花懸明人は不機嫌だった。高校の入学式、めでたい日である。

しかし、明人は不機嫌の絶頂にいた。

左手の婚約者:01

その不機嫌の元は、探れば、去年の年末にまで遡る。いや、もっと遡るなら、中学の入学式にまで行ける。

だがとにかく、持続していた不平不満が爆発寸前までに高められた元は、去年の年末のことなのだ。

高校受験本番を前にして、日々勉強に励む明人に渡された、親からのクリスマスプレゼント。

それは、明人の愛しいいとしい婚約者のつーくん、こと、宮野谷剛がフランスから帰国したという報せだった。

小学校に上がった年に婚約を結び、それからずっと一途に愛し続けてきた彼、宮野谷剛は――男で、明人もまたれっきとした男だが、親同士の取り決めた正式な婚約者だった。

宮野谷家は日本舞踊の一派の中でも大きなほうに入る流派の家元であり、古い伝統と格式のある家で、生まれた子供はほとんどの場合、親が決めた婚約者がいるものだった。

対して花懸家は歴史と家柄こそあれ、常に革新的に時代を進む一家だった。

子供で、小さいころから婚約者が決められる例はない。明人の扱いは異例だ。

それも、婚約者が男だという時点で、異例を通り越して異常だ。

とは、周りによく言われた。

麗しの婚約者である剛自身からも、「男同士で婚約って、バカにしてんのかおまえら!」と罵声を浴びせられたことがある。

最初のころだけだ。

明人が情熱的に掻き口説き続けた結果、二歳年上の彼は「明人がいなくちゃ生きてけない」と言ってくれるまでに自分を愛してくれるようになった。

…そう、愛してくれていたはずだ。

少なくとも六年前、渡仏する以前までは。

先天的な心臓の病気を患い、成長に従って負荷に耐えきれなくなってきた剛は、本格的に治療し、健康な体を手に入れるべく、その道の権威がいるというフランスへと渡った。

一時は、明人と離れたくない、とかわいい駄々をこねて手こずらせてくれた彼だが、命が掛かっている。明人も涙を呑んで見送った。

それから、六年だ。

最初の数年は、頻繁に手紙の遣り取りをしていた。

少ないおこづかいから、ばか高いエアメール代を捻出して、これでもかと手紙を送りまくった。

だが、明人が中学に上がった日、剛から、もう手紙は要らない、という断りの手紙が来た。

曰く、これからは本格的に治療に専念せねばならず、これまでのようにきちんと返事を書ける保証がない。返事も書けないのに貰うだけでは心苦しいから、どうか控えてくれないか、と。

治療がひと段落したなら、こちらから手紙を出す――。

踊りだけでなく、書道をも幼いころから極めている剛の字は、小学生のころから大人顔負けの美しさだった。

それがここのところ、震えていたり、歪んでいたりと乱れがちで、なにかあるのだろうなとは思っていたが。

きっとすぐにまた、手紙をくれる。

そう信じて、涙を呑んで、待っているからね、という手紙を送って。

三年。

中学時代は暗黒そのものだった。

来る日も来る日も剛からの手紙を待ち続け、音沙汰がないことに不安ばかり高じていき、ご町内さんの剛の実家に行っては、順調だからだいじょうぶ、と宥められて家に帰り、しかし不安も不満も消せずに。

耐えきれずに、何度か送った手紙には、返事が来なかった。

ただ一通、彼が自筆で手紙をくれたなら、ただの一言でもくれたなら、世界はあっさり反転したのに。

おんどろどろに塗れて、受験勉強に打ちこむ自分に、そうして渡されたクリスマスプレゼントが。

剛が、日本に帰国した、という寝耳に水の報せ。

すぐにも会いに行こうとした明人に、しかし親は、だめだと言った。

剛は中学校の卒業資格こそ得たものの、それ以上の学校に通うことはできなかった。

だから、これから明人と同じく高校を受験して、一から通い直すのだという。

今の時期から、高校合格レベルに持っていくことは並大抵の苦労ではない。ほかのことは削ぎ落として、勉強に集中したい。

それが、剛と剛の親からの要望なのだという。

おまえも婚約者として彼の将来を思うなら、ここは少し堪えるところじゃないかな、と言われて。

まったくもって納得などいかなかったが、とにかく明人は我慢強いというより、虐げられ慣れた少年だった。

明人のつーくんは高飛車で高慢で、理不尽な我が儘を平然とくり出す素敵お姫様なのだ。

だから我慢した。

受験が終わる三月まで、ひたすら我慢した。

もういいまだなの?

卒業式も終えて、連日聞く明人に返されたのは、とにかくあちらの生活がひと段落するまで待ちなさい、というお達し。

剛は学校も久しぶりなら、日本も久しぶりなのだ。生活のリズムができるまでは…――

だからこそ、婚約者である自分の出番なのではないか。

婚約者が困っているなら、すべて手となり足となり助けたい。不便をなにもかも解消してやりたい。

それができるのが、できるように鍛錬したのが、自分なのに。

宮野谷家に乗りこもうともした。

追い返された。

婚約者なのに!

そうやって頭が煮え立つままに春休みは終わり、迎えた入学式。

中学時代の暗黒を怨獄に変えて、登校した高校。

格式と頭脳レベルを兼ね備えた私立の男子校であるここは、中等部からの持ち上がりが多いらしく、高等部からの中途入学である明人は微妙に空気から浮いていた。そんなふうに浮いた空気の生徒が、明人以外にも何人かいて。

意外とそういうことははっきりわかるものだな、と感心していた、矢先。

見つけた。

クラス分けの名簿が張り出された校舎の前で、見間違えようもない。

六年間、顔を見ることもできず、写真のひとつすら送られてこなかったから、成長した彼の姿は知らない。

だが、すぐわかった。

花のようにきれいな、明人のつーくん。

相変わらず成長が振るわず、実は二歳年上だというのに、年下の少年たちの中に埋もれてしまえる小さくて細い体。

六年前には少女のように長く伸ばされていた髪は、肩までの長さ。

平均よりずっと小ぶりな頭とも相俟って、詰襟の制服を着ているにも関わらず、男装した令嬢が紛れ込んだように見える。

隣のクラスの名簿を見ている彼の目線を追って、名前を見つけた。

宮野谷剛。

確かにある。

この字の並びを見間違えたりすることなど、決してない。

なにも言わず、なにも教えてくれず、さんざん待ちぼうけを食らわせて。

同じ高校の、隣のクラスにいるとか。

なんの虐めなのだ?!

「つーくん」

遠巻きに眺められている彼の元へ、足は自然と向かった。折れそうに華奢な肩を掴む。乱暴な仕種に、一瞬、剛の瞳が鋭く尖った。

高慢に睨みつけて、それから、まんまるく開いていく。

「あきと」

こぼれた声は、記憶よりもわずかに低くなっていた。

咽喉に絡みながら出された名前は、彼の驚きを如実に表している。明人がいることが、意外で仕方ないと。

――つまり、再会は仕組んだものではなく、彼はまったくもって明人のことなど。

「明人…なんで…」

揺らぐ瞳といっしょに、声も揺らぐ。

小刻みに震えながら、骨ばっていても形のいい手で口元を覆った。

瞳に翳した感情を、明人は読み違えない。

自分が悪いことをしていたと、わかっている。わかっていてなお、会いたくなかった、と。

「よくも、つーくん…」

「…っ」

同年代の少年と比べてすら華奢な肩を、明人は折れよとばかりに握りしめた。

よくも、ここまで虚仮にしてくれるものだ。

あれだけ、剛のことだけを想って、待ち続けた自分に。

そこで、それ以上発展しなかったのは、ひとえに時間がなかったせいだ。

どこか人気のない場所に連れ込んで問い詰めようとしたが、生憎とチャイムが鳴ってしまった。無視したかったが、すぐさま教師だの生徒会役員だのが出てきて、面倒だった。

だが、明人が手を離し、一時休戦とすることにしたときの、剛の顔は忘れない。

あからさまに、ほっと安堵した顔。

すぐさま視線を背けて、生徒の中に埋まっていった体。

「…よくも…」

花懸明人は、不機嫌だ。

入学式真っ最中の今、まさに、人生これ以上はなかったというほどに、不機嫌の絶頂だった。