騎士道の領域
財布とエコバッグ、それにメイコの書いた買い物メモ。家の鍵も忘れずに。
必要最低限の荷物を持つと、カイトはリビングへ顔を出した。
「がくぽー。お買いもの行こう」
「ああ」
ソファに座って雑誌を切り抜いていたがくぽが、時計を見上げる。納得したように頷くと、手早く切り抜きをまとめ、ローテーブルの上を片づけた。
「そんな時間だったとは。気づかぬで、悪かった」
「いいよぉ、そんなの。お仕事中だったんだもん」
笑うカイトの言葉に、がくぽは微妙な表情を返す。
雑誌の切り抜きは、お暇なときにお願いします、とマスターに頼まれた用事で、仕事というほどの仕事ではない。
だが、『マスター』から頼まれた時点で、確かに立派な仕事として成立してもいる。
きまじめながくぽの葛藤がわかって、カイトはますます笑みを深くする。
今までのきょうだいたちと、まったく違う。それは、製作したラボの違いから出ているのかもしれないが、とにかくがくぽはまじめで几帳面だ。
そんなに四角四面にしていて疲れないのかと案じてしまうほど。
「今日は街中のスーパーのほう行くよ」
「ああ、88円セールの日か」
「あたり!」
来てまだ日も浅いのに、もう近所のスーパーの特売日を覚えたがくぽに、カイトは感心する。
レンなどは未だに曜日と季節とセールの関係が理解できていないし、ちらしをチェックすることもない。
カイトが覚えたのは、必要に迫られてのことだった。来た当時、生活能力に欠けるマスターと、生活に慣れるのに時間がかかったメイコ、そして生まれたばかりのミクを抱えて、一家の主夫として立てるのはカイトだけだったのだ。
別に嫌いでもないから恨みに思いもしないが、そこそこ大変だったのは確かだ。
なにしろ、カイトだとて細かいことを考えるのは苦手なのだから。
靴を履いて、家の外に出る。
いい天気だ。
お散歩日和と言えるだろう。
「いい天気!」
「そうだな」
家の鍵を掛けたがくぽが、そのまま手を伸ばし、カイトが肩から下げたエコバッグを取った。自分の肩に掛けると、さっさと歩き出す。
「あ、待ってよ!」
「早ういたせ」
声は冷たいが、がくぽは歩調を緩めてくれる。
やさしいんだ。
くふくふ笑うと、カイトは跳ねるようにがくぽの隣に並んだ。
「…」
なんの気なしに、いつもと同じように歩いていたカイトは、軽く首を傾げた。
がくぽが一瞬立ち止まり、それからまたなにごともなかったかのように歩き出す。
だが、違和感だ。
ものすごく、違和感だ。
「今日の献立はなんだ」
「え、あ、えっとね……」
指摘しようかどうしようか、カイトが逡巡した間に、がくぽが違う話題を振ってくる。
「最近、ハンバーグしてないから、ハンバーグしたいみたい」
「挽き肉か?」
「うん、そうなんだけど。今日、めーちゃんが当番でしょ?だから、豆腐バーグだよ。木綿豆腐と挽き肉」
「とうふバーグ…」
不思議そうながくぽに、カイトはメイコ特製豆腐バーグの説明を始めた。
自分が感じた違和感については、後回しになってしまう。
なにしろ、がくぽはまだ起動したばかりで、世の中に知らないことが多い。知らないことが多いということの不安はよくわかるから、彼が疑問を感じているなら全力で解消してやりたいのだ。
それが家族間の常識なら、なおさらだ。
同じ屋根の下で暮らしている相手にわからないことが多いのは、精神不安定を招きやすい。
メイコ特製豆腐バーグと、ついでにメイコの得意料理を順々と説明している間に、スーパーについた。
セールの日だから、そこそこに人が多い。
カイトは跳ねるようにスーパーに入ると、買い物かごを取った。
「がくぽ、買い物メモ…」
「ああ、これか」
エコバッグの中に放りこんだ買い物メモを取り出し、がくぽはさらりと眺めた。見上げるカイトにメモを渡すと、そのままごく自然に買い物かごと交換する。
「まずはネギと茄子だな」
「…うん」
メモを持って、カイトはわずかに首を傾げる。
「がくぽ、カート要らない?」
とりあえず、提案してみる。
子供というものは、買い物かごと、特にカートが好きなものだ。リンもレンも、嬉々としてカートを転がしたがる。
しかし、がくぽはあっさり首を横に振った。
「大したものは買わぬだろう。混んでもいる。邪魔になるだけだ」
「…うん、まあ、そうなんだけど…」
起動したてとはいえ、精神年齢が子供ではないがくぽだ。カートに目の色は変えないらしい。
カイトは首を捻りひねり、さっさと売り場へ向かうがくぽの後を追う。
さっきからずっと、違和感の連続だ。
これでいいのか俺。
自分に小さく訊いてみる。
しかし、そもそもは肝心のがくぽが。
「うちはどうにも、ネギと茄子の消費が異常だな」
ぽつりとつぶやいたがくぽに、カイトは慌てて思考を切り替えた。
「いいんだよ!体に悪いものじゃないもん!」
「…まあ、貴殿やメイコ殿の嗜好品に比べるとな…」
そのまま、がくぽはお説教モードに移行してしまった。あれやこれやと買い物しながら、うだうだとアイスの食べ方について説かれる。
言われていることは全部もっともだと思うが、だめなのだから仕方がない。
アイスを見ると、アイスを一口食べると、思考がとろんと蕩けてしまって、なにもかもすっ飛んでしまうのだから。
うだうだと説教するわりに、がくぽはカイトがアイスをかごに放り込むのを止めなかった。
むしろ、それだけで足りるのか、とさえ訊かれる。
「俺、自分ではあんまり買わないんだよ。マスターとか、みんながお土産に買ってきてくれるから。それが冷凍庫に入んなかったら大変だもん」
得意そうに胸を張って答えたカイトに、がくぽはそれもそうか、と納得して頷いた。
「では、これで終いだな」
「うん」
そんなに買わない、と言っても、なにしろ大家族だ。一食分の材料だけでもかなりのものになる。
商品が山盛りになったかごを、がくぽはそれでも重たげでもなくレジへと運んだ。
「氷菓があるゆえ、帰りは少々歩調を上げるぞ」
「えー。でもさ、荷物重いしさー」
「大したことはないだろう、これくらい」
話しながら、ふたりで協力してエコバッグに荷物を詰める。アイスだけは別のビニル袋に入れ、中にドライアイスを貰った。
「そんなあっつくもないし、これで平気じゃないかなあ」
「貴殿は好きなわりに、無頓着だぞ」
腐しながら、がくぽは大きく膨らんだエコバッグを肩に掛けた。そして、さっさと歩き出す。
「待ってよ」
アイスの入った袋だけを持ったカイトは、慌てて後を追った。
がくぽに並んで、ちょこちょこと早足で歩く。がくぽが一瞬、立ち止まり。
「…っがくぽっ」
耐えきれず、カイトはとうとう、声を上げた。
一瞬立ち止まって、また歩き出したがくぽが、珍しくも大きい声を上げたカイトをきょとんとして見下ろす。
「どうした」
きまじめな様子で、なにか買い忘れか、と訊かれて、カイトは顔を真っ赤にした。
「あのね……あのね!」
立ち止まり、地団駄を踏む。なんと言えばいいかわからないまま言葉を探し、結局うまく言い表せる言葉が見つからず。
「俺、女の子じゃないんだけど!」
もどかしく叫んだカイトを、それこそがくぽはおかしなものを見る目で眺めた。
「そんなことはよくわかっておる。貴殿こそ、俺を阿呆かなにかとでも思っておるのか?」
「そうじゃないけど……そうじゃなくて、だって、だって!」
カイトは足を踏み鳴らす。
カイトは、いつものように、がくぽの隣に並んだのだ。
いつものように。
ほかのきょうだいたちと歩くときと同じく。
車道側に。
だが、がくぽは必ず並び直してしまう。自分が車道側になるように。
内側に入れられて歩くことに慣れていないカイトにとって、違和感はずいぶんなものだ。
だいたいにして、そういうことは女性や子供に対してする態度であって、自分のような成人男性に向かってする態度ではないと思う。
なにより、カイトはがくぽより先輩なのだし。
それだけではない。
がくぽはさりげなく、しかし確実にカイトから荷物を取る。重いものを率先して持つのは当たりまえで、重くなくても取り上げてしまう。
どこまでもフェミニストの鑑のような態度だが、相手はカイトだ。
何度も言うが、成人男子だ。
「…ああ……」
つたない言葉でそれらを伝えたカイトに、がくぽは今自分の行動に気がついた、という顔で遠くを見つめた。
その態度で、がくぽがなんら意識せずに自分を庇護対象にしていたことがわかり、カイトは大きな瞳をさらに大きく見張った。
「そりゃ、俺って頼りないかもしれないけど……」
思わずこぼす。
がくぽはことあるごとに、もそっとしっかりせぬか、と言う。
貴殿は不安定で見るに見かねる、と。
だが、無意識の行動になって表れるほど、がくぽが自分を頼りなくて不安定だとみているとは思わなかった。
いくらなんでも、起動したてのがくぽに庇護してもらわなければならないほどには疎くないし、鈍くもない。
…機敏で頼りがいのあるタフガイだなんて主張もしないが。
「いや、貴殿が頼りないとかそういうことではなく……」
どこか慌てたようにがくぽは口走り、それから黙ってそっぽを向いた。
「……厭だったか」
「…」
ぼそりと訊かれて、今度はカイトが慌てる。
いやだった、というほどにいやだったわけではない。気まずかったことは確かだが。
一応、自分がそれなりの年の男なのだという自覚もあるし、これまでここまであからさまに庇護対象として扱われた覚えがないということもある。
とはいえ、気まずいのも、落ち着かないのもほんとうだが、それで怒ったとか気分を害したとかいうのではないのだ。
「違うよ、そうじゃなくてね…」
なんとか説明しようとして、カイトはくちびるを空転させた。うまく説明できる言葉が思いつかない。
なんでこんな。
空回りする思考に、カイトは早々に白旗を掲げた。
「照れただけ!」
そう、叫ぶ。
つまりはこの一言に集約できるから、なにも嘘ではない。
「そんなふうにされたことなかったから、なんか、照れたの!」
「…」
信じていなそうな胡乱げな瞳で見下ろすがくぽに、カイトは顔を真っ赤にした。
「まるで女の子みたいな扱いだからさ。がくぽ、俺のことなんか誤解してないかなあって。確かにがくぽより背も低いしさ……」
「背が低いがなんだ。それだけで貴殿を女子と見間違うほど調律の狂った思考はしておらん。どこからどう見ても、貴殿は男だ。紛うことなくな」
「…つまり、がくぽって天然なんだね」
「っ」
結論したカイトに、がくぽは血でも吐きそうな顔になった。
構わず、カイトは歩き出す。わずかに遅れて後を追うがくぽは、なにか壮絶に文句を言いたそうだ。
しかしカイトはひどく納得して、ひとりで頷いていた。
「天然で、男前なんだね。生まれつきのナイトなんだ。うわあ」
「カイト殿」
呼ぶ声が、お説教モードだ。
カイトは飛び跳ねながら、そんながくぽを振り仰いだ。
にっこり笑う。
「だったら、いいよ」
「なにがだ」
即座に返したがくぽの隣に並び、カイトは瞳を煌めかせる。
「がくぽだけは、俺のこと、お姫様扱いしても許す」
「…っ」
「仕方ないよね。天然には勝てないもん」
がくぽが唸っている。なにごとかを高速でつぶやいているが、高速過ぎてカイトには聞き取れない。
おそらくなにがしかのものすごい葛藤と闘っていたのだろうがくぽは、それでもカイトを「お姫様扱い」することを止めもせず、相変わらず重い荷物を持ったまま、車道側を歩く。
ややして、放り投げるようにつぶやいた言葉は、降参と同義だろう。
「だれがお姫様か。せめておぼっちゃまとでも言え」
「えー」
おぼっちゃまってナイトに守られるものなの?
明るく訊くカイトに、がくぽは肩を竦めた。
「貴殿は気位の高い姫というより、世間知らずのぼっちゃんと言ったほうがしっくり来ようが」
「ひどいなあ」
カイトは笑い、ぴょこんとひとつ跳ねた。