空気が持ち上がって、粘度が増す。

外を見ると、雨が降り出したところだった。

スパイラルスターたる謂れ

「あああ、今年も天の川見らんないよ。思うに梅雨に星空観察系行事があるのは無駄の極みだよね!」

「まあ、そこは同感だな」

珍しくも聡がまともな感想を言ったので、とりあえず同意した。

後ろを向いて俺の机に懐いている聡は、恨みがましそうに雨雲を眺める。

「これじゃ、いつになったら俺のお願いが叶うかわかんないじゃん」

「…」

まともなことを言ったと思った俺が早計だった。こういう単純なミスがテストにそのまま出て、点数として返ってくるんだ。

反省しながら、ノートにメモを書きつける。

「わかりきったことを訊くのもどうかと思うんだが、一応人間の義理として訊いておいてやる。願い事ってなんだ」

ほんとうに訊く必要なんかないんだがな。だいたい答えはわかっているし。

「世界征服」

「よし、宇宙に帰れ」

「いきなり!」

ほんとうにまったく確認する必要がなかったな。

どうせこいつは小学生のときからずっと、短冊には「せかいせいふく」と書いてきただろうと思ったが、そのまんまだとか。

「達樹さんはそうやって馬鹿にするけどさ、俺が世界征服した暁にはテストなんてまず、いのいちばんに廃止してやるからね恩恵に与れるんだってことを忘れないでよ!」

ばんばんと机を叩きながら、聡はヒステリックに喚く。

期末テストも最終日になると、こいつのフラストレーションも最高潮で扱いが面倒だったらない。

勉強ができないならテスト嫌いもわかるが、勉強しなくても点が取れるこいつの、このテスト嫌いは理解不能だ。

「それで、世界征服の具体案はどこまで進んでいるんだ」

気を逸らすために話に乗ってやった俺に、聡はまた机に懐いてしらっと答えた。

「町内中の笹に短冊吊るした」

「凄まじいまでに他力本願だなまさか名前書いてないだろうな」

「名前?」

「短冊に」

「書いたよ、フルネーム。匿名じゃだれがお願いしたか、天の川がわかんないじゃん」

ツッコミどころが多過ぎてどうしたらいいのかわからない。

途方に暮れる俺に構わず、聡は親の仇でも思い返しているかのような顔で天井を睨む。

「とにかく、まずテストを廃止するよ。期末も中間も学年末も、テストというテストは全部廃止してやるからね!」

なんというか、卑小な動機にもほどがある。とはいえ、壮大な動機ってなんだと訊かれると答えに窮するが。

結局、世界征服なんて始めるやつの動機はこういう小さなものの積み重ねだろう。塵も積もれば山と成るらしいし。

「世界征服した暁にすることがテストの廃止だけか。美少女ハーレムはつくらないのか」

教科書を確認しながら適当につぶやいた俺に、聡が黙りこむ。

ややして、ごく不審げな声が応えた。

「びしょうじょはーれむ?」

「…好きだったろう美少女がいっぱい出てくるゲーム」

俺のほうこそ意外で、つい教科書から顔を上げて聡を見る。

中身はよく知らないが、とにかく「美少女がたくさん出てくる」ゲームを結構持っていたはずだ。

きょとんとしていた聡は、俺の言葉に盛大に顔をしかめた。

「ゲームでしょそりゃゲームなら男がいっぱい出てくるゲームより美少女出てくるゲームのほうがいいに決まってんじゃん。でも現実でまで要らないよ。達樹さんがいるんだから」

「…」

なんでこいつはこう、返す言葉に困るようなことを、平然と、真顔で。

咄嗟に応じられずに、俺は目を瞬かせて聡を見る。

そんな俺に構わず、聡はなにか閃いたようにぽん、と手を打った。

「そうだよ。達樹がいればいいってことは、達樹ハーレムってどうよ?世界征服した暁には、地球人類総達樹計画すべての人間を達樹に。右を向いても左を向いても達樹さん」

「…地獄のようだな。同じ名前に改名したからなんだ」

冷たくつぶやいた俺を、聡は呆れたように見た。

「なに言ってんの達樹名前だけ『達樹』でも仕方ないでしょうが。もちろん、人格改造して、ボディも改造して、完璧達樹さんにするに決まってんじゃん」

なんでそんな簡単なこともわかんないのとでも続きそうな口調だ。

俺の目が据わるのが、自分でわかる。

「…金と技術力が果てしなく必要な改革だな」

「でもやる価値あるでしょ。世界平和も人類和合もすべて達樹さんならオールクリア。ついでに世界の覇王の俺もたくさんの達樹さんに囲まれてこれ以上なくしあわせ。見ろ、付け入る隙がない!」

得意そうに吼える聡に、俺は平手を飛ばした。

聡はぎりぎりのところで避ける。

なんて生意気な。

「ちょ、達樹?今、ものっすごい風切音したこれっぽっちも手加減しないで手ぇ飛ばしてない?!」

「やかましい!!」

ぎゃあぎゃあ喚きたてる聡に、俺は机を叩いて叫んだ。

「この根腐れ脳俺はおまえなんてひとりいれば十分だからないいか、おまえなんてひとりで十分だひとり以上なんて要らないからな!!」

「なに、達樹さん……?」

怒鳴られて、聡が瞳を瞬かせる。

俺は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

ああ、むかむかする。

ほんと俺はなんでこんなのがいいとか、こんなのが好きだとか、こんなのじゃないと嫌だとか。

「ああ!」

ややして、聡が声を上げる。それから、慌てたように身を乗り出した。

「やだな、俺だって達樹さんはひとりで十分満足してるったら俺が愛してるのは達樹さんだけ、この愛も真心も達樹ひとりのものだって!」

「知るか、この浮気者。とっとと母星に帰れ」

俺は聡から顔を背けたまま、冷たく吐き捨てる。

なにが俺ひとりだ。わりと本気でハーレム計画立ててたくせに。

人格も体も俺になったって、俺は『俺』だけなのに、そんなこともわからないとか、こいつは本気で頭が悪い。

たとえ俺より勉強が出来たとしても、頭が悪い!

「俺は勉強するから、邪魔するな」

聡の顔を見ないまま、俺は教科書を取ると頭から被って机に伏せた。

「わあ達樹さん斬新な勉強法だねってか、もしかして泣いてたりするのええちょ、あと一教科だよそれなのにここでぐずぐずになったりしたら、結果返ってきてから、達樹さんまたぐずぐずになってぐずぐずループしちゃうじゃん!」

ぐずぐずぐずぐずうるせえな!

俺だってこれくらいのことでそんなにヘコみたくねえよでもなんか立ち直れないくらいヘコんだんだから仕方ないだろう!

別に泣きはしないがな!

さらになにごとかぶつぶつつぶやいていた聡は、ふいにすべての動きを止めるとそのまま動かなくなった。そして、……。

「…?」

この騒音星人があまりにも静かなのにさすがに訝しさが募り、俺は少しだけ顔を上げた。

埴輪か土偶のような顔をした聡が、じっと虚空を見つめている。

まともなことがないこいつだから今さらどうでもいいぐらいに異常事態でもなんでもない気はするが、瞬きもしないでそうしているのはいくらなんでも気味が悪すぎる。

「おい?」

声を上げた瞬間、聡の手が伸び、俺の頭から教科書を素早く持ち上げた。咄嗟に抵抗しようと意識が手に行き、それ以外の神経がお留守になる。

「…っ!」

勢いよく近づいてきた聡のくちびるが俺の額に歯を立てない程度のキスを落として、素早く教科書の蓋がされた。勢い余って机に額をぶつける。痛い。

自分で伏せるのではなく、聡に押さえつけられて、俺は小さくもがいた。

「ほんとごめんったら。さすがに今のは俺があんまり考えなしだった。達樹がいっぱいいたって、『達樹』は達樹だけなんだって、ちょっと考えたらわかったのに」

「…」

珍しくも殊勝らしい声で言う。

「ナンバーワンよりオンリーワンだよね」

一気に安っぽくなったな!

そこまで言って、ようやく聡は俺の頭を押さえつけていた手を放した。

俺は顔を上げて、机とキスしたでこを擦る。聡式に言えば、衝撃で勉強した中身がこぼれた、だ。

「気がつくのが遅いんだ」

「うん、ごめん」

素直に謝る。反省してますの顔だ。

俺は手を伸ばすと、項垂れる聡の頬を軽くつねった。

「天の川なんかに頼まなくても、おまえは自力で願いを叶える気がするけどな」

「うんまあね。俺だからね」

…あっさり乗っかったな。ほんとに反省したのかこいつ。

疑わしい眼差しを向ける俺に、聡はへらりと笑った。

「そういえば、達樹はなにお願いしたの?」

「いちごババロア」

「はい?」

きょとんとして訊き返してきた聡に、俺はもう一度くり返す。

「だから、いちごババロア。最近暑くなってきただろ。ババロアがうまい季節だから」

「…ええっと、達樹さん……」

聡はなんとも言えない顔で口ごもる。

結構深刻な願いなんだぞ。最近、どこの店に行ってもババロアってあんまり見ないんだ。それがさらに「いちごババロア」なんてなったら、もう、母親に頼みこむしか道がないくらい、どこにも見当たらないんだ。

口の中でもごもごと言葉を転がしてから、聡は人差し指を立てた。

「あー。ババロアは無理だけど。俺、フ○ーチェならつくれるよ。テスト終わったら帰りにスーパー寄っていちごのフ○ーチェ買って、うちでつくって食べる。どう?」

「まあ、おまえにしては悪くないアイディアだ」

頷いた俺に、聡は得意そうに笑った。

「任せてよ。達樹さんの願いなら短冊なしでも年中無休で叶えちゃう、それがスーパー天の川俺」

「ああ、近所にありそうだ。モールだとなお便利なんだがな」

「そっちのスーパーじゃないよ?!」

乗っかるとどこまでも図に乗るとわかっているので適当に答えた俺に、聡は机に突っ伏した。