まずい。

リビングに入ったところで、カイトは引きつった顔で立ち尽くした。

もっとおつかれによく効くくすり

ここ数日、諸事情あってがくぽのスケジュールは、詰め込みだった。がくぽだけのせいでも、スケジュールをそもそも組んだマスターだけの責任でもない。

無茶苦茶を要求することの多いマスターだが、ロイドの限界はしっかりと見据えて、そのぎりぎりでスケジュールを組んでいる。

「しょーしんしょーめーのSっていうんだよ、そういうの!」

忙しい、でも限界にはあとちょっと足らない。

微妙な感覚にしばらく晒されると、ミクなどはそう叫んでいる。

しかしここ数日、がくぽが忙しかったのは、マスターのSっ気が発揮されたためではない。

本来、もう少しゆとりがあって組まれていたスケジュールが、組んだ相手側の都合や調整の遅れで、がたがたに崩れ、詰め込まれ、結果として限界を超えるところまで忙しくなってしまったのだ。

マスターは懸命に調整に走り回ったので、がくぽがオーバーフローで倒れることはなかった。

だからといって、疲れないわけではない。

へとへとだ。

そう、疲れている――

「……………ぅ、ぅう………」

「…………」

リビングの戸口に立ち尽くすカイトと、ソファに伸びるがくぽが見合うこと、しばらく。

カイトは苦しく呻き、溺愛する恋人に対しても表情を浮かべることなく冷えきった、がくぽの瞳を見つめる。

――がくぽが疲れのあまりに、カイトに対する愛情を忘れたわけではない。

疲れ切ったあまり、感情を表出できなくなっているのだ。

愛情を忘れていない証拠には、がくぽの瞳はひたすらにカイトを見つめている。離れない。来てきてー、と、架空の声すら聞こえる。

聞こえる、が。

「………………っぅ」

回れ右、するわけにもいかない。

目が合ってしまったし――ここで、ちょっと用事あるから待ってて、と言い捨てていけるほど、カイトはがくぽに対して想いを冷めさせていない。

愛している。

愛しているから、本当ならすぐにでも駆け寄って、ぎゅううっと抱きしめてあやし、がくぽの安心抱き枕と化してやりたい。

疲れ切って感情を表出することもできなくなったときのがくぽは、カイトをきつく抱きしめることで、癒される。

体が軋むほどにきつく抱きしめて、マフラーと高襟のコートに隠された首を曝け出させて、そこに顔を埋めて擦りついて――

「………………」

「………………」

見合うこと、数分。

焦れたがくぽがぴくりと体を揺らしたことで、カイトは諦めた。

逃げようがない。

がくぽに、ちょっと待ってて、の一言が言えないのだ。

言えない以上、もう諦めて、抱かれてやるしかない。

「………っ」

こくん、と唾液を飲みこむと、カイトはそろそろとがくぽの傍に行った。ソファの前に立つと、ちょこりと首を傾げる。

「………ぇへ?」

無意味に、愛想笑いなどを振り撒いてみた――今のがくぽに、そんな遊びに付き合える余裕はない。

「………」

「ん、っわっ!」

ひたすらに無言のまま、がくぽはカイトの腰を抱き寄せて自分の膝に乗せ、胸の中へと愛しい体を抱きこんだ。

ぎゅっと抱きしめてから、首に顔を埋めようとして、壮絶に眉をひそめる。

マフラーとコートの襟。

邪魔以外のなにものでもない。

「っぁ………っ」

「………っ」

常から考えるとひどく乱暴に、がくぽはカイトに手を掛け、マフラーを取り去った。ほとんど引きちぎるようにして、コートの襟を開く。

顔を埋めようとして――

さらなる、障害が増えていることに、気がついた。

「………っっ」

「ぁ、あ……っ、が、くぽ………っお、ねが………ぉねが、い………っおねがい、がくぽ………っ」

きりり、と奥歯を軋らせたがくぽに、きつく抱きしめられたまま、カイトは懸命に嘆願をこぼす。

マフラーとコートの襟。

その下に、あるはずのカイトの素肌。

顔を埋め、滑らかな肌の感触と、香り立つ体臭を愉しむことで、もっとも高い癒しの効果が得られる、そこに――

革製の、首輪。

いや、首輪ではない。首輪を模してはいるが、きちんとしたアクセサリ、チョーカーだ。厚みはないが幅はあるなめし革に、ころんとしたリングのワンポイントがついた、首輪のような、アクセサリ。

がくぽが、今年のカイトの誕生日に贈った、プレゼントだ。

おさんぽは大好きだけれど、幼稚園児の道路交通法も守れず、シベリアンハスキー並みの帰巣本能で、出かけるとどこまでもどこまでもふらふらと歩き回ってしまうカイトに――

リードをつけて散歩してやる、と、ちょっとした意趣返しも含めて、贈られたもの。

実のところ、本命はこちらだとは思うのだが、そのチョーカーには、ワンポイントとしてリングがついていた。

エンゲージリングという名の。

がくぽはしらっとして、そこにリードを繋げてやる、と言っていた。

大型犬が暴れても切れない、太くて頑丈な、赤いリードを――

ものがものなだけに、いつも付けていられるわけではない。

着替えがあるような仕事のときは、カイトは家に置いて行っている。

なにかの拍子に失くしたりしたら、嫌だからだ。

けれど今日は家から着の身着のままで行って帰れる仕事で、デフォルトの服装さえしていれば、着替えもなく、首を曝け出すこともなく――

だからカイトは当然のように、首にチョーカーを潜ませていった。

すぐに体に馴染んでしまうそれは、仕事に熱中しているときにはまったく気にならない。

しかしふとした瞬間に存在を思い出すと、カイトをひどく幸福な気分にしてくれる。

「………っ」

「おねが、がくぽ………っぉねがい、おねがい………っ」

疲れ切っているがくぽには、チョーカーの金具を外すような細かな芸当は出来ない。金具部分を引きちぎるくらいのことは、やるだろう。

が。

自分で贈ったものだ。

誰よりも愛する恋人に。

そして恋人は望むべくもなく、贈り物を大切にしてくれて、こうして出来る限り身に着けていてくれる。

望むべくもない――望むべくもなく。

「………っっ」

「がくぽ………っ」

もはや奥歯が折れそうなほどにぎしぎしと軋らせてから、がくぽは首を伸ばした。

くわっと口を開くと、曝け出した首の上、つるんとした耳朶に咬みつく。

「っぁうっ!」

「…………っ」

きり、と牙を立てられて、カイトは衝撃と仄かな痛みに体を跳ねさせた。

逃げようとしたわけではないのだが、がくぽの腕には力が篭もる。

逃げない、大丈夫だから、と宥めようとしたカイトだが、すぐにまた、体を大きく跳ねさせた。

「っぁ、ぁあ、んゃっ、ぁ、ひ、ひゃぁんっ!」

「……………」

自分で掘った穴にうっかりと嵌まってしまったがくぽは、自分への苛立ちも込みで、カイトの耳朶にかぷかぷと牙を立てる。

てろりと舌を這わせると、肌の滑らかさは格別で、仄かに甘みすら感じるような気がした。

がくぽは甘いものが得意ではない。しかしこの、あまりに仄かですぐ忘れてしまうような甘みは、ひどく気に入った。

「ん、ぁ、ゃぁあ………っ、ぁ、ぁあ………っひ、ぃいん……っ」

いつしかがくぽは夢中になって、カイトの耳朶に吸いついていた。

腕の中にきつく抱えこんだ体は激しく跳ね回り、耳にはひっきりなしに、甘くかん高い悲鳴が注ぎこまれる。

敏感さゆえに快楽に弱く、いわば弱点だらけのカイトはもれなく、耳も弱かった。

体にランキングをつけていったなら、上位三位に入るレベルだ。

そんなところを容赦なく嬲られたら、さすがに声を我慢出来ない。

「っぁ、あぁう、ぁん………っ、ぁ、がく………ぁう、がくぽ………ぉっ」

切なく呼ばれ、髪を掻き乱される。

がくぽはわずかに顔を上げると、潤んで見つめるカイトへ頷いてみせた。

「気に入った」

「っえ、ちょ、がくぽっ………っぁ、ゃあぁ………っひんっ、ぁ、あぁあ………っ」

つぶやくと同時に、がくぽは再びカイトの耳朶を舐めしゃぶることに熱中しだした。