「達樹好き」
「――」
――は?
クラスメイトの騒ぐ声に紛れて、今、すごくばかみたいな聞き間違いをしたような。
偏愛系カタストロフ
「あれ?あ、違うわ。違わないけど。だからここでxを代入すんの。そうすると答えになるでしょ。教科書の…えっと、三十何ページかの公式の応用」
「――」
そうだよな?今、俺たちはテストの答え合わせをやっていたよな?
聡は解説中で俺は受講中。
「わかった?わかんない?」
聡は何事もなかったかのように訊いてくる。
やはりここはスルーするべきなのか。いやむしろ、したほうがいいんだろう。
あまり突っこんで考えると墓穴を掘りそうな気がするし。
「――わかった」
言われたとおりに数式を解き、教科書を開いて確認。
どうも俺は応用問題が苦手だ。少し問題をひねられたりすると、もうどの公式を当てはめればいいかわからなくなってしまう傾向にある。
こういうのは数をこなして慣れていくしかないと、教師も塾の講師も言う。
しかし決して数をこなしてはいない聡がさらっと得意だったりするので、自分がよっぽどばかなんじゃないかと思えて少しへこむ。
「やっぱ好き、達樹」
「ふざけろ」
公式とにらめっこしていたら聡がぼけぼけとつぶやいたので、平手を飛ばす。
どこにどんな脈絡があった、今。
しかめっ面で教科書から顔を上げると、聡は赤くなった額を撫でて口を尖らせていた。
「なんでふざけんのよ。俺の達樹に対する気持ちは常に真剣まっすぐですよ」
「脈絡がない。ばかにされてるとしか」
「どこに脈絡がないの?!俺はいつでもどんなときでも達樹大好きビーム」
「黙れ下郎!」
興奮して大声を出し始めた聡の顔面にもう一度平手を飛ばす。寸でのところで避けられ、鼻を掠めて終わり。
「大声を出すな、控えろ」
声を低めて釘を刺すと、聡は大いに不満な顔になった。
「照れ屋なんだから、達樹さんは」
「寝腐れてんのか」
素っ気なく返した俺に、聡がずい、と顔を近づけてくる。
「愛に溺れてるだけじゃん」
ごく小さい声で、けれど真顔で言い切った。
俺は沈黙。
この場合、なんて返せば。
「寝ても醒めても俺は達樹一色。達樹のこと以外、入る隙なんてないの」
「――控えろ、下郎」
なんでこいつはこう、次から次へと。どう返せばいいか悩むようなことを。
「いつもいつも、俺の頭ん中は『達樹好き』でいっぱいなのよ?公式も年代も入る隙間ありません」
「――」
それで思い出した。
「おまえ今回、五教科総合何点?」
半眼になって訊いた俺に、聡はきょとんとした顔で少し考えた。指を折る。
「えっと、はちじゅうにー、きゅうじゅういちー、…だからあ、四百三十くらい?四十ちょい欠け?」
「死ね」
塾に通わない、宿題も忘れがち、テスト勉強も大してしないの三段揃っておいて、平均八十出してんじゃねえよ!それのどこが入る隙間がない、だ!
聡はあくまでさらりとしていた。
「入れた覚えないんだけど」
「――」
「できるんだよね」
本気で殺意を抱く瞬間ってあるものだ。
こと勉強に関して聡と話していると、たびたび抱く。頭がいいというのはこういうことを言うのかと思い知らされるようで。
それもこんないい加減で適当な人間が!
「えっと、ほら。達樹さんのほうが点数よかったでしょ」
「当たりまえだ」
猫撫で声で言われて、吐き捨てた。
俺は塾に通っているし、宿題もやるし、予習復習もやって、テスト勉強も十全にやっている。
生活のほとんどを勉強に捧げているんだから、これで聡より悪かったら人生には絶望しか待っていない。
しかも俺は知っている。
聡がやる気になってちょっと勉強すれば、すぐさま俺を追い越してしまうことを。
高校受験のときがそうだった。
いっしょに塾に通っている間、聡には一度も勝てなかったのだ。
やる気がない聡だから勝っているんであって、本気になった聡には敵わない、とか。
腹立ちすぎて憤死しそうだ。
「達樹は応用問題さえ克服すれば、そんなに勉強しなくてもいいと思うんだけど」
「――」
しかも弱点を把握されているとか。
それをあっさりと指摘されるとか。
「達樹は柔軟性に欠けるんだよねー。頭がちごちでなんでも一本道なの。わき道もあるんだって」
これ以上言われたら本気で殺意が爆発する。新聞の一面を飾ってやる。
と、思ったところで聡は黙った。
さすがに殺気を感じたか。そんなことで黙るようなかわいげのあるやつではないはずだが。
俺は机に突っ伏して教科書を被った。
今、物凄くどこかに篭もりたい気分だ。なんか、人間を超越して仙人とかになりたい。深山幽谷で霞食って生きたい。
「――んんーと。前言撤回」
「口もげろ」
「いや、今回は俺が悪かった。間違ってた」
機嫌を取るときの気色悪い猫撫で声ではなく、意外に真剣な声。
だが俺は聞きたくないので、ますます深く教科書を被り、首を竦めて拒絶の姿勢。
聡の顔が耳元に寄せられる気配。
「達樹は柔軟性あるよね。俺と恋愛してる時点で」
「――」
――は?
なんで聡と恋愛していると柔軟性があるんだ。
確かにこいつの腹立つ度合いといったらちょっとしたものがあるが。
宇宙人過ぎてなに言ってるかわからないとか、突拍子もない行動ばかり取るとか。
だが、それを表すなら度量が広いとか、鷹揚だとかのはずだ。柔軟性は関係ないような。
意味不明さに、教科書を被ったまま少しだけ顔を上げる。怪訝さを前面に出して聡を見ると、曖昧な笑顔を浮かべていた。
「一本道しか知らなかったらさ。そもそも俺、対象外でしょ。眼中にないはずなのよ。男なんだから」
「――?」
相変わらず首を傾げている俺に、聡は目を見張って、驚いた顔になった。
「あれ?…えっと、世間一般的な恋愛の一本道って、オトコオンナオトコオンナだと思うんだけど。当然、達樹の一本道もオトコオンナだから、オトコオトコの俺は論外かと」
「――っ」
そこまで説明されて、ようやく理解。
いや、っていうかそれって俺があんまり鈍くないか。だって俺にとっては。
首まで赤くなっている自覚のもと、俺は再び教科書の下に潜りこんだ。ぎゅうぎゅうと教科書を頭に押しつけ、防護の姿勢。
「それとも達樹の一本道って、オトコオトコだったり」
「しない!」
とんでもない誤解に、俺はいったん防護を解いて顔を上げる。
周りにクラスメイトがいるので小さく、しかし鋭く打ち消しておく。
「そりゃおまえが男で俺も男だっていうのは理解してるが。そうじゃなくて、俺にとっておまえはおまえだから、男とか女とかそういう区別がなくて」
「――」
「別におまえが男だからってわけじゃなくて、女でも構わないし、だからって言って女だったらいいのにとか思うわけでもなくて」
――しまった。
自分でなにが言いたいのかよくわからない。だって、あんまりにも感覚的で、しかも自分の中では当然のことすぎて言語に変換したこともなくて。
口篭って黙った俺に、聡はあまりよくない予感のする、にんまりと口の裂けた笑顔になった。
「つまり俺って、存在が超越しちゃってんのね?」
「いや、ええと」
「男でも女でも、俺が俺ってだけで好きなんでしょ?そんなのって」
よくない予感がどんどん膨らんでいく。教科書を握ったままの手に力が篭もった。
聡はほとんど悪魔としか言いようのない邪悪な笑顔で、力いっぱい。
「俺のこと愛しまくりじゃん!感激――――っっ!!」
「恥じ入れ下郎―――――っっ!!」
机を越えて抱きついてこようとしたからだを咄嗟に避け、脳天に教科書を叩きこむ。だがそれだけでは治まらず、俺は席を立つと教室から走り出た。
「たーつーきー!」
後ろから阿呆声が追いかけてくる。
大声を出すな、本気で阿呆かおまえは!
俺なりに必死に走ったが、運動神経「も」聡のほうが優れている。
すぐに追いつかれ、しかもがっしりと抱きつかれた。衝撃でよろけ、廊下に押し倒される。
「らぶらぶあいらびゅーんっ!」
何語だ?!つか、
「離れろっ!滅びろ下郎!!」
「いーやーだーよー!俺の溢れる愛を受け止めて!!」
――始業チャイムが鳴り、教師が通りがかって拳を落とすまで、俺と聡は廊下で格闘していた。
恥だ。
本気で人間やめて仙人になって、深山幽谷に篭もりたい。