そろそろか。

と思えば、案の定。

クラブ・ユノーからの招待状

「っああっ、もぉおっっ!!」

苛々含みの、かん高い声が上がる。

テーブルを挟んで向かいで勉強していた聡は、手に持ったシャーペンの芯入れを放り出した。

「シャーペンの芯って、人類に挑戦してるよね!」

「してない」

シャーペンの芯には意思や頭脳がない。ない以上は挑戦など思いつけない。ゆえに実行も出来ない。

「挑戦しているとしたら、芯の発明者だろう」

まあ別に、挑戦しようと思って発明したわけでもないだろうが。

それにこの場合問題なのは。

「飽きたんだな」

訊くと、聡はきりきりと眉をひそめた。

「飽きたよ!!ていうか、初めから無理なんだっての!!」

堂々主張。

日曜日のうららかな昼下がり――に、聡の部屋で、中間テストのための勉強中だ。

しかしほんっとにこいつは、どこまでもテスト勉強が嫌いだ。好きな学生がどれだけいるかの統計は奇矯な学者に任せるとして、そもそも勉強が出来ない頭ではないのに、どうしてここまで嫌うのか。

それとも、勉強しないでもそこそこの点が取れるだけに、なおのこと勉強する意味を見いだせないのか。

だったらいっそ、テスト勉強なんか金輪際しないと、きれいに放り出せばいいものを。

「貴重な休みである日曜日におうちでおべんきょ三昧なんていうのがそもそもの初めから無理なんだってのに、ひとがそれでも頑張ってしてやれば、シャーペンの芯が終わるしさ。じゃあ続けるために新しい芯を入れようとすれば、一本取り出すのに果てしない労力と挑戦を強いられるしさ、神は俺にどれだけ試練を与えれば満足するの?!!」

「安い試練だな。ヘラクレスを見習え」

テスト勉強とシャーペンの芯の入れ替えなんていう試練を、素面で与える神の顔が見てみたい。いや、素面で与えはしないか。

英雄に試練を与えるときの神は、いつでもなにかしらトチ狂っていた。嫉妬に駆られたとか、嫉妬に駆られたとか、嫉妬に駆られたとか。

……………ほぼほぼ、嫉妬に駆られていた事例しか思い浮かばないが、どんな神がどんな嫉妬に狂うと、テスト勉強とシャーペンの芯の入れ替えという試練を人間に与えるんだ。

聡は眉をひそめたまま、人差し指を振った。

「甘いな、達樹。ヘラクレスの試練って、わりと大雑把かつ力技なものが多いじゃん。シャーペンの芯の入れ替えなんていう、細かくかつ繊細にして気配りのいる仕事なんて、かえって難行過ぎて初アウト確定だって」

細かくかつ繊細にして気配り要。

「………」

俺はじっとりした目で、聡を見る。そんな視線ごときで揺らぐかわいげはないが、それでも見る。

シャーペンの芯の入れ替えが試練として与えられるとしたら、日本には、いや、世界にはどれだけの数の英雄が生まれ、そしてその億単位に上る英雄がこなせる試練を、たったひとりこなせない神話の英雄とか。

俺は放り出された芯入れを取り、蓋を開く。逆さに振って、数本出てきたうちの一本をつまんだ。

確かに、シャーペンの芯は細い。表示でも謳っている、0.5ミリ。ほんのわずかでも力加減を間違えれば、あっさりと粉々だ。

だが日本の学生ともなれば、これを日常として何回も、いや、何百回、何千回とくり返して、もはや指が勝手に力加減出来るまでに覚えている。

頭でどうのこうのと考え、ロジックを暴き、その道何十年の職人がくり出す絶技が必要な作業ではない。

それが出来ないというのは、とりもなおさず。

「苛々しているから、いつもなら普通に出来る作業が出来ないんだろう。ほら、シャーペン貸せ」

「なんで達樹はそうやって、一見正論を吐くかな!!」

「一見じゃない。紛うことなく、正論だ」

言い返しつつ、やはり放り出されている聡のシャーペンを取る。新しい芯を入れ、蓋を閉めると数回ノック。

きちんと芯が出てきたシャーペンを差し出すと、聡はがっくり項垂れた。

「神は達樹さんだった」

「なんの話だ」

シャーペンの芯の入れ替えが出来ると、もれなく神に昇格するシステムでもあったのか。そうなると日本には、いや、世界には以下略。

差し出したままのシャーペンを振り、取るように促す。

聡は深くふかくため息をつき、のろのろとシャーペンを押し戴いた。

「愛する達樹さんが俺に与える試練だからね…………甘んじて受けるけどね…………………」

神ってそっちか。

というか、俺がいつ試練を与えたか。

考えてから、気がついた。

「…シャーペンの芯が切れたから、今日はもう勉強終わり、とか言うつもりだったのか」

「つもりじゃないよ。言う気満々だったよ」

そうだな、つもりなわけないな。満々だよな。

俺は目を眇め、自分のシャーペンを取った。

「終わりにすればいいだろう」

「だって達樹は勉強してんじゃん」

「おまえがいっしょじゃないと勉強出来ないなんて言わない」

むしろ邪魔だ。

なにしろ四六時中、飽きた嫌だ滅べと叫んで中断する。その中断に俺を付き合わせるから、かえってこっちが捗らない。

言いながら、教科書に目を戻す。

聡はなにやら体をもぞつかせ、それからため息をついた。

「だってなんか、達樹さん見てると、まっとうに生きるのも結構楽しいのかもって思うんだもん」

「は?」

なんの話だ。

思わず顔を上げると、聡は珍しくも困ったような表情で、俺を見ていた。

「達樹さんがものっすごくまっとうに生きてるの見てると、あれなんか、達樹さんとだったら、まっとうに生きるのも楽しいのかもって。達樹さんがいっしょだったら、俺もまっとうに生きようかなって」

「…」

つまり、俺がテスト勉強しているのを見ると、果てしなく嫌いなものなのにやってみたくなる、と。

「でも結局、やってみるとだめなんだな」

「ダメだねまったくもってダメダメだね!!」

隣の芝生が青いのは、これでいて聡にもほんのわずかだが、人間味があるという証拠だろう。

まあ、だめなものはなにをやろうともだめだ。努力すればなんでも出来るとか、幻想を通り越して滑稽だ。出来ないものは出来ない。

そうやって見切りをつけたうえで。

「だったら別の方法を探せばいいだろうが」

「テスト勉強の別の方法ってなによ」

「普段の授業をしっかり受ける」

「は?」

そもそもテストというものは、習ったものしか出さないのが、日本の学校の大前提だ。習ったか習っていないか定かでもないものを出すのは、受験という特殊カテゴリでだけだ。

普通の学校の期別テストで出すのは、あくまでも普段の授業で教えたもの。

その大前提をすべての教師が忠実に守っている以上、テスト勉強をしたくないなら、するべきことはひとつ。

「普段の授業をしっかり受けて、その場で身に着けていれば、わざわざテスト前に復習する必要がない。復習する必要がない以上、テスト勉強そのものが必要ない。テスト勉強っていうのは結局、身についていないものを復習して、改めて身に着けるためのものなんだから」

「…」

きょとんとして俺を見ていた聡は、軽く天を仰いだ。

「達樹さんはやっぱり神だ」

「なにがだ」

「要求の無茶ぶりが、ハンパない」

俺がなんの嫉妬に駆られていると。

とはいえ言いたいことは、わかる。

それが出来ないからこそ多くの学生が、テスト前となると泣きながら机に齧りつくわけだし。

天を仰いでいた聡は、ため息をついて顔を戻した。

「ちなみに達樹は、なんでテスト勉強してるの普段の授業もすっごいまじめに受けてるし、塾にも通ってるし、家でも勉強してるし」

微妙な質問をするな。

俺は眉をひそめ、教科書に顔を戻した。

「俺はそれほど理解力に富むほうじゃないからな。くり返し勉強しないと、身につかない」

特に苦手科目となると、何度勉強しても足らない。

まあ、それ以上に。

「それに俺は、勉強が嫌いじゃない」

「またまた」

聡は呆れたように言う。

「そんなとこで無意味に謙遜しなくていいよ、達樹。素直に『勉強が好きだ』って言っていいから」

「…」

それって謙遜か。

そうは思ったが主に面倒さでツッコまず、俺は肩を竦めて聡を見た。

「勉強が好きだ」

「え?」

自分で言えと言っておいて、俺が言ったら、きょとんとした顔を晒すとか、どういうことだ。

それともなんだ、いつもの適当な切り返しで、ほんとうに俺が勉強が好きだとは思っていなかったのか。

だが考えてみるだに、俺は勉強が嫌いじゃない以上に、好きだ。さっぱり苦痛にならない。

だから生活のすべてを勉強に潰して、まったく平気だし。

「勉強が好きだぞ」

「えあれほんとに?」

やっぱり適当な切り返しだったか。

念を押した俺に、聡は顔を歪める。

根っから勉強嫌いの聡だ。そうでなくても、好きだと答える輩も珍しかろう。

と、思ったのだが。

「ちょ、達樹さん。俺嫉妬」

「は?」

物凄く困惑した顔で、聡は俺を見た。

「達樹が好きだとか、俺以外のものに言うの、すっごい妬けるんだけど!!なんだろう、胸がもやもやする!!」

「はぁああ?!!」

好きだって、勉強だぞ?!勉強に嫉妬するって、どういう状態だ。

瞳を見開いてしばし聡を見てから、俺は首を傾げた。

「ねこが好きだ」

「え?」

「犬も好きだ」

「ちょ?!」

「あと、スズメと鳩と」

「たたたたた、達樹さん?!!」

仰け反る聡を、俺はごくまじめに見る。

「でもそれ全部より、おまえが好きだ」

「がはっ!!」

なにかを吐き出して、聡は仰向けで床に倒れた。

人生にねこがいなかったり犬がいなかったりしたら、ちょっと寂しいかなとは思う。

だが、聡がいない人生は考えられない。

ゆえに俺がなにをどう好きだと言おうが、聡に敵うものも、並ぶものもない。

見つめていると、聡は生まれたてのなにかのように、ぶるぶると震えながら起き上がった。

「た、達樹、さん……………じゃあ、勉強と、俺だった、ら…………?!」

「………」

少しだけ考え、俺はにっこり笑った。

前言撤回。

「微妙」

「ぅわぁああああああああああああ!!!!」

聡のいない人生も考えられないが、勉強のない人生も考えられない。

頭を抱えて叫ぶ聡を見ながら、俺は人生設計を練り直し始めた。