Funny Fanny Honey
意を決したように顔を上げ、カイトは強張る口を開いた。
「あのね、がくぽ。がくぽは俺の、――くち。と、ぉ、………おしり。と。どっちが好き。なのっ」
――問われたがくぽは、思わずといったふうに窓の外を窺った。
そうするまでもなく、今は昼間だ。室内の明るさは照明によるものではなく燦燦たる陽光のそれで、間違いようもない。
それでもがくぽは咄嗟に、窓の外を確かめずにはおれなかった。
次に、カイトへ顔を戻しつつがくぽが思ったのは、これはまた、ずいぶんとシュールな絵面ではないのかということだった。絵面というか、展開というか、とにもかくにものとにかくで、シュールも極まると。
だから、昼間だ。昼間も昼間の真昼間で、ところは和室、がくぽの部屋だった。
今日も今日とて必要最低限のものしか出ておらず、すっきり片づいた畳敷きの部屋で、がくぽとカイト、はばかれと再三再四言われてもはばかりきれないおばかっぷるもとい、おばかっぷるな二人が正座して向き合い、――
これだ。
意想外も極まれる。
――否、正確を期すなら、意想外ではあるが、『極まる』というほどではない。がくぽはある程度、カイトの持ってきた話題の方向性を、まあ、『こういう』方面であろうなと、あたりをつけていた。
はばかれるかどうかというところは置きにして、晩生な傾向にあるカイトだ。顔を覗かせ、『今、いい?』と訊いたその雰囲気で、ああこれは『そのて』の話題を持ってきたのだなと、がくぽにはすぐ、見当がついた。
が、見当がついたのはいわば方向性だけであり、それで、いざと振られた話題だ。
方向性は合っていた。
だからなんだという話だ。意想外もいいところだ。まったく慰めにならない。
「あー………うむ、カイト」
とはいえ、そうそう黙ったままでいるわけにもいかない。肌という肌をすべて朱に染めた恋人は相応に煽情的だが、ぷるぷるぷると震えながら回答を待つ、その顔だ。目つきというか、表情というか、だからまず、問われた内容だ――
かつてこれほど、薄氷の上を進むような問いもあっただろうか、否、そういえば結構日常的かつ頻繁にある気がしないこともないと、反語に失敗しつつ、がくぽは慎重にくちびるを開いた。
「幅が広くて答えられん。少しぅ、詰めてもいいか」
「え」
こっちとあっちのどっちが好きかと、カイトが提示したのは二択だ。そう、選択肢はすでに、二つにまで絞られているのだ。
だというのに『幅が広い』と返され、カイトこそ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。よほど驚いたのだろう、部屋に来た当初から募らせていた、妙な緊張感が束の間ぶれる。
動揺、あるいは恐慌と紙一重の困惑を晒したカイトに隙を与えず、がくぽは即座に、しかし慎重に言葉を続けた。
「言いにくいが、つまり、状況による。状況――前提条件と言ったほうが、正しいか?お主の口と………まあ、どちらが好きかと、言うがな。たとえばだが、それは、お主……『カイト』全体のパーツを見たときに、どちらのパーツがより好きかという、話なのか?それとも、――」
がくぽはここで言葉を切り、正面に相対して座るカイトへ、わずかに身を乗り出した。
いるのはがくぽの部屋、扉も閉めきった個室で、室内にはがくぽとカイト、恋人同士たる二人しかいない。半ば公共スペースの、いつ家族が顔を見せるかわからないリビングなどでもないから、そんな必要はない。
わかっていたが、がくぽはカイトの耳へくちびるを寄せた。至近距離の聴覚を慮ったというだけでなく声を潜め、そっと、吹きこむ。
「『して』いるときに、俺のものを捻じこむなら、どちらが好ましいかと」
「っっ!!」
――そこまで思いやっても、カイトは倒れるのではという勢いで仰け反り、がくぽから逃げた。
困惑とともに薄らいでいた肌の赤みがあえなく戻り、否、より以上に限界まで増して、姿勢も崩れ、畳にへちゃんと尻がつく。
とはいえこの反応であれば、がくぽも想定内だ。ことに戸惑うでもなく身を引き、自らはきちんと背筋を正した。
それであえて端然と、淡々と、言葉を紡ぐ。
「もちろん、お主のすべてが好ましいことに変わりはないが、それ次第で、確かに好みの順列はまったく入れ替わる。ことに今回の場合、結果は簡単に覆る。ゆえにまず、その前提となるところを詰めねば答え難いとなるわけだが、――カイト」
そこまで言って、がくぽはわずかに表情を緩めた。懸命の努力でくちびるはほの笑みにしたつもりだが、どうしようもなく眉は下がった。
未だ逃げ腰で固まっているカイトへ、困惑と、あとはおそれとを隠しきれず浮かべ、がくぽは首を傾げてみせた。
「すまん。心当たりがない。いったい、お主がそう訊かねばならぬような――そこまで追いつめる、なにを俺はした?」
「……っ!」
カイトはまたも驚愕に目を丸くしたが、さすがにこれまでとは含む意味合いが違った。
が、『意味合いが違う』とまでは読み取ったものの、ではどういう意味かというところまで踏みこんで推察することを、がくぽはあえて避けた。
ただ気を抜かず、むしろ正座して膝に置いていた手を拳に、きつく握る。
「なにか俺が、お主の……体目当てであると、そういうような言動をしたのではないか?それで、こういう」
「っじゃないっ!」
遮ったカイトの声は驚きを引きずり、咄嗟に耳が痛いと思うほどの大音声だった。のみならず、カイトはぷるぷるぷると、首を激しく横に振る。カイトこそ驚き、怯えたとでもいうように。
「そうじゃなくて………じゃないんだけど、でも、そうなんだけど、じゃなくて」
否定と肯定がぐるぐるぐると、いずれバターになりそうな勢いでくり返される。
適当なところで止めてやろうと計りつつ、がくぽは用心深くカイトを観察していた。
これがたとえば単なるきょうだい間、あるいは友人との間で出た話題であるなら、がくぽもここまで慎重に振る舞おうとはしなかった。話題を突き詰めようとも思わず、適当に濁して終わらせただろう。
しかし相手はカイトだ。恋人だ。
カイトは晩生で、貞淑な性質でもある。こういった話題を気軽にできる性格ではない。それが自ら、振ってきた。
相応に、溜めこんだものがあるはずだ。限界まで募るものがあればこそ、意を決して訪れた――
つまり今、結構めに危機的な状況なのである。
少なくとも、がくぽはそう判断していた。断頭台へ上がる階段に、足を掛けたような状況であると。否、カイトの返答如何によっては、すでに目の前に断頭台が――
今の様子を見れば、さすがに断頭台まではもう少し距離がありそうだが、油断はできない。なにしろカイトだ。意想外の塊だ。油断すれば、すでに首が断頭台にかけられている。
そういう、冷や汗に塗れるような心地のがくぽの前へ、一度は逃げたカイトがじりじりと戻ってくる。否定と肯定とをぐるぐると、ぐるぐるじりじり、じりじりぐるぐると。
「そういう………ぅううっ!だって、そこまで………でも、ぅあぅううっ!」
「カイト」
カイトがほとんど正面に戻ってきたところで、そろそろほどよくバターになったろうと、がくぽはやわらかさをこころがけた声を挟んだ。
声をかけるとともにぴんと張っていた背を撓め、カイトの顔を覗きこむ。脅かさないよう距離にも気を遣いつつ、あえかに下から目線となった。
「ぅ…っ」
「ぅん?」
微妙に泣きが入りそうなカイトを見上げ、がくぽはもう一度、やわらかく促した。具体的にどうだこうだと訊くことはない。ただなにかしら、促すだけの。
見返すカイトはあくあくと、しばらくくちびるを空転させ、やがてきゅっときつく、締めた。束の間締めて、ひと際大きく湖面の瞳が揺らぐ。戦慄きながらくちびるが開き、ひびの入った声がこぼれた。
「くち……っ」
こぼして、閊えて、カイトは膝の上に置いた手をきゅうっと、拳に握った。ぷるぷるぷると震えながら、やわらかに待つ花色を恨みがましく見る。
「だって、がくぽ、くち………っ。させて、くれないん、だもんっ。じぶんは、する。のにっ」
「あー……………」
ようやく見えた本筋に、がくぽはつい、カイトから目を逸らしてしまった。いったいどのような憤懣であろうとも必ず正面から付き合いきってやると、覚悟を決めて恋人と向き合ったはずだったというのに。
あえなく喫した敗北と、敗因である、見えた話の本筋と――
もとよりそう、想定の広げようもないカイトの選択肢ではあったが、それにしてもだ。範囲を詰めたいとして、先にがくぽが出した例示のふたつめが、図らずも大当たりだった。
そう、『しているときなら、どちらが好きなのか』だ。
――否、『大当たり』は言い過ぎか。小当たり、いっても中当たりというところかもしれない。
なににしてもとにかく、当初予測よりはずっとましであることは間違いない。がくぽが足を掛けさせられたのは断頭台へ至る階段ではなく、奈落の縁――
あれ、『まし』って、どういう意味だったっけと。
目を逸らし、窓の外の燦燦たる陽光を確かめるがくぽは行動だけでなく、思考まで完全に逃げに入っていた。あえなく喫した敗北、甲斐性の欠片もなく、不誠実極まる自らの行いを反省することすらない。
つまり、お天道様が鋭意お仕事中である今の、この話題だ。これだ。あれで、だから、それだ。
より正確に言って、『して』いるとき全体の話ではない。そのうちの、男性器に口で奉仕、もしくは愛撫するという、いわゆる口淫、フェラチオと呼ばれるものについてである。
基本、がくぽはカイトにさせない。
カイトが言ったように、がくぽはやる。カイトのものを口に入れ、思う存分もぐもぐする。思う存分もぐもぐするし、ごっくんもし放題だ。
が、カイトにはさせない。
下世話に『下の口』などと表現もする、その場所には歓んで捻じこむし、咥えてくれとおねだりすることすらあるが、対して言われる『上の口』には、咥えさせない。捻じこまない。おねだりしない。
がくぽから求めてさせることもないが、カイトがしたいと望んでも、させない。手で触れるまでは許容するのだが、口はさせない。たまさか酒酔いとなったカイトが行為の主導権を握れば別だが、そうでもなければ、近くに寄せることすらしない。
そう、ポイントはこれだ。
がくぽ『が』選択して、『させない』。
ふたりの相談と合意に基づく選択ではなく、カイトの好悪判断や要望もひたすら無視して、ただがくぽのみの判断によって、選択がなされているという。
「がくぽ、おれの、いっつも………してるのにっ。がくぽは、するのに、それは、おれ、ヘタだろうけどっ」
「カイト」
恨みがましさを連ねるカイトに、がくぽはすっと顔を戻した。呆気なく喫した敗北とともに一度は緩んだ表情が、引き締まっている。
それは、覚悟を決めた男の顔だった。
きっぱりと肚を決めた男だけが浮かべる表情だった。
決意の顕れは、表情のみに止まらない。呼ぶ声にも一本、芯が通って力強く、カイトははっと口を噤んだ。どぎまぎと揺らぎ見つめる湖面の瞳を、花色の瞳はしっかりと受け止めた。
がくぽは姿勢も正し、膝に揃えた手を拳に、きゅっと握った。紅を塗らずとも艶やかなくちびるが、凛と開く。
「尻のほうが、好きだ」
「ぇ?」
――で、きっぱり力強く返された答えだ。
カイトは思わず唖然と、目と口を揃えて丸くした。つまりそれは、そうまでオトコマエに言いきることなのかとか、そういうことだが。
そのカイトを臆せず見返し――否、もはや完全になにか、やってはいけない方向に思いきったとありありわかる据えきった表情で、がくぽはごりごりとくり返した。
「尻の、ほうが、好きだ。否、いや――否。いい。俺はカイトの尻が、好きなのだ。好きなのは、カイトの尻だ。尻好きなのだ、俺は。見下げ果てた、末期的な尻好きが俺だ、カイト」
「え、ぇえっと、あの、がく」
「ノー尻、ノーライフ!」
「ぇえ、えー………」
やってはいけない方向に思いきった挙句、捨て身で捨て鉢で、完全に自棄だ。カイトはますます目と口とをまんまるく、唖然呆然とがくぽを眺めた。
過ぎて鷹揚な性質ということもある。咄嗟に反応できない。機敏な性質であれば反応できるのかといえば、この場合、きっと無理だが。
若干のけ反り、身を引き気味にもなったカイトへ、がくぽはいらない蛮勇を発揮し、むしろ身を乗り出した。だから、自棄なのだ――自棄の状態で発揮した勇気は大概、蛮勇と呼ばれる。それが自棄というものだし、であればこそ自棄と言われるわけで、でなければ自棄とは評さない。
それで、蛮勇の徒だ。もとい、がくぽだ。
「いいか、口、ではない――否、口が嫌いということでは、ない。が、……好き。ではない。口、ではない。カイトの口は、そうではない。ゆえに、ならば、であれば、尻だ。好きなのは尻だ。俺は。口ではない以上……」
「がくぽ」
がくぽが言葉を重ねれば重ねるほど、弁を振るえば振るうほど、残念さは極まり、困惑と混迷も深まる。
熱弁を振るうがくぽを、ハニワ気取りに目と口をまんまるくして眺めていたカイトだが、やがて姿勢諸共、表情も正した。がくぽの瞳、なにかを強固に思い詰めて凝った花色の、奥のおくを覗きこむように、あえかに首を傾げる。
覗きこんで、さらに奥、奥へ、奥へ――
いつしか身を乗り出すようにしていたカイトの両の手が上がり、まだなにか、ろくでもなく言い立てようとしていたがくぽの頬を挟みこむ。
「かい、っんっ」
はっとしたがくぽが身を引くより、早く。
カイトは反射のような軽さでがくぽのくちびるにくちびるを触れ合わせ、――笑った。
離れきらず、けれど表情は窺える程度の距離を空けて揺らぐ花色を覗きこみ、頑是ない子を相手にするときの顔で、やわらかに笑む。
「あのね、がくぽ」
笑み同様にやわらかな声で、カイトは殊更に首を傾げてみせた。下から目線となるようにして、けれど甘えるというよりは甘やかす風情で、消しきれない困惑を吐きだす。
「なんかそれ、――おしりが好き?っていうか、………『くちのほうが好き』って、聞こえるんだけど。ぇっと、がくぽ、俺のくちのほうが好きで、好きすぎて、………ぅん。だから、『させたくない』?好きすぎるから、むしろ逆に、させられない、させるもんかって。えっと、うん。『カイトの口は、俺が守る』?」
「っ!」
切れ長の瞳が大きく揺らいで見開かれ、凝然と固まる。
がくぽの反応には構わず、カイトはしみじみと頷いた。
「がくぽ、俺のくち――ほんと、すっごくすっごく好きなんだなぁ…」
「か……っ」
なにかしら言い訳を、弁明か釈明か、さもなくば弁明と釈明とをと開いたがくぽの口はしかし、無為と空転するばかりで、なにもこぼせなかった。
動揺極まるそれは、『おっしゃるとおりにございます』と肯定したも同様だ。ひとの機微を察することが不得手なカイトだが、どうやら今回はがくぽの葛藤の、まっすぐ真ん中を射止められたものらしい。
がくぽからすれば、こんなときばかりというものだが、しかし状況が状況だ。まっすぐ真ん中を察してもらえなければ、それはそれで別の問題がある。そちらのほうが面倒なはずだがしかし、かかしかし――
それは反ってカイトからすれば、いつもいつもなんでも器用にこなすくせに、こういうときばかり不器用な、カワイイコイビトという。
「んっへへっ!」
どこか得意然として笑み崩れたカイトは、会話のために保っていた距離を堪えようもなく詰めた。添えていたままの手でがくぽの顔も軽く寄せ、未だ空転するくちびるにちゅっと、音を立てて口づける。
口づけて、離れ、――
「がくぽ、だぁいすきっ」
触れては離れ、離れては触れて、くり返しくり返す口づけで言葉とともに想いを押しこみ、空転するがくぽに呑みこませた。