「斉木さん、えろいです」

「えあ、ごめ………え?」

責めるように言われて、僕は反射で謝りかけて止まった。

脈絡も前振りもなく、あまりに唐突で根拠不明な詰り。

――えろい僕が?

えすかれーしょん

僕は思わずまじまじと、自分の体を確認してしまった。

別に、裸になっているわけじゃない。

年数が経って、ちょっとだらんとしてきた黒いカーディガンに、白のカジュアルシャツ。

タイトなインディゴブルーのジーパンに、靴下に靴――

すべてきっちり、着用中。

カーディガンはくたびれてしまっているけれど、特に着崩しているわけでもない。おかしなふうに肌を露出しているでもなし、えろいと言われる要素など、どこにも見当たらない。

だというのに。

「どうしてそんなにえろいんですか。存在自体がもうえろいですよね、斉木さん。青少年の健全育成のために、ちったあ遠慮しようって気になりませんか」

「せい………けん………」

さすがに、絶句した。

健全育成が必要と言われる年頃の人間が、この部屋のどこにいると?

僕と彼――さっきから僕がえろいえろいと苦情を申し立てている、一学年下の青年、和音-かずと-が今いるのは、大学の研究室だ。

時間が時間ならばひとでごった返すこともある場所だけど、今は僕と和音の二人だけ。

僕は教授に言われて、次の研究に使う資料をまとめているところで、その向かいに座る和音は、締切り間近のレポートを書いているところ。

まだ研究室には在籍していない和音だけれど、馴染みの僕がいるのをいいことに、ここの机を貸借中だ。空調も利いていて快適で、そのうえ学習室より静かで勉強向きだと、あっさり言って。

そんなちゃっかりしたところのある和音は、僕の一学年下だけれど、年は僕より上だ。現役合格でそのまま大学に上がった僕とは違い、和音は高校卒業後数年間、社会人を経験している。

僕が見たことのある和音は、ラフだけれどデザインの利いているシャツと、やっぱりデザインが利いているジーパンかチノパン、それに合わせたスニーカという、普通に学生らしい姿だけだ。

けれどこれでいて、かっちりとスーツを着て革靴を履き、街中を歩き回っていた営業さんだという。

そうやって数年間働き、自力で四年分の学費と生活費を貯めてから、改めて大学を受験したのだとか。

――でも最初に出会ったとき、そうとはまったく気がつかなかった。

飄々とした空気の持ち主で、世間知らずで鈍い僕なんかだと、苦労した形跡がさっぱり読み取れないのだ。

必修科目のひとつでたまたま知り合った彼が一学年下だと言って、僕がうっかり、じゃあ年下だと思ってしまっても不自然ではないくらい。

確かに僕より背も高くて身幅もあったけれど、そんな年下には事欠かない体格だし――ちなみに周囲からも、この件に関してのみは、僕に非はないと言われている。

和音も和音で、社会人経験者で僕より年上だと言わなかった。

にっこり笑って、敬称付けの敬語で『年下の後輩』らしく僕に接して――実年齢がバレた今となっても、その態度を続行している。

これでいて、後輩扱いや年下扱いに怒っていて意地になっている、わけではない。

和音は僕が困っているのが、好きなのだそうだ。

敬称付きで呼んだり、敬語で話したときに、僕はほんの少しだけ眉を下げて、困った顔をするのだという。その顔がひどくそそると――コイビトとしてお付き合いすることになったきっかけも確か、そんな感じだった。

あんたの困っている顔にそそられて仕様がないと言われて、僕がハテナマークを飛ばしている間に、あれよと。

多少流されはしたけれど、後悔はしていない。

困っている僕が好きだと言う和音だけれど、とてつもなく困っているのが好きなわけじゃないと思う。

好きなのはたぶん、敬称や敬語なんかにちょっと戸惑う程度の、『困った』。

だって僕が本当に困っていると、和音はいつもいつもさりげなく、けれど素早くさっと、助けてくれるから――

「………和音レポート、うまく行ってない詰まった?」

とりあえず、首をちょんと傾げて訊いてみると、和音はぎろりと睨んで来た。

元々、凛々しい目つきの和音だ。そうやると迫力倍増で、ちょっと怖い。

――けれど、どきりと跳ねた心臓は『こわい』からではなくて、ときめいたから。

こんなことでうっとりしちゃだめだと思うけれど、和音はとっても恰好いい。目つきも悪いのではなく、あくまでもきりっと凛々しい。常に周囲を警戒し、高みから睥睨する猛禽にも似ている。

「ああほらまた、そんなえろい顔して。えろいっていうかもう、どえろいって言っていいですね」

僕のことを睨みながら言う和音に、ほわっと頬が熱くなるのを感じた。和音は怒っているかもしれないけれど、ときめいてしまう。とてもじゃないけれど、正視していられない。

俯いて、僕は机の下に隠した手をもじもじと弄んだ。

「和音は、かっこいー。よな」

「誰がそんな話をしてますか」

「だよなぁ…………ぁは」

でも、かっこいい。

僕が『えろい』と、意味不明ないちゃもんをつける和音だけれど、それならば僕からだって、いちゃもんがある。

和音、格好いい。

どうしてそんなに恰好いいのか、もう、存在自体がすべて恰好いいとか、僕の心の平安のためにちょっとは遠慮しようとか、思ってくれないものだろうか。和音がちょっと動くだけで、意識がそっちに行ってしまって――

「ぁ」

ふと気がついて、僕は小さくエウレカをつぶやいた。

つまり、和音は今、僕が傍にいることで、気が散っている?

難しいところで詰まるかなにかして、集中が切れた。ところに、僕=他人がいることで気が散ってレポートが進まないから、妙ないちゃもんをつけて――遠回しに、離席を促している?

随分と図々しい要求だ。

和音はいわば無断貸借人で、僕はこの研究室の正当な在籍者。しかもちゃんと、作業中。

出て行くなら和音のはずだけれど、――

そう。

こういうところで妙に図太く図々しく、傲慢に押し切るのが和音だ。たまに教授も、「出世払いで勘弁してやるが、ほんとに出世払いしろよ?!」とか叫びながら敗走している。

教授はこの研究室において、つまりは大家。

大家のほうが無断貸借人に譲っている、譲らせるのが、和音。

これだから社会人経験者のしかも営業畑の人間は扱い辛くて嫌なんだと、教授は飲み会のたびに愚痴っている。当の和音に。

「……えと、和音。レポート、どこで詰まった僕に手伝えることって」

「なにをどう着地したか、目に見えるようですよ、斉木さん。そのうえで手助けしてくれようとしたり、そんな健気さを見せつけられて、俺が我慢出来るとでももはやここで犯してくれと言っているも同然ですよね」

「え、や、違うでしょ?!」

一度は腰を浮かせた僕だけれど、続いた和音の言葉にすっとんと椅子に戻った。

戻るのみならず、わずかに仰け反って逃げを打つ。

他人はいないけれど、研究室だ。いつ、なにをどうして他人が来るかわからない。

けれど和音は、やると言ったらやる。

和音がその気になって押し切ったら、僕に抵抗は出来ない。

力の差とか、知識の差とかはあるけれど――和音に触れられるとその気にならずにはおれない、僕自身によって。

「え………あれ?」

自分の思考に引っかかって、僕は止まった。

触れられただけで、その気になっちゃうって――

なんにもしてないところでえろいと言われるのは、やっぱり違うと思う。

でも、ちょっと触れられたらすぐその気になっちゃうとしたら、それって十分に、えろいと言っていいんじゃ?

いや、その場合においては『えろい』って、すごく遠回しな表現だ。

はっきり言うと、インラン――

「…………っっ」

思い至った結論に、頬だけでなく耳からうなじから、全身がかあっと火照った。

だって、和音の触れ方はすごくやさしくて、すごく丁寧で、すごくしつこくて、すごく――

すごく、好き。

肌を撫で辿る手も、全身隈なく舐める舌も、僕の体を割り開いて押しこまれるものも。

そのすべてに付随する熱が、感触が、全部ぜんぶ、好きだ。

咬まれて瞬間的に走る痛みも、爪を掛けられて後まで引きずる掻痒感も、全部ぜんぶ。

和音が与えてくれる感覚のすべてが、僕にとっては快楽で悦楽だ。

ちょっと触れられただけだって、蕩けるに十分。

だけど。

「ああ。いい感じにぐるぐるしてますね」

「か、かず………っ」

不機嫌一転、にっこり笑う和音に、僕はそれこそ、えろい涙目を向けてしまう。

研究室だ。

いつ、誰が来るか、わからない。

それなのに体が疼き始めて、この場で犯すと言うなら是非にもと、すぐに体を差し出しそうになっている。

その僕に、和音はあくまでもご機嫌な笑顔だった。

「参考までに言っておくと、レポートは順調ですよ。ようやく終了の目処がついたとこです」

「じゃあ」

「ええ。終了したら自分へのご褒美として、斉木さんの体を頂こうと思いまして」

「ごほ、………っいただ?!」

ぽんぽんと連続して落とされるバクダンに、僕はきちんとした言葉にもならなかった。

つまり唐突ないちゃもんがすでに、前振り。おそらくあのときに、レポートに目処がついて――

呆然として見つめる僕に、和音の笑みがわずかに色を刷く。机を挟んでいても、ふわりと色香が漂ってくるような笑みだった。

心臓がどきりとするどころではなく、下半身がずきりと疼くその笑みで、和音は言いのけた。

「今のうちに仕込んでおくと、終わったころにはちょうど食べごろなんですよ、あんた。というわけで、せいぜいぐるぐるうずうずして、俺が終わるのを待っていてください。よく熟れて食べごろのあんたが、俺にとってはなによりのご褒美ですから。それはもう、レポート期間の鬱憤分、思う存分に貪りますよ」

「か……ずと………っ!!」

――嵌められた。

ご機嫌で言いのけた和音は、呆然とする僕を放って再びレポートに取り掛かる。

けれど僕のほうは、自分の仕事に戻れない。

そんな種明かしをされたうえで、このうえうかうかと嵌まって堪るかと腹を立てる先から、思う存分に貪られる、そのことを考えてしまう。

男同士で負担の大きい僕のことを、いつも出来る限り思いやってくれる和音だけれど、たまに欲望のままに求めてくることがあって――

その後は大変だから、毎回だったらまずいとは思うけれど、そういう和音も嫌いじゃない。

嫌いじゃないどころか、――

いっそもうここで、僕から襲いかかったらどうだろう。他人が来ようがなんだろうが、知ったことじゃない。

今すぐ襲いかかって、和音のものを存分に舐めしゃぶって極太にし、僕のおなかに入れてぐちゃぐちゃに掻き混ぜて――

「かずと………っ」

――もちろん、レポートの邪魔をするなんて出来るわけもない。

単位がかかるレポートを落とすことが、どれだけ学生生活に悪影響か、知らない身じゃないのだ。

だから、邪魔なんて出来ない――出来ないけれど。

「ぼくの仕事、おわんない………っ。手につかないぃ………っ」

「ん?」

これで和音が終わったからと言って始められたら、僕が悲劇だ。

ぐすぐすと洟を啜りながら訴えると、顔を上げた和音はにっこり笑った。

この状況でもついうっかり見惚れて、この状況だからこそさらに体が疼いてしまう、ひどく男臭く頼もしい笑みだった。

「手伝ってあげますよ、俺が終わったらね。俺の優秀さは、よく知ってるでしょうさくっと片づけてあげますから、気にせず疼いていてください」

「かずと………っっ」

どうしてそうも男前に、困ったことを言い切ってくれるのだろう。

そういう和音も恰好いいし、僕がとろんとやっていたことを手際よく片づけてしまう和音もきっと、恰好いい。

そして全部が終わって、とろとろのぐずぐずになっている僕を思う存分に貪る和音は、さらに格別に――

うかうか嵌まっている場合じゃない。

種明かしはされているんだから、考えちゃだめだ。

言い聞かせても言い聞かせても、頭がそっちに飛んでしまう。

思う存分って、なにをされるのか。貪るなんて、あれとかこれとか、またされてしまうんだろうか。それとも、新しいなにかをされてしまうとか。

ぐるぐる考えては体がうずうずし、うずうずしてはぐるぐる考えて、またうずうずし――

正しく、和音の思うつぼ。

――これだから社会人経験者の、それも営業畑の人間なんてのは、扱い辛くて嫌なんだ。契約を取るための人生裏街道な心理的駆け引きに長けてるから、研究畑で純粋培養されたこっちは、まったく歯が立たないときた。

飲み会でお決まりとなった教授のぼやきが、めくるめく期待と妄想とともに、BGMとして僕の脳内をぐるぐる回っていた。