ラ・パリスの真実
昼休みを告げるチャイムが鳴るやいなや、明人は机の上をきれいに片づけ、だれよりも早く立ち上がった。
今日一日、休み時間になるたびにこの行動をくり返しているために、クラスメイトもこのパターンに慣れつつある。
そのまま、明人は隣のクラスへと急いだ。
こちらもこちらで、嫌な感じに慣れの空気が流れつつある。
「花懸、他クラスにみだりに出入りするなー」
出ていく教師が、今日一日ですでに名物化し出している光景に、適当に声をかける。
噂どおりにきっぱり無視して、明人はよそのクラスに堂々と入った。
剥きだされる敵意もなんのそのだ。
ここには、だれより愛おしい明人の婚約者がいるのだから。
「つーくん、お昼いっしょに食べようね」
「うん」
教室の中ほどに座っている明人の婚約者、剛は、入学式の日に登校したきり、体調不良のために今日まで十日も休んでいた。勉強の遅れもさることながら、クラスへの馴染みも薄い。
それに輪をかけるのが、こうして休み時間のたびに現れては、時間いっぱい独占していく明人の存在だった。
わかっているだろうに、剛は明人の出現に嫌な顔をしない。それどころか、ひどくうれしそうに迎える。
邪気いっぱいににこにこ笑う明人に、無邪気に笑い返して、剛は鞄の中からお弁当の入った袋を取り出した。
現代男子高校生の持ち物としては渋い、和布の巾着だ。
家業が日本舞踊の家元であるために、剛の持ち物はどれもどこか渋く、可憐だ。
「どこで食べるの?」
「ああ、うん。今日はね、僕、お弁当持ってきてないんだよ。だから、学食」
「学食!」
剛の瞳が、きらきら輝く。
学食、という響きは、いかにも学生気分を盛り上げてくれる。
深刻な病気のせいでこれまでまともに学校に通えなかった剛は、やたら、学校生活に興味津々だった。明人にとっては大したことでもないのに、ひどく悦ぶ。
花のようにきれいな剛がそうやって悦ぶと、まさに空間に花が飛び散ったようだ。
明人は心からにっこりと微笑んで、剛の手から弁当箱を取った。
どんな軽い荷物でも持つ。
下僕根性健在である。
「あのさあ、宮野谷くん…花懸も、いい加減…」
「さあ行こうね、つーくん。早く行かないといっしょの席に座れないよ」
「そうなんだ」
だれかに声をかけられたものの、明人も剛もきれいにスルーして、仲良く手を繋いで教室から出て行った。
「…聞けよ、バカップル…っ」
二人が去った教室には、妙に冷たく熱い空気が滞留していた。
***
基本的な病気は完治したものの、長い闘病のために基礎体力がマイナスの剛は、早く歩くことができない。そのために、二人が学食に着いたときには、人がいっぱいになっていた。
それでも運命の女神も、バカップルに喧嘩を売られたくないのだろう。二人で並んで座ることができた。
とりあえず席を確保してから、明人はひとりで食事を取りに行った。
弁当代として渡されたおこづかいと腹具合の相談をし、ちょっと高いが、ボリュームはある鶏カツ定食にする。
これは具だくさんの豚汁がどんぶりで付いてきて、さらに刻みキャベツではなく、たっぷりのポテトサラダが添えられているのだ。
まさに、質より量の男子高校生に配慮したメニュー。
「…ぅわあ」
席に戻った明人と、待っていた剛の口から、異口同音に驚嘆がこぼれた。
「…すごい、それ、全部食べるの?」
「ちょっと待って、それだけなの、つーくん?」
同時にこぼれた言葉に、二人して黙りこむ。反応が早かったのは、癇癪持ちの剛のほうだった。
「なに言ってんの!見て、ちゃんとお肉があるんだよ!」
「…そういう問題じゃないってば」
剛の言う通り、突き出された弁当箱には、蒸し鶏が入っている。だが、言いたいのはそんなことではない。
その弁当箱の大きさだ。
剛が強気に突き出した弁当箱は、女子高生だって今時、そんなかわいらしいサイズじゃ餓死するだろう、という小ぶりなサイズだった。
いや、女子高生は弁当はこれで済ませて、スナックを大量摂取するからありかもしれないが、少なくとも男子高校生サイズではない。
しかも、剛は明人より二歳年上だ。食欲の魔人と化していておかしくない年頃なのに。
その小さいお弁当箱の中に、蒸し鶏が少しと、漬し菜と、芋の煮たものに、泣きたくなるサイズの俵おにぎりが入っている。
そこを指摘したい明人に、剛はあくまで鼻息荒く主張した。
「お肉食べられるの、すごいんだからね!臭いが気持ち悪くて、全然食べられなかったんだから!でも体力つけるならまず、お肉でしょう。鶏肉にはね…」
「あのね、つーくん。これ見て。僕の。これ僕の年頃普通ね。つーくんの年の常識ね」
栄養解説を始めようとしたつーくんに、明人は自分のトレイを叩いた。
どんぶりにたっぷり注がれた豚汁に、山盛りご飯。
こんもり盛られたポテトサラダを添えた、手のひらサイズの鶏カツ。
そこに漬け物の小皿とカットオレンジが二欠け。
「…」
「ね?」
凝然とトレイを見つめ、剛は口を噤んだ。
わずかに罪悪感に駆られつつ、明人はしかしツッコまずにはおれない。
そのサイズは正気かと。
栄養価がどうのこうのというより、まず量が問題ではないだろうか。道理で、こんなに華奢なつくりなわけだ。
ややして、剛は悄然とため息を吐いた。
「…だって、これ以上食べると吐いちゃうから…。吐いたら食べても栄養吸収されないし、疲れて体力消耗するし…。この量が、ちゃんと栄養も摂れて、体力消耗し過ぎないぎりぎりの量なんだもん…」
「…つーくん…」
体力回復に焦点を置く、現在の剛の治療である。
だれよりも早く普通の人くらいの体力をつけたいのは剛で、そのためにいろいろ無茶な試行錯誤もしたのだろう。
想像がついて、明人は手を伸ばすと剛の頭を撫でた。
「…でも、これでも食べられる量、増えてるんだからね!」
二歳年下の少年に頭を撫でられている現状に不満もなく、剛はあくまで高飛車に主張した。
「うん。わかってる。つーくんはがんばりやさんだもんね」
「そうだよ」
完全に子供を宥める口調だったが、剛はやはり気にしない。胸を張る彼の頭の可哀想さ加減に、明人はちょっと笑った。
一応は進学校であるこの高校に入学できた以上、一定レベルの頭脳はあるのだろうが、どうにも感覚がずれていてかわいい。
「じゃあ、今日もおいしく食べようね」
「うん」
行儀よく手を合わせ、二人で声を揃えて、いただきます、を唱える。
食べだして、明人は学食の罠に気がついた。
私立で、中等部からの持ち上がりが多いこの学校の校風は、上級生と下級生の距離、同級生同士の距離がやたら近い。
そして見知った顔に飽きている彼らは、高等部からの中途入学である生徒には、大変懐っこく絡んでくるのだ。
明人も剛も中途入学生だ。そして、剛は男子校にあっては毒なほどにきれいな見た目である。
大した用事でもないのに、とにかく話しかけられる。
話しかけられるだけならまだしも、それとなく接触される。
明人はぎりぎりと眉間に皺を寄せ、自分の失敗を呪った。
弁当がないなら購買でパンでも買って、人気のないところを探すべきだった。
学食のような、人が集まって、しかも一度着席したら容易には動けないようなところでは、剛はいい人寄せだ。
明人のつーくんだというのに、だれも彼もに馴れ馴れしく触られても、ガードしきれない!
こうなったら、とにかく早く食べ終わって、ここから出るしかない。
決心した明人だったが、ここでも剛の常識外の体力のなさが出た。
これだけ食べる量に差がありながら、明人が食べ終わるころになっても、剛はまだ半分も食べ終わっていなかったのだ。
次から次へと立ち現れる邪魔者を追い払うことに専念していた明人は、しばらく剛に構うのがお留守になっていた。
しかし、デザートのオレンジを二欠け残したところで剛の残量に気がつき、わずかに天を仰いだ。
医者は、高校三年間で体力が戻ると保証したらしいが、本気だろうか?
もしや、花のようにきれいな剛にほだされて、甘い見通しを告げたりしていないだろうか?
食べられるようになった、と豪語していた剛は、至極まずそうにもそもそと口を動かしている。呑みこむまでに時間がかかるうえ、一口に取り掛かるまでも長い。
じっと見つめる明人に気がついたのだろう、剛が潤んだ瞳で睨み返してきた。必死だ。
明人はオレンジを一欠け口に入れ、それほど噛みもせずに呑みこんだ。
「食べ終わる?」
「…終わるもん」
「そうだね」
声がへたっている。
頷いて、明人は手を伸ばし、剛の手から箸を取り上げた。
「あきと」
抗議の声を上げる剛に、明人はほとんど手の付けられていない蒸し鶏を一欠け取り出す。
にっこり笑うと、剛の目の前に差し出した。
「つーくん、あーん」
「…」
「あーん。ほら」
器用に箸を繰って、蒸し鶏を揺らす。
目を丸くしていた剛は、勢いに押されるように口を開いた。遠慮がちなそこに、明人は丁寧に蒸し鶏を押しこむ。
「おいしいでしょ?」
にっこり笑って感想を押しつけた。
もそもそと口の中のものを咀嚼していた剛が、頬を染める。困ったように首を傾げた。
さらに特上の笑顔を振る舞ってやって、明人は半欠けになっている俵おにぎりをさらに半分にする。
呑みこんだのを確認してから、またつまみ上げた。
「はい、つーくん、あーん」
「…」
戸惑いながらも、どこかうれしそうに剛は口を開く。さっきより咀嚼の速度が上がったようだ。
そうでなくても小さいお弁当の中の、小さいおかずを、それでも苦労するらしい剛の口の容量に合わせて細かくし、明人はやさしく笑った。
「あのね、つーくん。食べる量も大事。栄養価も大事。でもね、食事って、おいしく摂ることがいちばん大事なんだって。まずいなあって思いながら食べてると、ちゃんと体を元気にしてくれないんだよ」
「…そ、なの?」
「そうなの。ほら、あーん」
有無を言わせず口の中におかずを突っこんでいき、明人はもう一度、感想を確かめた。
「おいしいでしょ、つーくん?」
「…」
にっこり笑って訊いた明人に、剛が頷く。
無理やりではない証拠に、かわいらしい笑顔は自然そのものだ。
「おいしい」
弁当の中身が空になって、お箸攻勢が止み、ようやく口が空いた剛が、うっとりとつぶやく。
「明人に食べさせてもらうと、全部おいしい。いっつも食べさせてもらったら、俺、ずっと早くいろいろ食べられるようになるのに」
「そんなに急がなくていいけどね」
言いながら、明人は残しておいたオレンジの一欠けを剛の口の前に持って行った。
「好きでしょ?」
「うん」
首を伸ばして剛はオレンジに噛みついた。ちゅう、と汁を啜る。
皮を取ってやった明人の指に、剛が舌を伸ばした。ぺろりと舐めて、わずかに歯を立てる。
「…考えてみれば、不思議なお口だよねえ」
「?」
指を含まれながら言う明人を、剛が上目使いに見る。
明人は感心したように剛の口を眺め、指の腹で舌を撫でてやった。引き抜くと、わずかに湿った指先を舐める。
「僕のものはあんなに入るのに、こんなちっちゃいおかずにあれだけ苦労するんだから」
「…っ」
剛の顔が、朱色にのぼせ上がった。
実際、こうして眺めても、どうやってあれを含むのか不思議になることしきりの上品な口だ。
真っ赤になった剛は顔を背け、ぼそりとつぶやいた。
「だって好きなんだもん…」
「…つーくん…」
要はやる気の問題か。
冷静に分析しながら、明人は赤く染まった剛の耳を撫でた。
「…きーみーたーち。こぉおおの、バカップル!少しは人目をはばかれぇええええ!!」
だれかが頭上で叫んだが、バカップルのバカップルたる所以である。
明人も剛も華麗にスルーして、昼休みいっぱい、学食でいちゃつき倒した。
その後花懸明人・宮野谷剛連名で、学食出入り禁止令が発令されたとか。