冷たいアルミサッシを引いて、からりと窓を開く。途端、入りこんでくる外気に凍えてぶるりと震える体と、それはそれとして堪えようもなくこぼれるのが、
「くぁあ……っふぁ」
――大あくびだ。
日はまた昇り、昨日と明日と
「はぁー………ねむねむですよ、やれやれ」
なににかぼやきつつ、マスターは開いた窓から足を出した。庭に出るためのサンダルを足置きに、しかしそれ以上出ることはなく、背を丸めて膝に肘をつくと、手のひらに顎を乗せた。
見上げる空はまだ暗く、けれど東に曙光。
白んでいく空と、だからこそ殊更に冷える空気があって、――
朝だ。
一月一日、年が明けて初めての朝。
昇るのは、年が明けて初めての太陽。
「……今年は天気に恵まれましたね。まっさら誤魔化しもない初日の出が拝めるとは」
つぶやくマスターがいるのは、リビングだ。そして窓から半身を晒す彼女の背後には、彼女の家族たるロイドたちが思い思いもとい、死屍累々とばかりに横たわっている。
本日は一月一日であり、昨日は十二月三十一日だった。
――基本的にこれ以上の説明はないわけだが、念のために補記しておくと、忘年会明けの新年会明けの朝である。
年越しの瞬間をまたいでの宴であるから、ロイドたちの入眠時間はついさっきと言っても過言ではない。
ちなみに、人間とは睡眠のありようの違うロイドだ。一度入眠したが最後、規定の休眠時間を満たすまではよほどのことでも起こらない限り、目を覚ますことはない。そのうえ、人間より寒さ冷たさに強い構造だ。
今の季節にろくな掛け物もなしで床にごろ寝していても風邪を引く心配はないし、こうして窓を開け放していたところで、寒い冷えると喚いて起きだすこともない。
とにかく、あと何時間かして規定の休眠時間を満たさない限り、彼女の家族はだれひとりとして起きない。たとえば今ここでトランペットを熱演しようと、ドラム演奏に興じようと――
彼ら彼女らの肩を直接に掴んで揺さぶり、『初日の出だよ、いっしょに見ようよ』と、『マスター』が懇願したとしても、だ。
起きる家族は、いない。
「というわけで、今年もひとり初日の出観賞会です。べ、べつに、サミシクナンテナインダカラネー」
教科書的見本とでも言うべき棒読み口調で無意味なツンデレパートをこなし、マスターはぐっと顔をしかめた。
「くぁ………っ」
堪えても堪えきれずにこぼれるのは、早朝の冷気にも醒めることのない眠気から来るあくびだ。
いい加減、彼女だとてシラフではない。徹夜で睡眠不足も甚だしいし、忘年会から新年会にかけて摂取したアルコールは、ちょっとやそっとの冷気など跳ねのけて感じないほどの量だ。特別に上着を羽織ったわけでもなく外気に晒している体は、冷えていることはわかっても『寒く』はない――
ロイドたちが寝落ちるとともに彼女もアルコールに潰れ、寝て良かった。
が、彼女には決め事があった。家族には告げない、ただひとりきりの決め事だ。
初日の出だけは、見てから寝ると。
初日の出だけは、必ず起きて見ると。
しばらくは凍ったように微動だにせず空を見ていたマスターだが、ふいにすとんと肩を落とした。はあと、内臓の奥底から絞り出すように酒臭い息を吐く。
「……しかしまあだからといってなにか特別なことがあるかというと特にないですよねっていう。いつもと変わるところもなく変わることもなく日の出は日の出。東から昇る太陽でたぶんこのあと何時間かするといつも通り西に沈むんですよこれが、ぉおうっ?!」
――高速でぼやいていたマスターだが、すべてを言い切ることは出来なかった。
頭上から唐突に毛布が降って来て、油断しきっていた彼女はその程度の重みにも抗しきれず、見事に潰されたからだ。それこそ、手のひらから顎を滑り落としても止まらず、べしゃりと膝にまで埋まった。
近年これほど完璧に潰された記憶はない。
しかもちょっとした災害に見舞われているマスターに、降って来たのは毛布だけではなかった。
「夢もへったくれもないとは、こういうことを言うのであろう、マスター」
「へ?」
つけつけとした言葉も降って来て、毛布に潰されたマスターはきょとりと瞳を瞬かせた。
彼女はひどく不器用な動きでもたもたと格闘し、やっととばかりに毛布から顔を出すと背後を振り仰いだ。
「がくぽさん」
「眠りが浅かった」
「はあ」
対応の荒っぽさと言葉のとげとげしさから想像していたより、がくぽはずっとやわらかな表情だった。
いやそうだ、がくぽだ。ロイドだ。背後に累々とする家族たちと変わらず、よほどのことがない限り、規定の休眠時間を満たさなければ起きないはずの――
なんだって起きて、立って、しかも薄着の自分に毛布を被せたりと、世話を焼いているのか。
展開が理解できず、珍しくもひたすらきょとんとしているマスターを目線だけで見下ろし、がくぽは仄かに笑った。自嘲を含んで、多少苦い。
「興奮が過ぎたのだろう。今ひとつ寝つきが悪かった。否――寝つけなかったのであろうな、貴殿の動きで目が覚めたことを考えれば。挙句、新年から夢もへったくれもない独り言だ。起きぬわけにはいかぬだろう」
「はあ、それは………」
表情はそれほど尖っていないものの、つけつけとした口調のがくぽは、興奮して眠れないなどという稚気じみた己の反応に照れがある。それを素直に吐露する己にも、また――
わかっていたものの、いい加減に酔いどれで睡眠不足のマスターはきれいに口を滑らせた。
「また、繊細な」
「え、ごめんなさい?」
「へ?」
「ん?」
滑った口に即座に応じた第三の声があり、しかもそれがゆえもない謝罪をこぼした。
マスターはさらにきょとりと目を丸くし、あまりに素直な感想に一瞬は尖ったがくぽの瞳も、さっと見開かれた。
その丸い目まま、マスターとがくぽは同時に声の主へ視線をやる。
「あ。まちがいた。ごめんなさいくない。別に俺、センサイで目が覚めてないし」
飄々とこぼすのは、カイトだ。
ねこのように伸びをしながら身を起こしたカイトは、寝たあとに恋人が掛けてくれた羽織にちゃっかり腕を通して着こんだ。だからといって、寒さに凍えたわけではない。
恋人の思いやりはとことん享受するという、いわば叩きこまれた反射行動だ。
「カイトさん」
「カイト」
呼ばれたカイトは、無邪気ににこっと笑って二人の疑問に答えた。
「アルコール抜けて起きた」
「ああ」
「ぅっ………っ」
カイトの端的な説明に、素直に納得したのはマスターだけで、がくぽは堪えきれない苦鳴を漏らした。
補記しておくと、がくぽがカイトを溺愛していることに変わりはない。自分でもいい加減どうかとは思うが、こうしてはいても愛が深まることはあれ、醒める様子はまったくないのだ。
が、それはそれのこれはこれ。
『酒酔いのKAITO』という状況を想起するだけで、勝手に出て来る体の反応というものがある。主に恐怖や畏れやなんだかそういった関係のものだが。
カイトの――KAITOシリーズの酒癖の悪さは伝説だ。レジェンダだ。神だ。
愛はあるがくぽだが、まあとりあえず今後いっさい、カイトに酒を呑ませようとは思わない。次にもしも呑むようなことがあったら、全力で回れ右して地球の裏側まで逃げようと決心している。
「ああ、新年の抱負が無駄に………」
遠い目をして、がくぽは昇り染めの太陽を見やった。新年、元旦である。誓いは即、一年の計と――
同じく恐怖体験に晒されたはずのマスターといえば、過ぎた災難にこだわる性質ではなかった。表情も口調もさばさばと、禍根も遺恨もまるでなく頷く。
「アルコールが抜けるとき、意識が一瞬、トぶんでしたっけ。寝落ちじゃなくて、そっちの方だったんですね」
「うん。ネジ入れ替えるから。だから俺もう、シラフでーっす」
生真面目な顔で洒落にならないことをほざきつつ、カイトは四つん這いでぺたぺたと、マスターとがくぽのそばへやって来た。へちゃりと腰を下ろすのが、マスターの傍らでありがくぽの足元でもある、絶妙の場所だ。
「言ってもいつもだと、すぐまた寝るんだけど……なんかちょーど、がくぽとマスターの声、聞こえたから。起きてみました」
言いながら、マスターの基幹の体の向き、そしてがくぽの目線を辿って東の空に目をやり、ぱっと表情を輝かせる。
「『初日の出』?俺初めて!初めて?」
「え?ああ、………」
答えようとしたマスターだが、言い切れないまま口を噤んだ。
正確には、問いではなかったらしい。カイトはマスターの答えを待たず、胸の前でぺそぱそと、しけった柏手を打った――ただしこれはカイトの柏手が下手ということではなく、未だ寝ているきょうだいを慮ったためだ。
カイトはそうやって胸の前で手を合わせると、瞼を落とし、日の出に向かってぺこりと頭を下げた。
「今年も一年、みんなが元気でありますように」
つぶやく。
言葉は祈りだ。
マスターは昇りくる日に希う長男を見た。瞳を瞬かせつつ、少々上向いて次男を見る。
がくぽもまた、カイトに倣って胸の前で手を合わせ、神妙に頭を垂れていた。
マスターはゆっくりと、捻じれた体を戻した。
日の出は日の出だ。
暦など、ひとが勝手に制定しただけのもの。しかも時の権力者によって採用する暦が違うというおまけつきで、『今日』が新年最初の日である場所も限られているし、――日の出は、日の出だ。変わることもない。
そうだ。
日の出は、日の出だった。日の出は、日の出でしかなかった。
マスターは驚嘆に満ち、改めて東の空を眺めた。
眩しい。
いつもと同じ、変わり映えもしない、特別なことなどなにもない日の出だ。
それを『初日の出』と名付けるのもまた人間の勝手で、崇めるのも。
人間のこころひとつだった。
こころの持ちよう、ひとつ。
初日の出を『初日の出』たらしめるのも、変わり映えもない単なる日の出と片付けるも――
「……こういうの、『負うた子に瀬を』って、言うんでしょうね………」
つぶやいて、マスターは目を細めた。眩しさに痛んで、目に滲むものがある。
「さて、もういい加減空気の入れ替えも済もう。閉めるぞ」
ややしたところでけりをつけたがくぽが屈んで手を伸ばし、外へとはみ出すマスターの足を軽く叩いた。
窓を閉めるから上がれと促すそれに逆らわず、マスターは部屋の中に戻った。すっかり凍えた足を、毛布の中に入れる。その間に、がくぽはからりと窓を閉めた。
すでに遅しの感がある。リビングの空気は冷え切って澄み渡り、酒宴の名残りもない。いや、床に転がった空き瓶やらお菓子の袋、つまみを乗せていた皿など、これでもかと物理的な名残りはあるわけだが。
冷え切った足を毛布の中でもぞもぞとこすり合わせるマスターと、部屋の惨状を併せ見たがくぽは眉をしかめた。がりりと、癇性に頭を掻く。
「まあ、起きた以上は致し方ない。ひとは転がしておくにしても、ゴミや皿だな。少々片付けて……」
「え、いや、がくぽさ……」
マスターは人間だが、がくぽはロイドだ。
人間ならば体が冷えて目が冴え、すぐには眠れないということもあるが、ロイドは違う。寝ると決めれば眠れる。
さらに言うなら、人間の睡眠不足も危険だが、ロイドが規定の休眠時間を満たさないまま動き続けることは、輪を掛けて危険だ。むしろがくぽは今すぐ、お布団に駆け潜っておねんねするべきなのだ。
次男が四角四面に生真面目で、神経質なところがあり、この乱雑さを赦せないことは理解できる。だとしても状況が状況だ。誇張でなく、『命』に関わる。
さすがに眉をひそめ、『マスター命令』でも発動しようかと思案したマスターだが、その必要はなかった。
なぜなら今ここに起きているのは、がくぽとマスター、二人だけではないのだ。
「とりあえず酒び、っのわっ?!」
「ねむいー、うんそーやさんー」
「だれが運送屋だ?!」
せかせかと動こうとしたがくぽの背中に、がっしりと組みついたのはカイトだ。言葉だけでなくもったりと重い、いかにも眠そうな声で、体重の掛け方も容赦がなかった。
だからといって無様に潰れるがくぽではないが、不意打ちでもあるし、なにより眠気にきっぱり敗北して逆らう気がまったくなく、ぐだぐだになった体というのは始末が悪い。
「じゃーあー、クロヌコさんーもといのークロイヌたんー」
「『じゃあ』?!っと、カイト、ちょ……」
半ば眠るカイトが次から次へとくり出すボケにツッコむにも、だからカイトは半ば眠っているので体がぐだぐだだ。立っているのも覚束ないが、がくぽが組みつかれたのは背中で、支えようにも上手くいかない。
がくぽは諸々中途半端に格闘し、なんとか崩れるカイトを体の前側にして抱き上げることに成功した。
ほんのわずかな時間で疲労困憊したがくぽは、抱えたカイトに渋い顔を向ける。
「お主な」
「べっどー、ぁくぽー………ねゆ………」
「お主な……………」
姫抱っこされたカイトは素直にがくぽの首に組みつき、眠気に回らない舌でのたくらと強請る。目はほとんど完全に閉じて、むしろなぜ今まだ話しているのかが不明だ。
がくぽは肩を落とすとともに表情も緩ませると、凭れるカイトの額にくちびるを当てた。
「仕方のない。運んでやるゆえ、安んじて寝ろ、もう」
「んー……」
やわらかな声であやされたものの、カイトはきゅっと眉をひそめた。すりりとがくぽに擦りつき、首に回した手にもわずかに力が入る。がくぽのくちびるが、さらに甘やかに綻んだ。
「寝入ったお主の腕を無理に解いて離れられるほど、俺の性根は据わっておらん。よく知っていよう?」
「ん………」
ささやきに、カイトは小さな鼻声で応えるともなく応え、その体から完全に力が抜けた。
信頼しきって眠る恋人を腕に抱えたがくぽはもう一度、額にくちびるを当てる。
眠りの安らかさを祈るような間を置き、顔を上げたがくぽはマスター相手に肩を竦めてみせた。浮かべる笑みは、照れを押し隠そうと無為に格闘した挙句、仄かに歪んで幸福だ。
「片付けは、起きた後だ。貴殿も寝ろよ」
「あ、大丈夫です。マスターは起きてからも特に片付けの予定はないむにゃむにゃぐぅ」
笑みを消して睨む花色の瞳から横を向いて逃げ、マスターは語尾を濁した。
しかしすぐに顔を戻すと、毛布を被せたまま片手を上げ、バイバイと振る。
「おやすみなさい、がくぽさん。カイトさんをお願いします」
「………きちんと布団に行けよ。貴殿は人間だ。この季節にこんなところで雑魚寝では、風邪を引く」
つけつけと言いつける次男に、マスターは笑った。
日が昇って南向きのこの部屋に差しこみ、窓辺にいる分にはぬくもりも感じられるようになってきた。
けれどまだ、部屋全体を温めるには足らず、早朝の冷えこみを追いやるにも足らない。毛布一枚では、人間の彼女は確かに寒く、凍える。
そうだとしても、日は昇ったのだ。
ちらりと空を見てから目を戻し、マスターは答えを待つがくぽへ微笑んだ。
「がくぽさん、あなたは私の自慢の子です。私はあなたが誇らしい」
「ます」
マスターが常日頃からよく言うことではあるが、状況的には性質の悪い誤魔化しとも聞こえる。
さっと眉を跳ね上げたがくぽが反駁するのを制し、マスターは笑みとともに言葉を続けた。
「もちろん、カイトさんもです」
「………」
続けるマスターに思うことがあり、がくぽは大人しく言葉を呑みこんだ。
「それから、メイコさんにミクさんに、リンさんレンさんも」
言って、マスターは笑う。背後に負うやわらかな冬の陽光のようにも、強く灼く夏の日差しのようにも。
「あなたたちは、私の自慢の子です。私はあなたたちがみんな、みんな、誇らしい。とても、誇らしいです」
「………」
告げるマスターをしばらく見つめていたがくぽだが、結局、眉をひそめると吐き出した。
「『子』は止せ。………ミク殿やらはともかく」
お決まりの文句を投げたがくぽがカイトとともにリビングを出るのを見送り、マスターはもう一度、窓の外へ体を向けた。
空は明るい。もはや『日の出』という状態でもないだろう。
そうだとしても――
飽かず窓の外を眺めていたマスターだが、ややして思い切ると、ちらりと天井へ目をやった。いつもは同じ布団で寝るとなるとそれなりにそれなりな時間を要する恋人たちだが、さすがに今日はもう、素直に寝入っただろう。
そしてここに累々と眠る家族も、しばらく起きることはない。
毛布を引っかぶったままずりぺたずりぺたと移動したマスターは、酒瓶を抱えて眠る長女の傍らに腰を下ろした。
「というわけで残る問題は、ここで私がこう、アレな感じでメイコさんの隣にアレに寝た場合ですね――アレな感じに寝ていたと知った照れメイコさんと、言いつけを破ったと知ったがくぽさんの、二大巨頭を起き抜けに相手にしなければならないという、アレなんですが」
ぶつぶつとこぼすのはどうしようもなさも極まれる検討だが、応える声もツッコミもない。どこまでも独り言だ。
なぜなら彼女の家族は今、全員が全員、安らかな眠りに沈んでいる。
マスターは束の間黙り、やれやれと肩を竦めた。
「べ、べつに、サミシクナンテナインダカラネー」
――ぷすっとした顔で無意味なツンデレパートを挟んだマスターは次の瞬間、弾けるように笑った。