NATURAL MAKER
ふわり、と香る甘い匂い。
「…」
がくぽは視線を上げて、前を通り過ぎたひとを見た。
「♪」
カイトだ。
実際、見なくてもわかっている。この家で、あんな甘い匂いをさせているのは、彼だけだ。
「カイト殿」
「ん?」
「あ、いや…」
声を上げて、それから、逡巡した。ある意味、ずいぶん唐突だし、下手をするととても失礼だ。
「がくぽ?どしたの?」
不思議そうに瞳を見張りながら、カイトが傍に来る。無邪気な仕種でソファの隣に座られて、また、ふわりと甘さが香った。
「…いや、貴殿、なにか香りをつけておるのかと…」
つぶやくように訊く。
はっきり言うと、おやつのアイスを服にこぼしたりはしなかったか、ということなのだが、そうしょっちゅうアイスをこぼしていると考えるとあまりにあまりだ。
だが、カイトについて油断は禁物で、有り得ないと思う現象を平気で巻き起こすことも間々ある現実。
瞳を泳がせるがくぽに、カイトはわずかに瞳を見張ってから、笑った。
「うん。香水付けてる」
「…バニラの?」
念のために訊ねる。
無邪気な長男は、あっけらかんと頷いた。
「そう。去年の誕生日に、ミクとリンちゃんがバニラフレーバの香水くれてね。たまに付けてる」
「……ああ…」
ふつうに考えて男性に贈る香りではないが、相手はカイトで、贈り主があの姉妹だ。疑問もなくふつうに受け渡しが行われただろうと想像できて、がくぽは小さく肩を落とした。
「ただのバニラじゃないんだよ。ダッツのバニラをイメージして、特別に調香してもらったやつなんだよ」
「…」
バニラはバニラではないのか、と言いかけて、すんでのところで思いとどまる。
この間それを言って、ダッツとレディボーデンのバニラの違いについて、延々一時間も講釈を垂れられた記憶は苦々しくも生々しい。
普段は温厚で、圧倒的に説教される側のカイトだが、ことアイスのこととなると性格が変わる。
都道府県名や位置関係は曖昧でも、ご当地限定アイスを出している観光地の場所やアクセス方法については異様に詳しかったり、多少、常軌を逸しているところがある。
「…いい香りだな」
とりあえず、無難に逃げてみた。
カイトがうれしそうに笑い、それから、わずかに心配そうな顔になって、がくぽを覗きこんだ。
「…ほんとに?」
「ああ…?」
少し甘いかな、とは思う。男性の香りでもないと思うが、相手がカイトだ。それだけで、なにもかも言い訳が済む。
それに、食べることは止められないアイスの香りでも、滝のように掛けているわけではないようだ。あくまで、ほのかに、時折思い出したように香る程度だ。この程度なら、傍に居られても不快にはならない。
言いたいことがわからずに不思議そうに見返したがくぽに、カイトは安堵したように笑った。
「なら、いいんだ。……がくぽ、甘いの、苦手だから」
ぽつりとつぶやかれた言葉にわずかに瞳を見張り、がくぽは深く考えもせずに口走った。
「貴殿が甘いのは、悪くない」
「…」
カイトがきょとん、とがくぽを見つめる。言葉の意味を考えているような間があって、がくぽも自分が言ったことを振り返ってみた。
そんなに難しいことを言ったつもりは…―
「えへ」
「…っ」
カイトがふにゃん、と笑うのと同時に、がくぽは真っ赤になって口元を覆った。
がくぽの、悪くない、が、好き、と同義だということくらい、このおっとりさんにもわかっている。
「そか。よかった」
くふくふ笑うカイトが、カイトで良かったとがくぽは心から思った。
もしこれが姉妹たちなら、そんな一言では済まないはずだ。これでもかと存在しない既成事実をつくりあげられて、弄ばれているところだろう。
赤い顔でそっぽを向いたがくぽの隣で、カイトがくふくふ笑っている。
自分に好きだと(遠回しにだが)言われただけで、なにをそれほどよろこんでいるのか。
暴れ出す駆動系を持て余すがくぽに、カイトはそっと身を寄せた。
「よかった」
その、あまりに安堵したような声に。
「…貴殿らしい、香りだ。臆することなどない」
ついまた口走って、がくぽはなんだか諦めた。
どうせ、からかわれることも弄ばれることもないのだ。
少しくらい、甘いことをつぶやいてしまっても、問題ない。
甘い香りなんか嗅ぐから、つられるのだ。
きっと。