ひとりぽつねんと立つそいつは、ひどくきれいだった。
薄汚い街の中に浮かび上がる純白。有り得ざる美が、そいつだった。
開始
まあ、有り得ざるも道理だ。ふつうの生き物じゃないんだから。
ひとりきり、ぽつんと寂しく立って、そいつは、目の前にそびえるビルを途方に暮れたように見上げていた。
おかしなことだ、途方に暮れるだなんて。
自分の住み処を壊して、勝手にそんなものを建てられたんだから、怒ればいい。呪えばいい。
俺が知っているやつらなら、ただ黙って立ち尽くしていたりしないし、これまで会ってきたのもそういうやつばかりだった。
ひとりぽつんと、寂しく。
立ち尽くすばかりの、おまえの望みはなんだ?
「おい」
「…」
声をかけると、まず無視された。そいつはじーっと、ビルを見つめたまま、微動だにしない。
俺はため息をつき、そいつの着物をつまんで引っ張った。
「こなた。聞こえないのか」
「…っ」
そこまでして、ようやくそいつは俺を見た。切れ長の瞳がまんまるく見開かれ、ふさふさのきつね耳が反り返る。ふわふわのしっぽが、ぱたんぱたんと揺れた。
「ちっちゃいの、おまえ、俺が見えるの?」
姿かたちだけじゃない。声もきれいだった。
鈴を振るような、という表現があるが、まさに銀鈴振るがごとく、耳に心地いい声音だった。
だがしかし!
「だれがちっちゃいのだ、だれが!その失礼な呼び名を今すぐ謝って改めろ!」
「わあ」
大層きれいなのに、そいつはずいぶん間延びしたしゃべり方で、しかも喜色を含んで歓声を上げた。
「俺が見えるんだ?俺の声、聞こえるんだね、ちっちゃいの」
「聞け、こなた。ちっちゃいの言うな。俺はこれでも大きくなったら百九十越えの大男になる予定だ」
「それは大きいねえ!」
きれいな笑顔を惜しげもなく振り撒き、そいつは俺の頭を撫でた。女のような、やわらかな触れ方だ。きれいな笑顔と相俟って、あらぬところがどきどきする。
「でもつまり、今はちっちゃいので合ってるってことじゃない?」
「…ほえほえしていると見せかけて、そのツッコミ…。そうやって油断を誘って痛恨の一撃を呉れる型か」
「ほえほえ?」
眉をしかめてつぶやいた俺に、そいつはきょとんと首を傾げた。
「それで、こなた。ここでなにをしているんだ」
「…」
手を振り切って本題に入った俺に、そいつはとたんに悲しそうな顔になった。また、ビルを見上げる。
艶やかな緋色のくちびるから、切ないため息が漏れた。大きな耳が、ぺたんと垂れる。
「あのね…お昼寝?してて?なんか、起きたら、おうちなくなっちゃっててね…。ねぼけたのかなあって思ったけど、おうちまちがえるわけないし…。でもないし…。どうしたらいいのかなあって…」
「それだけを半年も考えていたとか言うか」
「半年?…そうなの…?ちょっと考えてただけのはずだけど…まだねぼけてるのかなあ。よくわかんない」
言いながら、また、切なそうにビルを見上げた。
こいつが目撃されるようになって、半年。だから半年と言ったが、実際に「おうち」こと祠が壊されたのは一年も前のことだ。
町の片隅に埋もれた、ぼろぼろの祠。侮られたそれは大した鎮めも行われず、移設すらされず、あっけなく壊されて、あれよという間にビルが建って。
だからほんとうは、一年前からずっと、ずっとこいつはここに立って、途方に暮れていたのかもしれない。
どうしようかな、なんて。
仮にも祀神でありながら。
「ふむ」
俺は顎に手をやって考えこんだ。
今うちにいるロクデナシが、いちにーさん、と。
そのロクデナシの長はアレでコレだが、縄張りにあまり拘る性質ではない。
だからこそロクデナシなのだが、まあ今回はそれが良きに転じた。
ゆえにそのロクデナシを赦して称えよう。俺の懐は広く深い。
「こなた。名前はなんだ」
「…なまえ?」
一途にビルを見つめていたそいつが、首を傾げた。そのままずんずんと傾き、しっぽまで項垂れた。
「おい」
「…なまえ、なまえ…。なんだろ。俺、なまえあったはずなのに…。思い出せない……わすれちゃった…」
然もありなん。
これだけ存在が希薄になるほど寝こけ、挙句に起きても祟りに動き出さないほど意識がぼんやりしている時点で、想定できた答えだ。
俺は手を伸ばした。
「では、俺が名前をやる。名前と、新しき住み処を」
切れ長の瞳をまんまるに見張り、そいつは伸べた俺の手をじっと見た。俺は垂れ下がったままの手を取ると、自分のほうへと引き寄せる。艶やかに潤んだ瞳を力強く覗きこんだ。
「こなたの名は十六夜。新しき住み処は吾が懐、六所神社。吾が式神として、頭を垂れよ」
掴んだ手は気持ちの良い冷たさだった。なめらかで、上質の絹のような手触りだ。その体のすべてを暴いて、隈なく触れたくなる。この銀鈴が悦びの悲鳴を上げたなら、しびとすら生き返るだろう。
じっと俺の瞳を見返したそいつは、やがて、す、と瞳を伏せた。
きれいな顔が寄せられ、俺の頬に冷たいくちびるが触れる。
「吾の名は十六夜。住み処は主の懐、六所神社。主の式神として、身命を賭す。主の名を語れ」
耳に吹きこまれた声に、俺は笑った。細胞が奮え立つ、麗しき声だ。
「十六夜の主の名は、朔。震えて刻め。こなたの主は恐ろしい」
型どおりの言葉で終えた俺に、未だ身を屈めたままの十六夜は、じっと考えこむふうに瞳を移ろわせ。
「だけど、やさしい。名前と、おうちを呉れた。困っていた十六夜を佑けてくれた。主の恩情を、十六夜は忘れない。十六夜の名あるかぎり、この身はすべて主のもの」
囁くと、ふんわりと笑った。
間近で閃いたきれいな笑顔に見惚れている間に緋色のくちびるが迫り、俺のくちびるをやわらかく食んだ。