リビングの扉が開き、マスターが顔を覗かせる。

疲れは隠しきれないものの、いつも通りの笑顔だ。

「ただいま帰りました、カイトさん、がくぽさん!」

マスター、あのね

「お帰りなさい、マスター!」

挨拶しながら入って来たマスターは、ソファの前に行った。

三人掛けの、広いソファだ。

その広いソファを無駄にして、がくぽとカイトはぴったりくっついている。より正確に言うなら、がくぽの膝の上に、カイトがいる。

がくぽはしがみつくようにカイトを抱きしめ、その胸に顔を埋めている。マスターのご帰宅にも、顔を上げようとしない。

マスターは笑って、そんなカイトとがくぽの頭を掻き混ぜるように撫でた。

「お帰りなさいくらい言ってください、がくぽさん。ひとのことを置いてきぼりにしておいて」

「……っ」

子供扱いに渋面を向けたがくぽに、マスターはやはり笑ったまま言った。

がくぽとマスターとで、出張に出かけていたのが昨日までだ。

だが、カイト恋しさに耐えられなくなったがくぽは、休憩も労働時間も無視してスタジオに篭もると、執念で半日以上早く、仕事を仕上げた。

仕事が早いのは構わない。根を詰めるのも、まあ、倒れない程度なら、ありだ。

ただし、いい加減な仕事をするようなら遠慮なくリテイクを食らわせるつもりだったのに――それこそ、執念と言うのだろうか。

無理を言われたスタッフ一同が思わず、唸って口を噤むような出来栄えを見せつけて、がくぽは自分のパートを終わらせた。

そう、自分のやるべきことだけは。

そして、編集やら後始末やらが残るマスターを置いて、さっさとご帰宅した。

すでに夜半だった。

ぎりぎりで終電には乗れただろうが、始発で帰るという選択肢もあったというのに。

足代とするわずかな金と携帯電話だけ持って、荷物もなにもかも放り出して。

主役のいない現場を始末したのもマスターなら、二人分の荷物を抱えて戻って来たのもマスターだ。

がくぽは気まずそうにくちびるを歪めると、カイトの胸に擦りついた。

「がくぽ」

「……………おかえり、なさい、マスター………」

抱いたカイトにもやわらかく促され、がくぽはようやくつぶやく。

とはいえ、カイトに懐いたままの姿勢は変わらない。拗ねた子供が、ぬいぐるみに顔を埋めたままなのと似ている。

リビングに来る前に出迎えてくれたメイコによれば、がくぽは今、きょうだいたちにこれでもかと冷やかされ、からかわれて、盛大に拗ねている最中なのだという。

冷やかしていたきょうだいたちはというと、帰ってくる道々でマスターが買ってきた材料で祝い膳をつくるために、揃ってキッチンに篭もって奮闘中だ。

家の中は、あからさまに祝祭ムードだ――こうして拗ねているがくぽですら。

だれが来ようとなにを言われようと、カイトにしがみついて離れないことが、なによりの証。

「万事、恙なく済みましたよ」

「……」

マスターはもう一度頭を撫でてやって、がくぽの我が儘を赦す言葉を告げた。

どこまでも子供扱いだが、がくぽは瞳を細めてマスターの手を受け止め、頷いた。

「たのしかった」

こぼれた言葉は無邪気で、素直だった。マスターは笑って頷き返す。

「それは良かった。また企画を上げておきます」

明るく請け負うと、首を掻く。

このままからかってやってもいいが、ほどほどにしておいたほうがいいのもわかる。

ようやく、長い片恋に終止符を打って、想いが通じ合ったばかりのふたりなのだから――

「……」

微笑んで、マスターは瞳を細めた。

下手をすると、いつもとなにが違うのかわからない二人だ。ある意味、普段がすでに熱烈な恋人同士だったというのに、確かに気持ちが伝わったのが、わずかに昨日の出来事――

「さて、では……」

「あ、待って、マスター!」

「ん?」

ご飯の前にお風呂でも入りますかね、と続けて、自然にリビングを出て行こうとしたマスターを、カイトが呼び止める。

しがみつくがくぽをあやして手を離させ、膝から下りると、背を向けかけていたマスターの手を掴んだ。

「カイトさん?」

「座って」

「はあ」

きょとんとするマスターを、お気に入りの窓辺のクッションにまで誘って座らせると、カイトもその正面に、へちゃんと座りこんだ。

「…どうしました?」

「ん」

なにか話があるのだろうと察したマスターが、やわらかく訊く。

その骨ばった手を持ったまま無意味に弄っていたカイトは、わずかに躊躇ってくちびるを噛んだ。

それから顔を上げると、ひどく真剣にマスターを見つめる。

「マスター、あのね」

「はい」

「あのね、俺ね……………すきなひと、が、できたの」

「……」

緊張のあまりに、わずかに幼く舌足らずになりながらも、カイトはきっぱりと言い切った。

瞳を見開いたマスターをしっかりと見つめ、頷く。

「マスターのことも、めーちゃんのことも、すごく好き。ふたりのことが、いちばん大事。でもね、そのひとのことは――ほかのだれにも、比べられないの。並べて、いっしょに見ることが出来ないの。とっても、とっても特別だから。ううん、特別、じゃ、足りないくらい………特別、だから」

ゆっくり、確かめるように、カイトは言う。

瞳を見開いて固まっているマスターからほんの少しだけ視線を逸らし、同じようにソファの上で瞳を丸くして固まっている『コイビト』を見やった。

大好きな、ひと。

生まれて、生きて、出会った。

うずくまって傷を舐めあうのではなく、手を携えて、この先へと、共に歩いていくひと。

瞳を丸くしているがくぽに微笑み、カイトはマスターへと顔を戻した。握ったままの手を引くと、寄せた額を合わせる。

「家族じゃなくて、きょうだいじゃなくて、ともだちでもなくて………その全部を合わせても、まだ足らないくらい、特別に好きなひとが、出来たんだよ」

言って、カイトは瞳を閉じた。少しだけ強く、合わせた額を押す。

「だから、だいじょうぶ………」

「……」

ささやかれた言葉に、マスターは瞳を瞬かせた。

激しく瞬きをくり返し、けれど結局。

「………っふ」

閉じられた瞳から、雫がこぼれた。

大粒のそれは、ぼろぼろと、止めどなく溢れこぼれ、流れる。

「ふ………っぇっ、く…………っう………っっ」

「ま、すたー………?!」

小さく嗚咽をこぼして泣きじゃくるマスターに、がくぽが狼狽えた声を上げる。

カイトは額を離すと、マスターの頭を抱いた。弟妹にするようによしよしと撫でてやると、嗚咽はますます激しくなった。

伸ばされた指が、痛いほどに縋りつく。

「……っ」

これまで、マスターが泣いたところを見たことがないがくぽだ。

さすがにこれは泣くのではないか、と懸念するような仕事上のトラブルが起こっても、揺らぐことなく笑って済ませてきた。

だから、がくぽは想像もしなかった。

マスターが、泣く日が来ることを。

それも、――カイトに、好きな人が出来たことで。

狼狽えて腰を上げるがくぽに、マスターの頭を抱いたカイトが、微笑んで首を振る。

その笑顔が含む感情に、がくぽは押されるようにしてソファに座り直した。

戸惑う顔のまま、泣きじゃくるマスターと、慈しむような笑顔で彼女をあやすカイトを見つめる。

長く生きていればいろいろありますよ、とマスターに言われたことがある。

おそらくマスターが泣いたのは、カイトか、もしくはがくぽに失恋したなどということではなく――いろいろあった歳月に、なにかしら、禍根があったのだ。

カイトが、ひとを『好きになる』ことがないと懸念するような。

そうとわかるから、もどかしい思いを堪えて、ただ、見守る。

そこに割り入れないのは、悔しいけれど。

まだ、ようやく、スタート地点に立ったところなのだ。

いつか――いつかは。

決意を新たにして、がくぽは背筋を伸ばした。

がくぽが治まったことを確認して、カイトは胸に埋まるマスターの頭に、頭を凭せ掛けた。震える背中を、ぽんぽんと叩く。

マスターは、どちらかといえば小柄だ。この小さな体で、ずっと――

「………っぅく…っ」

「マスター?」

しゃくり上げながら、マスターが顔を上げる。

泣き腫らして真っ赤になった瞳で、洟を啜りながら、それでも懸命に笑みを浮かべて、カイトを見つめた。

「…………、が、とぅ…」

「マスター?」

しゃくり上げるためにぶつぶつと切れる言葉に、カイトは首を傾げた。

マスターはひとつ大きく洟を啜って息を整えると、笑った。

「ありがとう、カイトさん」

「……」

今度、瞳を見張って固まったのは、カイトだった。

凝然とマスターを見つめ、それからやわらかく笑み崩れる。

「ありがとう………」

「うん」

泣きながら笑うマスターに、頷く。

「うん、マスター」

再び頭を抱えて、カイトはもう一度、頷いた。

「うん、マスター…………だいじょうぶ、だから」

請け合って、頭を撫でた。

笑って、肩口に顔を埋める。

「だから――ありがとう………」