畳に転がってうたた寝していたがくぽの体の上に、そっと伸し掛かるものがある。
そろそろ起きようとしていた時間でもあって、がくぽは薄く瞳を開いた。
が、その瞳はすぐ、滅多にないほどに大きく見開かれる。
ナース☆コール
「あ、起きちゃった。失敗☆」
「………」
凝然と見つめるがくぽに、「不法侵入者」は実に明るく言い放った。
その気配が、ふっと変わる。
とろりと蕩けて滴る蜜のように甘く重くなり、伸びた手が、立ち直ることのできていないがくぽの頬を撫でた。
「が・く・ぽ・せんせーvvvあのね、カイト、せんせーのこと見ると、胸がきゅうんて締めつけられて、苦しくなっちゃうんですぅ。がくぽせんせーのイ・ケ・ナ・イおちゅーしゃで、カイトのおびょーき、な・お・し・てvvv」
「…………ふっ」
部屋に無断で侵入したうえ、うたた寝するがくぽの寝込みを襲ったのは、そう、カイトだ。
がくぽの、だれよりも愛おしいコイビト。
だが。
ナナメに笑うと、がくぽは手を伸ばした。がくぽに跨るカイトの腰をがっしり掴むと、持ち上げる。
「どっせぇいっ!!」
「んっわ!!」
気合い一迫、カイトを下ろすと、がくぽは起き上がって正座した。びしりと自分の目の前を指差す。
「カイト、一寸そこに座れ」
「んぇええ」
お説教の気配を感じ取り、カイトは情けない声を上げる。
が、逆らえる空気でもない。
仕方なく、カイトはがくぽの前に正座した。短いスカートから、むちっと太ももの際が覗くのを、軽く手をやって裾を伸ばす。
そう、カイトはスカート姿だった。それも、極ミニの。
正確に言うと、スカートではない。ワンピースだ。
体にぴったりフィットするタイプの、真っ白なワンピースと、頭に被る、キャップ――
「カイト。今度はどこの病院の、ナース服の宣伝キャラクタだ?」
「えっとぉ………」
冷たいくらいに淡々と訊かれて、カイトは口をもごつかせた。上目遣いに、がくぽを見つめる。
タイトルをつけるなら、「ボクらのイ・ケ・ナ・イ☆ナースさんvv」。
そう、カイトは単に女装しただけではなかった。ナース服、それも実際業務向けではなく、水商売、さもなければ裏物用の、色香を売りにした――
まともな病院では、決して採用しないだろう、こんなナース服。仕事場の倫理規定以前に、セクハラでナースから集団訴訟が起こる。
「宣伝キャラクタじゃなくて、今度のめーちゃんの、新曲の衣装」
「………」
「なんかPV撮りのときに、2サイズ持ってきてくれたらしいんだよね。で、『ちっちゃいほうでイケたから、おっきいほうはあんたに上げるわ』って」
「…………………」
頭痛のあまりに沈み込みたくなった。
実際、がくぽの体はわずかに傾いだ。
額を押さえ、がくぽは兆す頭痛と懸命に戦う。
メイコの新曲の衣装が、お水ナースなのは別にいい。その衣装を気に入って、買い取ってくるのもいい。
彼女の好きだ。
だが、その買い取ってきた衣装を――なぜ、二人いる妹ではなく、ショタっ子を標榜し、ちょくちょく女の子スタイルを取らされている下の弟でもなく、カイトに。
メイコ曰くの、「おっきいほう」というなら、確かに年少の妹たちにも「おっきい」だろう。特に胸囲的な話で。
下の弟も同じ――としても、なぜ自分が着なかった大きいほうを持ち帰り、成人した弟に渡すのか。
強権的家長として家の中を取り仕切り、時としてもっとも頼れる常識人として家族を締め上げるメイコだが、所詮はこの家の、ということか。
やはりたまに、行動原理が不明な、悩ましい姉だ。
「で、口上は?だれに入れ知恵された?」
「こう、じょう?」
きょとんと首を傾げてくり返すカイトは現在、むっちりぴったりナースさんだ。家だというのに無駄にプロ意識を発揮し、薄化粧も施している。
おかげで、衣装と顔が合わないと、落差に失笑を浮かべる隙もない。
ナース服だからどうだという嗜好はなかったはずだが、カイトが着ると。
そのうえ、いつもは隠されている首やら太ももやらが、こうも惜しげもなく晒されてしまうと、重ね重ね、隙がない。
「………がくぽせんせーがどうのこうのという、アレだ。だれにそう言えと、教えられた?」
訊かなくても、大体答えはわかっている。ああいう、おばか過ぎてナナメ笑いが浮かぶような口上を考えるのが得意な家族といえば――
「レンくん」
「なにぃっ?!!」
予想の遥か彼方を飛び越えて、成層圏に突入して燃え尽きたような名前が出てきた。
目を剥いたがくぽに、カイトはわずかに仰け反りつつ、もじもじと手を組み合わせる。
「レンくんは、ちっちゃいほーのナース服着せられてね?んでも、ぶかぶかだったんだけど……歓んだリンちゃんに、『ナースさんぽいこと、なんか言って!』っておねだりされて、………」
言ったのか、がくぽの名前の部分を、リンに変えて。
おそらく弟は、自棄を起こしていたのだろう。もれなく女装させられた、ショタっ子の自分に。
微妙に胸を撫で下ろすがくぽに構わず、カイトは記憶を探るように上目遣いになった。
「んっとぉ、確かぁ………『リンちゃん、いたいおちゅーしゃでも、ガマンしようね?リンちゃんのいやらしーおびょーき治すには、レンナースのいやらしーおちゅーしゃがどぉしても必要なの』?」
「っっ」
予想を――まさかの、カイト用新作――
いくらなんでも自棄になり過ぎだ、弟よ。それとも意外に、ノリノリだったのか。突き抜けて。
レンの声真似までして再現したカイトに、がくぽは堪えきれずに畳に伏せった。図らずも土下座状態だ。
このままうたた寝に戻ろうかな、と思いつつ、がくぽはそっと視線を上げる。
すぐ傍に、カイトの膝。
短いスカートだ。下手な座り方をすると、太ももどころかその先、際どいところまで見えてしまうような。
この位置で視線を上げると、影になってはいても。
「が、がくぽ?だいじょーぶ?」
「………」
畳に伏せったがくぽが、おそらく呆れているだけだろうとはわかっていても、それはそれ。
心配して腰を浮かせたカイトは、伏せるがくぽの様子を窺うために、伸し掛かってくる。
そういう動きをすると、さらにスカートの中身が。
「…………つまり、なにか。うちの姉上は、ナース服を二着とも持ち帰ったうえ、弟二人に着せ替えさせて遊んでいたのか」
「なんか、身も蓋もなく聞こえるね………?」
身も蓋もないから、あるように聞こえるわけがない。
腰を浮かせたまま畳に片手をつき、片手でがくぽの髪を梳くカイトは、無邪気に困惑している。
だから、中身が――中身、が。
「…………ガーターに、白のレース……………」
「んぇ?…………え?ぁ、あ、わぁっ?!!」
がくぽのつぶやきに、きょとんと首を傾げたカイトは、すぐさま身を引いた。
顔どころか、全身の肌を羞恥に染めると、きゅっとスカートの裾を掴んで引っ張り、両足をぴたんと閉じる。
へちゃんと畳に座り込んで、微妙に恨みがましく見つめるカイトに、がくぽはようやく体を起こした。
姉のこだわりの発揮どころが、さっぱり理解不能だ。所詮はあのマスターのロイド――彼女に対し、恋情を抱ける思考回路からして、不思議もないことなのか。
体を起こしたのみならず、がくぽは手を伸ばすと、後ろへとにじったカイトの腰を掴んだ。強引に引き寄せて、胡坐を掻いた膝の間に座らせる。
「ぁ、あ、………がくぽ」
「『がくぽせんせー』、だろう?」
「………」
――カイトからすると、がくぽのこの立ち直りのタイミングこそが、理解不能だ。
さっきまで、しょぼんと項垂れて、自棄を起こしかけていたというのに。
今はもう、やる気満々で、男臭さを垂れ流している。
やる気満々といったら、もちろん――
「あ、のね、がくぽ?いっこ、訊いてもいい?」
「なんだ?」
膝に抱え込まれた以上、突入する先はわかっている。始まってしまうと、疑問は疑問のまま、訊く隙もなくなる。
カイトは大人しく抱え込まれたまま、生真面目に首を傾げた。
「あのね、『イケナイおちゅーしゃ』って、なに?」
「………なに?」
ある意味、男の色香むんむんだったがくぽの表情が、空白に落ち込んだ。
構わず、カイトはむむむ、と眉をひそめる。
「だから、『がくぽせんせーのイケナイおちゅーしゃ』。って、なに?」
「…………」
空白の表情から回復しきれないまま、がくぽはかわいいコイビトをうっそりと見た。
それこそ、「ボクらのイ・ケ・ナ・イ☆ナースさんvvv」だ。
せんせーのおちゅーしゃやら患者さんのおちゅーしゃやら、甘えて強請って、上から下からぱっくんもぐもぐしそうなのに。
「………わからんのか」
「注射だっていうのは、わかるよ!」
ぼそりと落とされた問いに、カイトはぷくんと膨れて答えた。
のみならず、がくぽの膝の間に抱えられたまま、可能な限り姿勢を正す。
ぴしんと背筋を伸ばしたその姿は、いくら格好が「ボクらの以下略vvv」であっても、職業への誇りと威厳に満ちたナースそのものだった。
「イケナイんでしょ?で、お注射でしょ?あのね、がくぽ。いくら『合法』ドラッグって言っても、やっぱりだめなものはだめだと思う!合法とか違法とかの線引きじゃなくって、クスリに頼らなくちゃいけないっていう、その状態が」
「………」
きびきびと言うナースさんを抱え、がくぽは軽く天を仰いだ。
もしかしたら、ずっと年下の弟のほうがよほど、中身はオトナかもしれない疑惑が――いや、疑惑もなにも、確実にそうだ。
だれよりも愛おしいがくぽのコイビトは、なんて純情で、汚れがなくて、まっすぐ素直で、眩しい存在だろう。
「………ふっ」
「がくぽ?」
聞いてるの?と頬を膨らませたカイトを、ナナメ笑いをこぼしたがくぽは膝から出した。
きっちりと正面から向き合うと肩を掴んで固定し、戸惑う色を浮かべる瞳を真剣に見つめる。
「が、がくぽ?」
「いいか、カイト。自分のことを大事にしろ。自分はプロだとか、仕事は選ぶものじゃない、仕事が選ぶんだとか、確かにその一面は認める。認めるが、自分を大事にすることも覚えてくれ」
「え?え、がく、え?」
「ましてや、家族相手に――サービス精神もほどほどにしろ。まずは自分を大事にして、守ることを優先するんだ。いいか、俺もお主を守るために尽力するが、カイトも努力してくれ」
「え……………えええ?」
――いっそもう、悲愴とすら言える表情で言い諭すがくぽに、カイトはひたすら瞳を瞬かせ、困惑のどつぼに嵌まっていた。