添い寝屋守兵衛
竹箒を繰って庭を掃いていた錬司は、ふいと顔を上げた。低い垣根を通り越し、敷地の外、小路の先を見通す。
ひょこひょこと、まるで今にも寝倒れそうな風情で歩いて来る、小さな人影。
「………」
なにか声を掛けるまでもなく、人影――年下の幼馴染みは、慣れたしぐさで門扉に手をかけ、錬司の家へと入ってきた。
「よぉ、ひらら」
「んー、おひさ、兄ぃ」
相変わらず、雲の上にでも生きているような、ひどくのへんとした空気を醸し出す錬司の弟分は、ひょいと軽く片手を挙げて挨拶した。
そのまま、挨拶の続きとして放たれる言葉。
「抱いて、兄ぃ」
「あいあいよ」
久しぶりに会って――とはいえ、十日かそこらぶりくらいだが――、挨拶もそこそこ、言われるのがそんなことだから、錬司は小さくため息をつく。
適当な返事をしつつ、錬司は地面に放りだしていた塵取りを持って、集めたごみを掃きこんだ。
「なんだ、ひらら………また、金がねえんか」
「うん。なくなった」
呆れたような錬司の言葉にも、ひららは悪びれることもなし、あっさり頷く。
いつの頃からか、記憶を漁ることを止めて久しい。
おしめを換えたこともある、実の弟のようにかわいがってきた幼馴染みは、いつの頃からか、男相手に春をひさぐことを始めた。
仕事らしい仕事をすることもなく、適当な男に声をかけ、もしくはかけられては、己の体を与えて金を貰う。
ひららの容貌は、比較的愛らしい。
その愛らしい容貌と、裕福な暮らしができないがための微妙に骨の浮いた体とが、一種の好事家受けするらしい。
それなりに食べていけないこともないのだが、たまに空きができて、金が底をついてしまう。
春をひさぐなどという外道な仕事を選んだひららだが、金使いはどちらかといえば堅実だ。浪費のために金が底を尽くわけではない。
そうやって金がなくなると、ひららは錬司のところにやって来る。
幼馴染みだが、錬司とひららの年の差は十ほどもあり、かなり開いている。
おしめを換えまでしたせいか、錬司にとってひららはいつまで経っても、小さく幼い子供に見えた。ひららもまた、ごく小さいころからずっと庇護者として振る舞っていた錬司に甘え頼ることに、まったく躊躇いがない。
ただ、単純に金の無心をするのは悪いと思うようで、こうして自分の体を売りに、わざわざ錬司の元にやって来る。
「だからさ、兄ぃ。抱いてよ、おれのこと」
「あいあい」
ごく間近にまで来て、真剣な顔で言うひららに、錬司はあくまでも軽く頷いた。集め終わったごみを、庭の片隅に持って行く。ひららは大人しく、ひょこひょことついて来た。
山にしたごみは、これから焚くつもりだった。しかしひららが来ては、そうもいかない。
錬司は軽く空を仰いで、くん、と鼻を蠢かせた。
まあおそらく、明日くらいまでは雨も降らないだろう。
結論すると箒と塵取りをその場に放り出し、錬司は後ろに大人しく立っていたひららを振り返った。まるきりの子供扱いで、くしゃくしゃと頭を掻き回す。
「時間がねえんか?あるよな?」
「まったくヒマだよ。一晩だろうが二晩だろうが、兄ぃが続くだけ付き合えるよ」
「よしよし」
従順な犬のように見つめてくるひららに、錬司は多少苦味の混じった笑みを浮かべた。
「したらな。とりあえず、飯にすっか。食ってねえだろ?腹ぁ空いてんじゃねえか。いつから食ってない?」
「………きのうから」
「よしよし。じゃあやっぱり、飯だ」
笑って、錬司はようやくひららの頭から手を離し、家へと向かう。
追いかけて来たひららは、そんな錬司の袖をちょいとつまんで引っ張った。
「兄ぃ。そんなんいいから……」
「いいことねえだろ。俺はガリガリしたんは好かんって、言ってんの忘れたんか」
「………おぼえてる、けど」
もごもごと言って俯くひららの肩に手を回し、錬司は強引に己の家へと上げた。
「大体、最中に腹の虫に鳴かれてみろ。萎えるったらねえ」
「それはへーきだよっ!最初に、兄ぃの飲ませてくれたら」
「健気なんだか、貪欲なんだかわからねえな」
ぼやくような、呆れた声音でこぼす錬司に、ひららはきゅっと体を寄せた。胸元を掴むと、潤んだ瞳で見上げてくる。
「淫乱なんだよ。………知ってるでしょ。だから、兄ぃ」
「飯が先だ、飯。俺がそう言ってんだから、飯」
「………兄ぃ………」
どう説得すればいいのかと考え、立ち尽くすひららを置いて、錬司は勝手に回った。
昼は簡単に、残り物の飯に、自家製のたくあんでも切ればいいだろうと思っていた。
客がない前提で立てた予定なのであっさり破棄し、錬司は残り物の飯の中に、炊いた大根や青菜といったものを足して嵩増しを図った。白飯は少なくなったが、全体の量は増えたそれをどんぶり茶碗に盛る。
さらに、その青菜の残りを入れて、簡単な汁物を作った。こちらは普通に、木椀に。
最後に糠床を漁って茄子と人参を取り出し、ざっくり切って平皿に盛り、完了。
「ひらら。運び」
「うん」
こうまで用意されると、さすがにひららも抱け抱けと急かさない。言われるまま、錬司が盆に乗せたあれこれを、勝手と襖を挟んである居室の食卓に運んだ。相変わらずのよたよたとした足取りで、見ていて危なっかしい。
一人暮らしの、小さな平屋に相応しい小さなちゃぶ台だ。これだけの献立でも、二人分を乗せるといっぱいいっぱいになる。
錬司はちょこんと向かいに座ったひららに、置きにしてある彼の箸を取って渡した。
「おかわりあるからな。遠慮しねえで食えよ」
「ん。あ、はい。……いたきます」
「あいあい」
食事前の挨拶が、おかしな噛み方をするのは幼い頃からのひららの癖だ。小さい頃はそれこそしつこく教えたが、ここまで大きくなるともう、放り出した。
それがひららだと、諦めたと言おうか――認めたと言おうか。
同じようなことだと、ひららは『あたたかい』が未だに、『あかたかい』になる。
大きなどんぶり茶碗を抱え、ひららは流しこむように飯を掻きこむ。こうして見ると、細い手首だ。よくもまあ、山盛りにしてやったどんぶり飯が持ち上げられるものだと、感心したくなるような。
「きちんと噛めよ」
「ぁい」
口いっぱいに飯を頬張り、不明瞭な声になりながらも、ひららはいい子に返事をした。
返事はいい子だ。相変わらず、流しこむような勢いで箸と口が動いている。
そうやってひららは結局、どんぶりに山盛りにした飯を二杯片づけた。
食べるのが嫌いで、食べないわけではない。あくまでも、困窮ゆえだ。あとは――怠惰。
「はふっ」
一気に腹に溜めこんだせいで、食べ終わると同時にひららはべちゃりとちゃぶ台に伏せった。
今はきっと、立ち上がれもしないほどに腹が重いだろう。
「よく食ったな、よしよし」
笑いながら、錬司は空になった食器を持って立ち上がる。
「兄ぃ……」
「水に浸けて来ねえと、茶碗ががびがびになんだろうが。それともなんだ?おまえがきれいに洗ってくれるってんのか」
「イッテラッシャイマセ」
完全な棒読みで答えたひららにまた笑い、錬司は勝手に行った。食器を水に浸し、ついでにあれこれと勝手の仕事を片づける。
多少の時間を置いて、そろそろいいかと食卓のある居室に戻ると、思惑通り、ひららは畳に体を伸ばして眠りこんでいた。
腹がくちくなれば、眠くなる。
それが、なによりも気を赦した『兄』の傍であれば、なおのこと――
「手のかかるヤツだ」
笑ってつぶやきながら、錬司は枕屏風の裏から布団を取り出し、ひららの体に掛けてやった。
しばし寝顔を眺めてから、ぼりぼりと頭を掻いて立ち上がる。部屋の隅に置いてある碁盤と碁石を抱えると、軒先に座った。
ひとりきり、考え考え石を置く。
ひと勝負終わり、ふた勝負めの中盤になって、それまで死んだように眠っていたひららが呻いた。
「ぅ………え?……あ、っわっ!」
寝惚けた声はすぐに吃驚の叫びに変わり、ひららは布団を跳ね飛ばして起き上がる。あたふたと周囲を見渡し、軒先に座る錬司を認めて、情けなく肩を落とした。
「兄ぃ……」
「ああ、起きたんか………したら、丁度いい。おまえちょっと、白やれ」
「白やれって、兄ぃ……」
べたべたと這い寄りつつ苦情を申し立てようとするひららに、錬司は顔も向けないまま片手を振った。
「早くしろって。勝負わかるか?」
「……白優勢」
「どうだ、見ろ。俺のこのやさしさ」
「ぁいぁい……」
碁盤を睨んだまま威張る年上の幼馴染みを、ひららはため息で流した。
のそのそと錬司の前に座ると、渡された白石を持つ。ふいと表情が引き締まり、ひららは厳しい目で石の並びを確認し出した。
早く打てと急かすことなく、錬司はひららが状況を把握することを待つ。
ややしてひららは、つまんだ白石をことりと置いた。
「ふぅん……」
感心ともなんとも取れる吐息をこぼし、錬司は黒石を取る。こちらはぱちりと小気味いい音を立てて、碁盤に置いた。
「ん……っ」
ひららは小さく呻きながら、新たな石を置く。置かれるとすぐに、錬司が置く。
「ぅ……っ」
思考を振り回しつつ、ひららは碁の勝負にのめり込んだ。
勝ったのは、優勢を引き取ったひららだった。そもそもが、弱くない。年の差はあれ、黒石で固定されていたのは、本当に習い初めの頃だけだ。
「兄ぃ………っ」
「一寸待ちな」
腰を浮かせたひららに、錬司は体を倒した。逃げたわけではなく、体を倒して手を伸ばすとぎりぎり届くところにある文机から、財布を取り出したのだ。
財布を紐解きながら、錬司は体を起こす。
小銭を掴むと、碁盤につかれたひららの手を取って、握らせた。
「あいよ」
「兄ぃ……っ!!」
抗議の声を上げるひららが言いたいことは、わかっている。
囲碁の相手をして、駄賃を貰いに来たわけではない。
抱いてもらいにきたのだと。
わかっていても、錬司は素知らぬ顔で流した。碁石を選り分けると、一から自分で打ち直す。
「ん………ああ。ここか?これで、………そうか。ここでこうなるから………」
「ちょっと、兄ぃ……っ」
今の対局を振り返る錬司に、碁盤を回って隣に来たひららがしなだれかかる。
「ねえ、ねえったら………っ」
「あいあい。ほんと仕方のねえやつだな」
「兄………っ」
ぼやきながら、錬司はひららの腰を抱き寄せた。瞬間、表情を喜色に輝かせたひららだが、すぐにがっくりと項垂れる。
腰を抱いた錬司はひららを膝の上に座らせると、赤ん坊の相手でもしているかのように、とんとんと背を叩いてきたのだ。
きゅっと抱かれて、けれどそれだけ。
「兄ぃ………っ!おれのこと、いくつだと思って………ッ」
涙目になってきた年下の幼馴染みに、それでも錬司は膝に抱いたまま、あやすように背を叩き続けた。
「それな、聞くと一寸おまえ、いくらなんでも寝込みたくなるから、止めとけ」
「いくつだと思ってんのっ、兄ぃっ?!」
「だから訊くなって……おら。大人しくしておけねえんだったら、膝から放り出すぞ。いいんか」
「いくつだと………っ」
さらにがっくりとしたひららは、しかし錬司の背に腕を回し、ぎゅううっとしがみついた。
多少苦しいが文句を言うことなく、錬司もひららを抱いて背を叩く。
「終わったら、抱いてよ……っ」
「あいあい………夕飯食ったらな。夕飯食って、風呂入って、………したら、抱いて寝てやるよ」
「兄ぃ…………い………」
肩口に擦りついて、ぐっすんぐっすんと洟を啜るひららに、錬司のくちびるは笑みを刷いた。
もちろん、してやるのは添い寝だ。抱っこしてやって、今のように背を叩いてやるだけ。
結論も結末もわかっていて、それでも春をひさぐために来たひららは膝から下りない。
甘えたいと言えないのが、ひららだ。
代わりに、抱いてと強請る。
おしめを換えた仲なのだ。その程度のこと、とっくにお見通しなのだから――
存分に甘やかしてやって、けれど体を繋ぐことだけは、決してしない。
「兄ぃのにぶちん………いけず………」
きゅうっとしがみついたひららはひたすらに錬司を詰り、錬司のほうはまったく懲りも反省もせずに笑ってただ、年下の幼馴染みを抱いていた。