「…おかしい」

カイトはつぶやく。

バハムートの罪

おかしいのは――おかしいのは、自分だ。

少なくとも、ほかのだれかがおかしいという話ではなく、自分がおかしいという話だ。

「あ、なんかどうでもいい気がしてきた!」

ほかのだれかがおかしいなら困るが、ほかならぬ自分がおかしいなら、――いやいやいや。

「まずいよね」

まずい。

カイトがおかしいと、まずい。

マスターもメイコも心配するし、ミクやリン、レンは最悪、泣く。

そして、そして――

「……ぅうう」

カイトは頭を抱えた。

おかしいのはまずい。

とても途轍もなく、まずい。

まずいのだけど。

――おかしくなったら、心配してくれるかな、と。

おかしくなったら、心配して、ぎゅうっと抱きしめてくれかも、と。

また、やさしい声で、「守ってやる」と――

「いやいやいやいや!!」

カイトは叫んで頭を振った。

いい加減、どうかしている。

確かに甘えるのは好きだけれど、この年にもなって、抱きしめてほしくて堪らなくて、しかもその抱きしめてほしいと思う相手が、『おとうと』だとか。

そう、『おとうと』だ。

自分より背が高くても、たくましくても、精神的に成熟していても、しっかりしていても――

「あ、なんか、俺がおにぃちゃんだって主張する根拠が希薄だって気がついた」

先に起動していたこと以外に、おにぃちゃんとして胸を張れることがないのに気がついた。

だって、ほんとにしっかり者なのだ、あの『おとうと』。

起動したばかりだなんて、とても思えない。

最新型は改良されていくから最新型なのだけれど、それにしても言動も安定しているし、頼りない要素がなにもない。

カイトが覚えている限り、起動したての自分はもっと不安定で、危なっかしくて、いろいろやらかしたものだけれど。

思い出す限り、完璧だ。

完璧で、文句のつけようがない。

しかも、なんだかんだ言うけれど、彼は甘やかしたがりの甘やかし上手だ。

気がつくと、甘えさせられている。

そのうえ、普段はなにかと厳しい態度を取るくせに、甘えれば甘えただけ、さらに甘くなっていくという、砂糖アリジゴク。

ふつう、厳しいひとというものは、甘えたらそれを跳ね返すものだ。

なのに、彼は甘えると、どこまでも甘く溶け崩れて。

そんなことをされたら、抜け出せない。

そしてまずいことに、最近、甘やかされることが癖になりつつある。

いかになんでも、おにぃちゃんとしてどうだ。

「まずい」

「なにがだ」

「ひぎゃ?!」

ムンクの『叫び』をいかに再現するかに凝っていたカイトは、本気で悲鳴を上げた。

いつの間にか後ろに立っていたがくぽが、呆れたように見下ろしている。

「リビングにいるのはいい。だが、ひとりきりで百面相しているな。怪し過ぎて声を掛けるのが躊躇われるわ」

「躊躇われるって」

自然体で『叫び』状態になりながら、カイトは訊き返す。

「いつから」

「今だ。――なんだ。なにか人目を憚る遊びでもしていたのか。そういうことは、自室があるのだから、自室でやらぬか」

「ひとめをはばかるあそび」

くり返して、カイトは考えこんだ。

確かに、百面相は人目を憚る遊びかもしれない。変顔の練習とか、みんなのいる前でやるのはどうだ。

だが、自分の部屋に篭もって隠れてやるほどのことかというと――

「まあいいや」

「相変わらずだな」

考えるのが面倒になって放り出したカイトに、がくぽは肩を落とす。

歩いて行って、窓辺に置いたクッションの上に座った。静かに、座禅を組む。

うずうずして、我慢できなかった。

がくぽこそ、そんなことは自分の部屋でやればいいと思う。

そんな、ひとりきりで静かにやりたいことは。

「がくぽっ」

呼びかけながら、ソファから飛び降りて、がくぽの傍へ行く。

ぺしょんと座ると、薄く瞳を開いたがくぽに、上半身を倒した。

「…これ」

「ひざまくらっ♪」

「そこは膝ではないっ」

胸に顔を埋めて上機嫌に囀るカイトに、がくぽがまっとうなツッコミを入れる。

カイトはますます笑って、がくぽの背へと腕を回した。

「ひなたきもちいーよ。お昼寝しようよ、がくぽ」

「…」

「なんだったら、俺が膝枕するし」

「あのな」

ハグというよりはしがみつくような感じで抱きついて言うカイトに、がくぽが一瞬、肩をいからせる。けれど、その肩はすぐさま落ちてしまって。

「要するに、貴殿が寝たいのだな」

「ほえ?」

諦めた口調で言われて、頭を撫でられた。カイトの瞳が、ねこのように細くなる。

「膝枕してほしいならしてやるゆえ、おとなしう寝ろ」

「や、だっこ」

反射で言い返して、カイトは自分で瞳を見張った。

リビングで昼寝するな、寝るなら自分の部屋へ行ってベッドで寝ろ、というのが、がくぽの普段の主張だ。

それが、ここで寝ていいと言って、しかも膝枕までしてくれるというなら――それは、とんでもなく譲歩してくれたということだ。

それなのに、やだ、とか。

だっこして、とか。

「…」

「……ぇへ?」

返る沈黙は当然過ぎるほど当然で、カイトは仕方なく、笑ってみた。

日本人なら笑って誤魔化すのは必須スキルですよとは、マスターの最重要教育だ。

確かにだいたいのことはこれで誤魔化せてきたから、必須スキルで間違いないと思う。

「……仕方のない」

「え?」

肩を落としたがくぽがつぶやき、抱きつくカイトへと腕を回す。軽くもない体をわずかに持ち上げられて、膝の上に乗せられた。

お姫さま抱っこというよりは、赤ん坊を抱っこするのにも似た形にされて、挙句、ぽんぽん、と手で拍子を取られた。

「これでよかろう」

「……えと、はい」

いいだろうか。

混乱する頭で、カイトは必死に考える。

いいだろうか、ほんとうに。

「子守唄までうたえとは言うなよ」

「え、ボーカロイドなのに!」

むしろ、そちらのほうが本領なのに。

思わずツッコんでから、カイトは混乱を放り出した。

どこまでも、自分の欲求に素直なのがカイトで、そこに思考は介在しないのもまた、カイトなのだ。

「うたわなくてもいいから、もっとぎゅーってしてよ」

「…」

強請りながら自分も抱きつくと、がくぽは眉間を揉んだ。

「その恰好で眠れるものか」

訊かれて、カイトはあっさり頷く。

「がくぽがぎゅーってしてくれたら、眠れるよ」

「…」

眉間を揉んでいる。

カイトはじーっと待つ。

甘えれば、甘えただけ、甘く溶け崩れる。

それが、がくぽ。

「仕方のない……」

案の定、そんな一言で、体に回された腕の力が強くなる。

「ぇへ」

満面の笑みをこぼして、カイトはがくぽの肩に頭を預けた。

安心が、そこにある。

守ってやると言ってくれた。

力強い腕で、たくましい胸に抱きこんで。

おにぃちゃんは自分のほうで、そんなことで安心してはいけないと思うけれど。

だって、甘やかし上手なのだ。

とても甘くて、アリジゴクそのもので。

抜け出せない。

抜け出したい気がしない。

その中に、全身浸して。

「ほんに、仕方のない御仁だ」

囁かれる声が、途轍もなくやさしい。頬を撫でられて、首をくすぐられる。

「ふにゃ」

笑う、意識が、遠のく。

安心してしまう。

この腕を。

離れられない。

離せないから――

そんな願いはどうかしている。

けれど。

望んでしまう。

どこまでも。

欲しいと。