…………なんつー無駄な父子だ…………」
いやそんな、無駄って。
「続いていることに意味があるとは思わないの、達樹さんは?」
「続いていればなんでもいいという風潮には反対だ。悪政も紛争も続いているからといって、意味があると言えるか?」
「まああれは、終わって初めて意味を持つね」
確かになんでも、続けばいいってもんじゃないことは認める。でも、帝政下の共和国の素晴らしかったことよ、とか言うやつもいるから、ひとそれぞれってもんで、そこはなんとも言い難いけど。
頭を掻いた俺を、達樹は眇めた目で見た。
「で?その他の宿題は?」
「そのたのしゅくだい?」
思わずそのまんまくり返す。
その他の宿題って…………。
手に持ったままのノートを見て、首を傾げた。
「ほかになにが、っとと!」
高速で飛んできた平手を、寸でのところで避ける。もうほんと、どうしてこう手が早いかな、このコイビトは!
用心のためにちょっとだけ距離を開けた俺を、達樹はきりきりと睨んだ。
「他になにが以前に、そもそも高校生にもなって朝顔の観察日記なんざ、どっこの教師も宿題として課してないだろうが!その他の、数学やら化学やら、もっさり出たプリントの話だ!!」
「大丈夫!!」
怒鳴られて、俺は胸を張った。
「すでに焼却処分場送り済!!っのわっっ!!」
しゃがんだ状態で足が伸びて来て、俺は慌てて飛びのく。
達樹さん、運動神経鈍いはずなのに、こういうのだけは妙に動きがいいんだよね。好きこそもののあはれなれってやつなのか。
さらに距離を開けた俺をそれ以上追うことはなく、達樹は眉間を揉んだ。
「今年もか………今年も、なにひとつとして宿題をやらずに、休み明け早々に教師と闘う気か………」
「いや達樹、観察日記と読感は書いたって」
なにひとつとしてやってないわけじゃない。単に、やりたくないことはやらないだけ。
「それに少なくとも、春木とは話がついてるよ」
「あ?」
数学担当でもあるクラス担任の名前を出すと、達樹は胡乱そうな目で見てきた。
俺は肩を竦める。
「新学期始まったとこで特別テストを受けて、きちんと及第点を取るなら、宿題ボイコットしてもいいって」
「……」
達樹はますます胡乱そうに、目を眇めた。
「及第点って?」
「確か八十五とか言ってたかな」
「……」
たぶん春木のことだから、「トクベツ」と銘打った時点で、通常のテストでは出さないような捻くれた問題を出してくることが、簡単に予測つくけど。
電波受信塔がないと会話が成り立たないとか、反応が予測つかないとか、いろいろあるやつだけど、そういうとこだけは予測できる。
まあだから、ふっつーに勉強してっても、無駄だよね。教科書通りのことなんか、出すわけないんだから。
「で?」
「ん?」
「及第点を取れなかったら?」
「ああ」
もちろん、そこらへんの条件付けもしっかりされた。宿題にプラスして特別テストまで作らされる、給金に見合わぬ労働を強いられる自分の手間と心労というものを考えろとか。
でも教師だし、それって職分の一環じゃないかと思うんだけど、そこは俺にも言わないでおいてやるという情けがある。
「反省文十枚。なんだっけ、『夏、カワウ、スキー』の三題を使って、うまくまとめろって」
「……」
「プラス、中間テストの追試問題を替わって作れって」
「…………………」
達樹は眉間を揉み、深くふかくため息をついた。再びベランダを見て、きれいに花咲く朝顔を眺める。
「教育委員会に訴えるべきかどうかが、いつでも悩ましいんだが」
「んえ?」
きょとんとしてから、思い出した。
教育委員会ったら、日本の学生に連綿と罠を張り続けていることが、ついさっき発覚したところだった。
「達樹、教育委員会に訴えても無駄だって。やつらは全学生に禁欲主義を強いながら、実のところ学生の不健全交際を助長すべく、夏休みを秋直前で打ち切り、切なさとやるせなさを倍増させる計画を連綿と受け継いできた、悪の組織なんだから!!」
まさに続いていればいいってもんじゃない、悪の極みの企み。
そうやって自分たちで不健全交際を助長しておいて、いざ生徒が罠に嵌まると、一気に足を掬い上げ、人生泥沼に落としこむ悪辣ぶり。
判明した真実を突きつけた俺に、達樹は滑るように足を飛ばしてきた。避けきれず、俺は足を払われて床に伸びる。
立ち直る隙もなく、達樹は叫んだ。
「意味不明だ!!」