「カイト」
「んっ、ぅ?」
呼ばれた。
と思った次の瞬間には、カイトはがくぽにきつくきつく、抱き締められていた。
ウェスウィーオの静かな恋獄
すれ違いざまだ。――もちろんこれは、ケンカをしたといった意味の『すれ違い』ではない。
カイトもがくぽも、家の中を互いにいつものように、あれやこれやといった用事をこなすために動き回っていた。その、動き回っていた中で、たまたま向かう側の問題で『すれ違った』という――
ただ、すれ違ったのだ。それだけだ。
ことに意思の疎通に問題があったあとでもなく、ふたり仲良く過ごしていて気持ちが盛り上がったという、成り行きすらもなく。
向かう先は違うが、『道』が束の間交差するため、すれ違った。
否、すれ違おうとした、その瞬間だ。
行き過ぎようとしたカイトを呼び止め、のみならず、がくぽは手を伸ばした。それでカイトの腰を掴み、いつもより若干、強引に抱きこんだ。
若干ではあれ、いつもより強引だとカイトが感じたのは、端的に言って『痛かった』からだ。
がくぽはとにかく万事、器用に動く。こういった、突然にカイトを抱きこむといったようなことでも、ひどくなめらかにこなすのだ。
だから普段であれば、カイトは『なにも感じない』。
ぱちりと瞬きをしたなら、どういうわけかがくぽの胸に顔を埋めていたといったような――
いったいなにが起こったものか、瞬間的に理解が追いつかず、きょとんぱちくりとする。まるで魔法だ。がくぽに言わせれば、魔法の要素などまったくなく、力学の応用の程度でしかないそうなのだが。
とにかく、カイトの意思によらず『強引に』しても、がくぽはその強引さをいっさい、感じさせないのが常だ。カイトも同意し、協力して動いたかのようなスムースさでことを成す。
それが今日、カイトは体に痛みを感じた。ほんのわずかだが、その痛みを基点に辿ってすぐさま、自分ががくぽに『強引に』抱きこまれたことを理解した。
カイトの同意も得ずに強引にやればこそ、無理がかかった体が痛みを覚えたのだと。
こんなことは珍しい。ほとんどないことだ。がくぽが強引に振る舞うことがではなく、強引にやったと、カイトにすぐさま気づかれるような、不器用を晒すことがだ。
きっとなにかあって、ひどく動揺したがために、そうなったのだろう。カイト相手に突如、強引な振る舞いに出たこともだし、強引さを隠しもできなかったこともだ。
――だがしかし、だ。
直前の出来事を辿っても、そこからさらに少し遡ってみても、カイトにはがくぽがここまで動揺するような『なにか』が、思い当たらない。
「……がくぽ?」
いつもとは違う意味で状況判断に頭をぐるつかせてのち、カイトはそっと、声を上げた。降参だ。カイトに思い当たることがない以上は、本人に直接訊くしかないという。
それで、そっと声を上げたカイトへ、がくぽは抱きこむ腕の力を増すことで返した。
当然ながらカイトは痛いだけで、なにもわからない。
「………がくぽ」
「好きだ」
「ん?」
仕方なく、なにあれとりあえず力を緩めてはもらえまいかと促したカイトに、がくぽはようやく、言葉で返した。返したと言えるかどうか、微妙な言葉ではあったが――
「がくぽ?」
「カイトが好きだ」
抱きこむカイトの肩口に顔を埋め、がくぽは呻くように吐きだす。呻くようではあるが、声は真摯で内にこめられた感情も熱く、激しい。
「…っくぅ……っ」
カイトは自らの肌という肌が、堪えもできずに赤く染まっていくのを感じ、軽く天を仰いだ。
もう何度、言われたか知れない言葉だ。そろそろ馴れて、さらっとクールに流せてもいいはずの。
なにしろコイビトとなってから一日とて、聞かなかった日はない――否、あるかもしれない。
がくぽは普段、どちらかといえば『愛おしい』というほうをよく使って、『好き』というのはあまり使わないからだ。
しかしてなんだかだ、がくぽは言葉を尽くしてカイトを愛で倒そうとするので、やはり一日に一度は『好き』も言われている気がする。今度それぞれの言葉について、きちんと個別にカウントを取ってみよう。
――そう思いついたカイトの心中は、つまり、『クール』の対極にあった。動揺の極みだ。アレもしたしコレもしたしの仲だというのに、まるでいっさい、馴れがない。
挙句、これほど尽くしてくれるコイビトに対し、今となってようやくカウントを取ろうと思いつくだなんてずいぶん薄情な話だと、いらない自責の念まで募らせた。
今ようやくもなにも、そういったもののカウントを取る必要はどこの段階でも、いっさいない。むしろ余計だ。やらかしに分類される行動だ。
しかしてそういったことに気づける余地もなく、カイトは恋人からの真摯な告白に悶えた。
――念のために補記すれば、心の中でだ。体といえば相変わらず、きつく抱き竦められていて、ちょっと身悶えるのも不自由する。
「好きだ、カイト」
「…ぅん。ぁの、ぁ」
羞恥にもつれる舌を懸命に繰って、俺もと返そうとしたカイトだが、言えなかった。
否、正確には、言わせてもらえなかった。がくぽに聞く余裕がなかったからだ。
もたつくカイトの答えを待たず、がくぽは続きを押し被せた。
「好きなんだ――が」
「………ぅん?」
カイトの肩口から顔を上げないまま、がくぽは呻くように吐きこぼす。
そこでカイトははたと羞恥から醒め、わずかに眉をひそめた。
この場合の接続詞が『が』である場合、続く言葉は反証だ。
『おまえのことは好きだが、○○なところは嫌いだ』といったような。
いやはやまったく、自分はいったいナニをしてしまいましたかねと、カイトは居住まいを正すような心地の敬語で考えた。
続くものが反証である以上、なにかしらの反省を迫られるか、叱責されるか、とにかくろくな感じのものが続かないと、相場は決まっている。たとえこうまできつく、いわば熱い抱擁を強いられていたとしても、だ。
否、もしかして『アツイ抱擁』ではなく、逃げられないようにと、『とっ掴まえられた』というのが正しかったのかもしれない。
それはまあ、叱責含みなのだから配慮も薄い。体も痛みを覚えて当然という――
どのみち問題は初めに返る。
つまり、なんであれとにかく、カイトにはまったく心当たりがない。
となると、カイトが意識できていない部分でのなにかがよろしくなかったということで、そうなればなおいっそうのこと――
「すごくすごく、好きなんだ――が」
「………はぃ」
――少しばかり大袈裟に言うなら、カイトは断頭台に乗せられたような気分で、がくぽの続くだろう反証を待った。それが正しかろうが正しくなかろうが、とにかくまずは素直に聞こうという。
なにしろ、なんだかんだと忍耐強く、あるいはカイト以上に鷹揚ながくぽが、こうまで動揺したのだ。ことの正否以上に、そのことがカイトにとっては大事だった。
だからとひたすら大人しく裁断を待つカイトに、がくぽは閊える咽喉を無理に押し開いているのだとわかる声で、狂おしく吐きだした。
「一寸、――好き過ぎる」
「はぃ、……………は?」
なにをどう叱責されても容れますという、従順にも過ぎる答えを返そうとしていたカイトだが、言いきることはできなかった。
きょとんぱちくりとしながら、言葉を失ってがくぽを見る。肩口に埋まっている。懸命に首を引いても、顔は見えない。なんとかつむじが見えた程度だ。かわいいと思う。逃避だ。
つまり、がくぽからの回答だ。なにをそうまで動揺したのかと、なにがあったのかと案じて訊いたカイトへの――
『カイトが好きだ――が、好き過ぎる』?
「え?思うツボ?ぐみ゛ゅぅ゛っ」
――自分の咽喉から出たとは自分でも信じられないような呻き声を上げつつ、完全に内臓器のなにかが潰れたと確信したカイトだ。それほど、抱く腕にがくぽが瞬間的にこめた力は、さすがに愛が昂じたにしてもどうかというレベルだった。
もちろん、潰されたものはない。ないが、一瞬、そうと確信せずにはおれないほどの力だったのだ。
いくらなんでもどうだという話だが、同時に、なるほど『過ぎて』いるらしい話だと、よくよく納得もいく。
なにごとも過ぎるとよくないという、好例だ。
「がくぽ」
「すまん」
迷いつつ、とりあえず呼んだカイトの肩口に、がくぽはぐりぐりと額を擦りつけた。
「一寸――落ち着く。………まで、待ってくれ」
「あー………」
そういうことかとようやく合点がいって、カイトは軽く、天を仰いだ。
結局、なにがどう、きっかけとなってこうなのかは、さっぱりきっぱりわからない。
わからないが、がくぽは家事やら用事やらをこなすカイトのなにかがツボに嵌まり、急激に情愛が募った。動揺し過ぎて配慮も欠くほどの、激しく強い情愛だ。まあ、ツボに嵌まるというのはそういうことだ。
で、こう、と。
なにあれ、ひどくおそろしい思いをしただとか、とんでもなくいやな目に遭ったという理由ではないことはわかった。
ならばカイトは、それでいい。
ただ、いくら『愛情』とはいえ、早く落ち着けるといいとは思う。愛情もこうまで強くなるときっと、がくぽもつらいし苦しいだろうから、それはかわいそうだと。
「ん…」
考えていて、カイトはひとつ、思い出した。
言葉だ。マスターに教えてもらった。激しく、著しく動揺し、波立って大荒れな状況、なんだかとってもタイヘンだということを表すのにぴったりで、それでいて、洒落っ気と茶目っ気がある言葉。
とってもタイヘンなんだと訴えながら、場を暗くせず、ちょっと気持ちを浮き上がらせる――
カイトはほとんど唯一、自由になる首をことりと傾け、がくぽの頭に頬をすり寄せた。ため息にも似た声で、慰めにつぶやく。
「がくぽ……ヤマアラシロータリーなんだね、今」
――言ってから難だが、カイトは微妙に間違えた気がした。
まず、ヤマアラシのロータリーとはいったいなにで、どういう状況なのかという。ヤマアラシとは、ロータリーになったりするものだったろうか。
確かにマスターはいい加減の擬人化で、これはいかにも言いそうな感じの言葉ではある。が、それにしてももう少し、意味の通る言葉だったような気もするのだ。
とはいえまあ、とにかくなんだかなにかしら、とても大変そうではある。なんといっても、ヤマアラシだ。『ヤマアラシ』なのだ。
もう『ヤマアラシである』という、それだけで、よくわからないがなんだかすごくタイヘンだという気が、カイトにはしている。
だからまあいいかと――
「ぐっ、びゅみ゛ゅうっ?!」
呑気に過ぎる結論を、カイトが意識しきれたものかどうかは、さだかでない。
もはや憎いのではと、疑心暗鬼がもたげるほどの強さで、がくぽがカイトを締め上げたからだ。
瞬間的なものだ。言われて、咄嗟にという。
さすがにどうかという声を上げたカイトを締め上げる腕からは、すぐに力が抜けた。若干の程度だが、一応は緩くなる。
むしろ緩めるためにこそ全力を尽くしているがくぽは、かたかたと震えながら、カイトの肩口にめりこむのではというほどきつく、額を擦りつけた。
そのまま、もう一度、吐きだす――なにより大事であればこそ、過ぎ越して毒と化す想いに潰れ閊える咽喉を押し、悲鳴のように、嘆願を。
「いいか、待て――俺が、落ち着くまで、待て、カイト………!」