お使いを終えて店の外に出た瞬間、がくぽは思わず舌打ちした。

雨が降ってきている。

怪しい天気だったのだから傘を持って出ればよかったのだが、ちょっとそこまで、すぐ済む用事、の油断につい、傘を持ち忘れた。

そういうときに限って、これだ。

レインマン

「わあ、雨だぁ」

後から出てきたカイトが、のんびりと歓声を上げる。

少なくとも、歓声に聞こえた。困っているふうが全然ない。

雨はかなりいい降りで、走って帰ればどうにかなるレベルではない。

軒先から少し首を伸ばして雨足を見ると、カイトはほわほわした笑顔で、渋面のがくぽを見上げた。

「なんかさあ、こうやってじとじとした空気にさらされてると、部品が錆びるような気がするよね」

「…ブリキの木こりでもあるまいし……」

のん気な言葉に、がくぽは軽く眩暈を感じた。

確かにがくぽたち、ロイドの部品は有機素体だけではないから、水に濡らせば錆びる。

だがそれは、スーツを脱いで、皮膚を剥いで、その下にある防護膜も剥いで、中身を取り出しての話だ。

これくらいの雨に晒されたくらいでは、錆びのさの字も出ない。

風呂に入ることは日常だし、プールで泳ぐことだって可能だ。海に関しては多少、別の防護策が必要とはなるが、基本的に入ろうと思って入れないことはない。

だからといって、濡れて帰りたいとは思わないが。

「うん、まあ、がくぽは最新型だもんね」

「いくら貴殿でも、防水加工くらいはされておろうが」

「そうなんだけどさあ」

そうじゃないんだよね、とカイトはいたってのん気につぶやく。

「気分ていうのなんだか体の中が、軋むような気がするんだよ、昔っから」

「一度診て貰え」

「おっかしいなあ」

すげなく言ったがくぽに、カイトはめげる様子もなく首を傾げる。

「マスターはわかるって言ってたよ。歯車がうまく動かないような気がするんですよねって」

「…マスターは人間だろう……」

相変わらず、適当ばかり吹くマスターだ。

そう思って、がくぽは首を振った。

案外、本気でそう思っている可能性がある。あれでいて、捻じ曲がった方向に真っ正直な人間だ。

私はネジまき式なんですよ、とか平気で言いそうな気がする。それも、ホラでもジョークでもなく、ごく真剣に。

がくぽがわずかに頭痛を感じて眉間を押さえたとき、背後の扉がからからと軽い音を立てて開いた。

「あんちゃんたち、ほら、傘。貸してやるから、早くお帰り」

店の主人である老婆が、埃を被ったような色をしている一本の傘を差し出してきた。

どうしたらいいか咄嗟に判断がつきかねたがくぽに対し、カイトは素直に歓声を上げて手を伸ばす。

「ありがとぉ、おばちゃん。助かるよぉ」

「いいんよ。あんたら濡れたら錆びちまうんだろ。大変だねえ」

「…だから、いつの時代の話だ……」

ちょっと遠くを見つめたがくぽだ。カイトのほうは楽しそうに頷く。

「そうなんだよ、大変なんだよぉ。だからすっごく助かるんだあ。これ、今度お菓子買いに来るときに返せばいい?」

がくぽからするとものすごく適当なことを言って、カイトは受け取った傘を振る。老婆はにこにことうれしそうに笑った。

「いいんよ、あげるよ。あんたいい子だから、悪いようにしないだろ」

「ありがとぉ」

無邪気に礼を言って、カイトは老婆の首を軽く抱いた。

ハグの習慣はカイトにとってあたりまえのことだが、老婆にとっては馴染みがない。

ロイドではあっても若い見目のいい男の子に抱きつかれて、ひゃあ、と若やいだ悲鳴を上げた。

「でも、返しに来るよ。そしたらまた、借りられるもの。おばちゃんとこに置き傘あったら、いつでも気兼ねなく来られていいよ」

がくぽからは逆さに振っても出てこない台詞を、カイトはさらりと言う。

いやみのない口調に、老婆がうれしそうに声を立てて笑った。

「したら、いつでもいいよ。またおいで」

「うん、ありがとぉ。またね」

「黄色い小さいのにも、よろしく言っといとくれ」

『黄色い小さいの』が聞いたら微妙に反抗しそうな言葉にも、カイトはにっこり笑って頷く。

老婆に手を振ると、うっとりするようなきれいな笑顔でがくぽを見上げた。

「帰ろ、がくぽ」

軽いしぐさで傘を開く。振動で微細な埃が舞った。

だがカイトは気にする様子もない。

そこまで来て、がくぽは自分が老婆に礼を言っていないことに気がついた。

一足先に軒先から出たカイトを追う前に、老婆に正対して頭を下げる。

「かたじけない」

こころを込めて言うと、老婆は明るく笑った。

「生き返っちまうねえ」

若やいだ声で言って、生真面目な態度のがくぽの腰を叩く。

「あんたもまた来とくれ。それでいいよ」

「必ず」

もう一度頭を下げると、がくぽはカイトの元へ行った。

***

背が高いのはがくぽのほうだから、当然、傘を持つのはがくぽのほうが自然だ。

うれしそうに傘をくるくる回すカイトからそう説明して傘を取り上げて――ちょっと胸が痛んだ。なにしろ、ほんとうに楽しそうなのだ――、がくぽは、降りしきる雨の中をカイトと並んで歩いた。

「…がくぽ」

おとなしく傍らを歩いていたカイトが、わずかに咎めるような声を上げる。カイトがひとを咎めるのは珍しい。

黙然と見返したがくぽに、カイトは困ったように首を伸ばす。

「肩…濡れてる。傘、ちゃんと半分こしようよ」

大人用の大きさではあるが、そもそも傘というものは一人用だ。成人男子が二人並んで入ると、どうしてもお互い、外側の肩が濡れることになる。

しかし、がくぽは傘を大きくカイトのほうに傾けていた。そのせいで、カイトはわずかも濡れていないのに、がくぽの半身はしっとりと濡れそぼってしまっている。

気がつかれたか、と小さく顔をしかめて、しかしすぐに素知らぬふうをつくって、がくぽは傘をさらにカイトへと傾けた。

「錆びるような心地がするのだろう」

短く言うと、カイトはなんとも言えない顔になった。

「あんなの、喩えだってば…。さすがに俺でも、ほんとに錆びるとか思ってないし……」

もごもごとつぶやき、じっとがくぽを見上げる。わざと視線をやらないがくぽに肩を落とすと、わずかに考えるように首を傾げた。

それから、こまこまと歩いてがくぽに必要以上に寄り添う。

「歩きづらいぞ」

冷徹に指摘してやると、素直に頷いた。

「俺も思った。こける」

「こけたら元も子もなかろう」

「そうなんだけどぉ…。こう、もうちょっと距離を詰めれば…」

ぶつぶつつぶやいて、カイトは首を捻る。ややして、小さく跳ねた。

「これ!」

寄り添う腕に腕を絡められて、がくぽは慌てて声を上げた。いくらロイドとはいえ、男同士で腕を組んで歩いているなど、おかしいことこのうえない。

だがカイトは、無邪気な瞳で焦るがくぽを見つめる。

「だってこうしたら、くっついて歩くの楽だよ」

「だからといってな。男同士で腕を組んで歩いているなど…」

小言をこぼそうとしたがくぽに、カイトはどこまでも無邪気だった。

「だいじょうぶだよ」

なにが、と問う暇もなく、力強く頷く。

「男同士で相合傘してる時点で、取り返しがつかないくらいアレだから」

「とり…っ」

あえて考えないようにしていたことをきっぱりと宣言されて、がくぽは傘を取り落しそうになった。一瞬、頭から雨を被って、どうにか正気を保つ。

「ほら、ちゃんと持って」

だれのせいで、の当人がおせっかいな口調でそう言って、さらにがくぽにしがみつく。

「たぶん、めーちゃんならそう言うと思うよ。だから今さら細かいこと気にしたらだめ」

「…言いそうだな、確かに言いそうだ……」

その口調やしぐさまで思い描けて、がくぽはげっそりした。ついでに、妹たちもこれでもかと囃し立てるだろう。

マスターあたりがようやく、合理的な判断ですよ、むしろ英断です、カイトさんとか微妙な褒め言葉をくれそうな気がするくらいだ。

「だからといって…」

そうはいっても、相合傘と腕を組むということの難易度はあまりに違う気がする。

微妙に離れようとするがくぽに、カイトのほうは遠慮なくぐいぐいと体を寄せてきた。

「もう濡れてしまったのだ。今さら気にしてもしようがあるまい」

「気がついたときに修正する姿勢が大事なんだって、マスターいっつも言ってる」

それはそうだが、それとこれとは別の話のような気がする。

地味に攻防をくり返し、結局、がくぽが折れた。

最近わかってきたが、カイトが折れてくれないかぎり、がくぽはどうも勝ち目がない。

この先輩はなんでもかんでもあっさり折れるのだが、こうと決めたら決して覆さない頑固さも持ち合わせている。ふにゃふにゃのクラゲに見えて、一本きちんと芯の通った性格をしているのだ。

そういうところは嫌いではない。

困るが。

今、こうして困っている真っ最中だが。

実は、それほどいやな気持ちではない。

我を通す彼を見るのは、けっこう好きだ。それでどれだけ困ったとしても、こころの片隅で喜んでいる自分がいる。

甘えているようでいて、実際は常にだれかの我が儘を聞いているだけのカイトが、こうして我を通そうとするとどこか安心する。

それが自分に対してだったりすると、困った困ったと言いながら、なんでも聞いてやりたくなる。

どうにも理解不能なので考えないようにしているが、がくぽはこの先輩ボーカロイドを甘やかしたくて仕方がないらしい。

ほかの先輩たちに対してはそんなふうに思わないのに、カイトを見ていると、無性に構いたくなる。

本音を言えば甘やかしたいのだが、成人男子である彼に意味もなくそんなことをするのも躊躇われて、つい、小言をこぼしてしまう。

「あのね、がくぽ」

おとなしくなったがくぽにぎゅ、としがみついて、カイトが微笑む。

「うちに帰ったら、ドライヤー当てさせてね」

がくぽの長い髪は、水滴を吸ってしっとり濡れそぼっている。

あまり髪をいじられるのは好きではないが、カイトがしたいと言うなら無碍に断るのも気が引けた。

なにより、そうやって構ってもらうのは、ごく単純にうれしい。

決して、素直に認めはしないが。

「好きにするがよい」

放り投げるように言ったがくぽをうれしそうに見上げて、カイトは肩に頭をもたせかけた。

「雨、たのしいねえ」

脈絡のない言葉だったが、がくぽが腐すことはなかった。わずかに間を開けて、小さく頷く。

「そうだな」

カイトの腕にわずかに力がこもって、ああ、うれしいのだなと言葉にされずにわかった。

なにもかも、もう、それでいいような気がした。