神社の境内に一歩足を踏み入れた瞬間、うだるような熱気が冷涼な空気に変わる。
ロクデナシであっても神の領域だ。天然の冷房が効いている。
仕事してるな、蝕。ゆえに寛大な俺はその存在を許容しよう。
暑気熱
「おかえりなさい、朔!」
暑かろうが寒かろうが美人絶好調の十六夜が、俺の帰還を知って喜び勇んで駆けてくる。
ふさふさのしっぽがちぎれそうなくらいに振られていて、今の俺には扇風機のように見えた。
「すっごい汗だね、あつい?」
「訊かずもがなのことを訊くな。ほれ、アイス」
仕事ついでに寄ってきたコンビニの袋を渡す。
冷涼な空気ではあるが、ここも夏であることに変わりはない。アイスはごく自然にうまい。
歓声を上げて飛びついて来ようとした十六夜を、俺は慌てて避けた。
「こら、触るな!俺は水浴びて来るから、それ、冷凍庫に入れるなりなんなりしとけよ」
外の半端ない熱気の中を歩いてきたせいで、今の俺は絞れるくらい汗みずくだ。帰ってきたらまず水を浴びたいのは人情だろう。
返事のない十六夜を疑問にも思わず、俺は風呂場へ急いだ。
***
汗を流してさっぱりして風呂場から出た俺は、脱衣所の外にうずくまるものの気配を感じて眉をひそめた。
「おい、十六夜。そんなとこで待ってなくても、アイス先に食べててよかったんだぞ」
変なところで律義なやつだ。まあ、そこもかわいいんだが。
下だけ穿いて顔を出した俺を、廊下にうずくまった十六夜は泣きそうな顔で見上げた。
いつもぴんと立っている耳がへちょんと寝ていて、しっぽまで股に隠れて、意気消沈を全身で表現。
なんだ、どういうことだ?
俺が水浴びしているちょっとの間になにがあったんだ?!
「どうした、十六夜。だれがこなたを虐めた?!」
慌てて正面に回り、うずくまる十六夜に合わせて廊下に膝をついて訊く。
いつもは見上げるばかりの顔が正面にあるとか、無駄にときめくな!見てろよ十年後。絶対常態で見下ろしてやる。
何度目かの決意を新たにする俺に、十六夜は、ずず、と洟を啜った。
「…主」
あるじ?
あるじ。それは俺か?俺だな、俺だ。なんだと、俺が虐めたのか?!いつ?!
いやしかし、ちょっと待て。
それより重大な問題がひとつ。
「待て十六夜。弁明も弁解も謝罪も全部してほしいだけしてやるから、まず俺の話を聞け」
「はい、主」
「だから、それだ。俺のことは『主』じゃない。『朔』と呼べと言ったはずだ。呼べるな?」
「……はい、朔…」
十六夜の瞳が涙に潤んできらきら輝いて、一途に俺を見つめる。
ええい、ちくそう。
俺が子供だと思ってやりたい放題しやがって。完璧おとなだったら、まず間違いなく閨に雪崩れこんでいるかわいさだぞ。
とはいえ素直に頷いて、突如変えた呼び方を戻した十六夜に、俺はわずかに肩の力を抜く。
これくらいで聞き分けてくれるなら、それほど根の深い恨みではないということだ。
「で、どうした。俺がなにをして、こなたはそれほど傷ついた」
訊くと、十六夜は大きく洟を啜った。全身が抵抗を示してぷるぷると震え。
「さわるなっていった…っ」
「は?」
間違いなく俺の知っている言語でしゃべっているのだが、一瞬理解不能に陥って訊き返した俺に、十六夜は切れ長の美しい瞳から真珠のような大粒の涙をぼろぼろとこぼした。
「さわるなって、いった。朔、さわるなって…俺に、さわるなって……っ」
言ったか?いつだ?いや、言ったわな。飛びついて来ようとしたから、触るなって。
っていうかちょっと待て、すごく待て、永遠に待てやこら。
「あのな十六夜…」
「朔、俺にさわられるのいやなんだ……っ。俺がさわるの、赦せないんだ……っ」
「そういうのを被害妄想ってんだ、こなた!」
状況ってものを考えられないのか、こいつは!
さっきの俺ときたらどろどろで、べったべたのべちょべちょだったんだぞ。
汗ひとつ掻きもしないで、涼しい顔できれいなべべ着てるやつが抱きついてくるのを許容できるかってんだ。
むしろ、そっちのほうが触りたくないのが正しいだろうに。
「十六夜、さっき俺は汗どっろどろで汚かったよな?」
「朔はきたなくなんかないもん」
事の初めから説いて聞かせようとしたら、出だしで挫かれるとか。
駄々っ子そのもので言い張る十六夜に、俺はちょっと頭痛を感じ。
「いいか、十六夜。俺は外で仕事して帰ってきて、それってつまり汚れてるってことだ。こなたの目にどう映ろうとも、俺が汚れていると言うんだから汚れてるんだ」
「でも」
「こなたが良くても俺が良くない」
きっぱり言い、俺は泣いて赤くなった十六夜の鼻をつまんだ。
「仕事から帰ってきたらまず禊だ。禊が済むまではおいそれと触るな。いいか、俺が良くないんだ」
ぐす、と洟を啜り、まだ耳をへちゃんと寝かせたまま、十六夜は首を傾げた。しっぽが小さく揺れて廊下を叩く。
「じゃあ、もう、さわってもいい?」
「ああ。っ」
頷いた途端、飛びつかれた。
現状、俺は小さくて非力だ。十六夜がいくら華奢で細身で軽くても、受け止めて支えてやるなどできない。
情けなく廊下に尻もちをついた。
ちくそう、十年後の俺ならもっと上背と筋肉が。十六夜くらい、かるがると。
「朔ぅ…さくぅ…っ」
俺は震える背中を叩いてやって、ぴこぴこ揺れるふわふわの耳を掻いてやった。
尻もちをついたままため息をつく俺の口に、十六夜のくちびるが掠める。
「主、だいすき」
「…だからなあ」
「うん、朔」
笑って、十六夜は打って変わった上機嫌で俺を抱え上げると、弾む足取りで茶の間へと歩き出した。
ちくそうちくそう。
あと十年もしたら、もっと上背と筋肉がついたら、形勢は逆転するんだぞ!絶対だ!覚えてやがれ!