「じゃあね、おやすみ、がくぽ」
部屋の前でカイトがささやいて、爪先立つ。伸ばされた手が頬をくるみ、軽く引き寄せられた。
「いい夢が見られますように」
決まり文句とともに、頬に押しつけられるやわらかな感触。
I pray...03
細められた瞳は切なく、押しつけられたくちびるは笑みの形。頬を撫でる手はやさしく宥めるようでもあり、悪戯に煽るようでもあり。
「また、あしたね」
ささやき、離れていく。
いつもほんわりと和んでいる顔が、この瞬間はなぜかひどく艶やかに見える。誘いを掛けられているような――それはもちろん、錯覚でも。
「…」
「っ?」
名残惜しいと思ったのはがくぽで、離れていく体を抱き寄せた。驚いて見返されて、やはり他意もない行為なのだと思い知る。
それもそうだ。カイトにとっては、今のはあくまで挨拶であって、恋人のスキンシップではないのだから。
「…」
「がくぽ?」
それもそうだ、と納得してしまった自分が少し哀れで、がくぽは抱き寄せたカイトの肩に顔を埋めた。
離れがたいと感じるのは、自分だけなのだろうか。
一度抱き寄せたなら、ずっと触れていたいと願うのは、自分だけなのか。
ずっと触れて、もっと触れて、すべてなにもかもを。
「がくぽ?」
「………詮無い思考だ」
問いかけるカイトの肩に、がくぽは甘えるように顔を擦りつける。
個人部屋の集まった廊下でこんなふうにべたべたしていれば、なにかの拍子に出てきたきょうだいたちに、これでもかと囃し立てられ、弄ばれることだろう。
それは十分によくわかっていて、それでも、たかが寝るために別れる、その一瞬がひどく憂鬱だ。
永の別れでもなく、別の家に別れるわけでもない。
同じ屋根の下で。
それでも、部屋と部屋のその距離が耐えられないとしたら。
「カイト」
「うん?」
きょとんと問い返されて、笑いがこぼれた。本当に、無邪気だ。
「……がくぽ?」
肩口で震える気配に、カイトが訝しげな声を上げる。がくぽはそのまま、笑って顔を上げ、カイトの額にくちびるを押しつけた。
「いい夢が見られるように」
ささやく。
――大事なひとが健やかたれと願う、小さな祈りの言葉よ。
祈りは、どこまでも強く深く。
夢を見ない自分たちにとって、無為な祈り。
それでも、そこに込められた想いは、今になると妙に身に沁みる。
それをささやくマスターは、どんな想いを抱えて。
「お休み、カイト」
名残惜しさも未練も振り切れない想いもなにもかも、その一言で蓋をした。
離れがたいのだと喚く体を無理やりに引き離す。
途中で、カイトの腕に遮られた。
「もう………」
不貞腐れた声で、カイトはがくぽの胸に顔を埋める。背中に回された手が、責めるように爪を立てた。
「どうして、そうやって抱きしめちゃうかな。それで、離れられるかな」
「カイト?」
責められる謂れもわからずに戸惑うがくぽに、カイトはわずかに顔を上げる。珍しくも、怒っているようだ。
「あのね、寝る前にするハグは、もっと軽くないとだめ」
「……ああ?」
「そんな、ぎゅーって抱きしめて、いっぱいすりすりしたら、だめ」
「………あー………」
別に、ハグしたわけではないのだが。
真実、心の底から離れがたくて、つい抱きしめた。
ハグが習慣としてインプットされているカイトに言いたいことがあるのはわかるが、なにも今、説教を始めなくてもと思う。
もしかして、正しいハグのやり方について、ここで延々と説かれるのだろうか。
しかもそれを、おとなしく拝聴しなければならなかったりするのだろうか。
わずかに腰が引けるがくぽにさらに強く抱きついて、カイトは甘えるように胸に擦りついた。
「離れられなくなるでしょ?!もう寝なきゃいけないのに、こうやってずーっとずーっと、抱きしめてほしくなって、我慢できなくなるでしょ!」
「………」
がくぽは凝然と、カイトを見下ろす。
つむじが、ふわふわかわいらしい。背中に立てられた爪が、きりりとがくぽを責めて痛い。
痛い、けれど。
「それなのに、がくぽはすんなり離れるし…」
恨み言が、うれしい。
滅多に出さない不貞腐れた声が、途轍もなくかわいらしい。
思わず笑み崩れて、がくぽはカイトを抱きしめた。
「――だから、だめだって言ってるのにっ」
責めている本人が、そもそもがくぽにしがみついている。そこからしてもう、責められる理由などないのだが。
「カイト」
「ん」
がくぽは笑いながら、カイトの顔を上向かせた。頤を撫でると、カイトはねこのように瞳を細める。
「よく眠れる、まじないをしてやろう」
「…おまじない?」
きょとんとしたカイトへと、顔を伏せる。抵抗することもないくちびるに、くちびるを落とした。
「ん………うそ。………これ、ほんとに、よく眠れるの………っ?」
ややしてくちびるが離れると、カイトはがくぽにしがみついてようやく立っている状態だった。
上擦る声を抑えながら疑わしそうに訊くカイトに、がくぽはしたり顔で頷いた。
「まじないの一部だ。全部ではないから、眠れないやもしれぬな」