ベッドに上がったことに、他意はない。
聡の部屋ならともかく、自分の部屋だ。どう動こうと俺の自由というものだし――
幕間のウァルキリア
四六時中机に向かって勉強ばかりしているように思われている俺だが、そういうわけでもない。
多少の状況にはよるが、大体、一時間に一度は休憩を取り、机から離れる。
そしてずっと同じ姿勢でいて凝り固まった体を、ベッドか床で伸ばし、あるいは軽いストレッチで解して血行を改善し、集中力を取り戻す。
ひとりだろうが聡がいようが、同じだ。中学のときから変わらない習慣なので、聡もいちいち、珍しがることはなくなった。
つまり、『あれ達樹さん、まだこんな時間なのにもしかして今日はもう、勉強終わりなの?熱あんの?!もしかして重病なの?!』――と。
騒いだ挙句に、救急車まで呼ばれた日には目も当てられない。
「………っ」
過去の頭痛を思い出し、足を伸ばしてベッドに座った俺は軽く眉間を揉んだ。
聞く耳は存在しない聡だが、若干の学習能力はあってよかった。休憩のたびにぎゃんぎゃんに泣きながら救急車を呼ばれる生活では、そもそも聡を家に上げられない。
ちなみにその聡だが、今日は床にべったりと座ってゲームに熱中している。テレビ画面に繋ぐタイプではなく、携帯端末型のゲームだ。
俺はゲームをしないので、聡がやっているものがまったく理解できない。そうとはいえ、社会性動物としての礼儀はある。
ので、最低限の礼儀を発揮し、いつもと同じく美少女がたくさん出て来るやつかと訊いたら、元美少女がたくさん出て来るゲームだと説明された。
再度言うが、俺は液晶型ゲームを一切しない。そのジャンルの発展性や方向性、もしくは需要や供給の状況は、説明されてもまったく理解不能だ。
どちらにしても俺が訊いたのは、社会性動物として最低限の礼儀を発揮したに過ぎない。内容について深く突っ込むことはなく、勉強に入った。
聡のほうも、詳細を聞けと粘ることはなかった。そして今の今まで、大人しくゲームに熱中している。
おもしろくないと、進行状況を逐一報告してきたり、選択肢を相談されたりとうるさいが、今日はそういうことがなかった。
なので、多少はおもしろいのだろう。だからといって、俺もやろうとは思わないが。
「んー………」
座る位置が決まったところで、軽く肩を揉んでみた。一時間に一度はストレッチを入れるようにしているが、基本的に俺は運動不足だ。どうしても筋肉が弱く、凝りやすい。
凝ると頭痛や頭重、無闇な疲労感の原因になり、そこから集中力が落ちる。
集中力が落ちた状態でうすらぼんやりと教科書や問題集を眺めていても、身になることはない。単なる自己満足の世界でしかなく、時間が無駄だ。
「………」
小さく息をつき、俺はストレッチのメニューを組み立てた。今はどうも、腰より肩が気になる。肩を解すことを中心に――
「………ん?」
多少、上の空だったことは認める。
が、ほんのわずかに考え込んで『外』への反応がお留守になった、いわば瞬間的な時間に、聡が動いていた。
いつゲームの電源を切ったのか、端末を床に放りだし、のそのそとベッドに上がってくる。
「おい」
とりあえず声を掛けたのは、床に端末を置くなという注意喚起だ。俺はともかく、聡は存在を忘れた挙句に踏みつけ、もしくは蹴り飛ばすことを何度かやっている。
ゲーム端末は大昔のブラウン管テレビとは違い、現代の精密機器の一種だろう。衝撃を与えることは、マイナスの効果しかないはずだ。
たとえば俺に関しては学習能力が若干なりともあると示す聡だが、ことこちらに関しては学習能力を発揮しない。
何度踏みつけ、蹴り飛ばしても、懲りずに床に置く。確かそのせいで、買い替えの憂き目に遭ったこともあるはずだ。
それでも、学習しない。
「……おい」
――二度目は、おまえはなにをやっているんだという、瞬間的に言葉にし難い感情の発露だ。
のそのそとベッドに上がって来た聡は、伸ばしていた俺の足を掴むと、許可もなくがばりと開いた。さらに許可もなく、その間に自分の体を入れる。
俺の足の間に座ると力を抜き、べったんと凭れて来た。
椅子になった覚えはない。
好き勝手に判断し、やりたい放題に振る舞う聡なので、今さらといえば今さらだ。
しかし抗議する権利は放棄しない。放棄したが最後、結論的に『だって合意でしょ』となってしまう。
眉間に深い縦皺を刻んで呼んだ俺を、胸に頭を載せた聡は上目遣いに見返した。微妙に眠そうだ。疲れているようにも見えるが、聡なのであり得ない。
ゲームのし過ぎで目が乾き、しょぼついてそう見えるだけだろう。
が。
「達樹、前に手ぇ回して。こう、俺のこと抱える感じで」
「感じもなにも、抱える格好以外のなにになるんだ、それで」
ぶつくさ言うが、聞かれている気がまったくしない。
聡は言葉で促すだけでなく、俺の両手を取ると自分の胸辺りに置いた。勝手もいいところだが、俺も特に抵抗しない。
胸に凭れて、半ば抱えられる格好になったところで、聡は瞼を落とす。
「んーんあぁ………」
「椅子じゃなくて敷布団か」
小さくあくびを漏らされて、俺は腐した。椅子も敷布団もどちらも微妙だが、強いて上げるなら――
「ひとをなんだと思っている、まったく」
こぼしながら、俺はわずかに体を傾けた。聡の頭に顔を埋め、回させられた手にわずかに力を込める。
実際のところ、運動部に所属し、だけでもなく無為に動き回る聡は、俺よりよほど筋肉が発達していて、硬い。
たとえばなにかしらのチャンスだと、このまま俺が締め上げてやったとしても、聡はあまり堪えないだろう。苦しければ引き剥がすことも可能だ。言いたくはないが、概ね軽々と。
聡の体温は思考のお子様具合を反映し、少々高めだ。夏場ならきっと、暑いから離れろと邪険にした。
だが今は、ひと肌恋しい季節だ。むしろ体温の移りが心地よい――
「………」
口が勝手に開き、あくびをこぼした。俺は尻をにじらせて最低限の姿勢を整えつつ、聡の頭に顔を埋めたまま、瞼を落とす。
抱えた体は軽いとは言えないし、楽な格好だとも言わない。むしろいろいろと、無理がある体勢だ。維持する時間によっては、腰痛や首の凝りに関するストレッチが必要になる。
だとしても、俺は聡にどけとは言わなかった。
甘える聡は珍しくもないが、大人しい聡も静かな聡も、滅多に見られないものだ。それこそ熱でもあるのか、実は重病なんじゃないのかと、騒いで救急車を呼んでもいい。
単なる気まぐれだろうと、落ち着いて考えるのは、とりもなおさず体を抱えているからだ。
伝わる熱は心地よいだけで、不快なまでの熱さではない。熱によって立ち昇る体臭も異常を含むわけではなく、鼻を埋めていて苦痛がない。
そして、抱きしめて返る弾力――
「………嵌められた」
ぼそっとつぶやき、俺は聡を抱える腕に力を込めた。ため息とともに、聡の頭に顔を擦りつける。
幼い子供がぬいぐるみを抱えることで安心して眠るように、ひどい眠気が俺を襲っていた。
勉強は途中だ。ストレッチもこれからだ。しかもこんな無理な体勢で寝たら、きっと体の節々が痛くなる。
すべてわかっていたが、確実なものを抱く安心感にこみ上げる眠気は堪えようもなく、俺はもうひとつため息をついて、諦めた。
「んっへ」
寝る気になった俺に、聡が小さく笑いをこぼす。強張っているとも思わなかった体だが、さらに弛緩したのがわかった。
聡でありながら俺の様子を窺っていたのかと思うと、不思議な気もする。
同時に、当然だとも思う。邪険にされる可能性もあったのだし、いくら自信家でやりたい放題な聡でも、そうそう最初から気は抜けなかったのだろう。
嵌められたという以上に、言葉もない。
けれどまあ、たまにはいい。
勉強もストレッチも途中のやりかけで、気になる。
なるが、それでもいい。
こうして甘える聡を甘やかしながら、甘やかされるこんな時間も、たまにはいい。