ほろほろと。
こぼれたのは、涙。
NO IMAGINATION
腕の中で、寝ほどける体。
やわらかに力をなくして崩れていくそれは、言葉にもされずに、この腕の中が心地いいのだと、安心するのだと、告げられているようで。
「カイトさんは、がくぽさんの腕の中で眠るんですね」
マスターの、言葉。
どこか、感心して。
なにかに、ひどく驚いて。
自分でも、驚く。
そうやってカイトが、腕の中で安らぐ様を見るのが、決して嫌いではないとか。
むしろ、ひどく好ましくて。
突き上げる感情は、『』――
望んでも叶わない、願っても敵わない、手に入れることは出来ない
それでも愛するこころが止まない
「…」
ブースの中では、カイトがうたっている。彼がうたい終わったら、がくぽの番だ。
今日の仕事は、カイトとがくぽでうたう、新曲のレコーディングだ。
マスターが持って来た新曲は、重苦しい、叶わない恋のうただった。
普段のおっとりぽややんとしているカイトの様を見ていると、こんな重苦しい恋のうたなどうたったところで、上滑りしそうだと思ったのに。
うたうカイトは、本気で苦しい恋に立ち向かっているかのようだ。
いつもまるんでいる瞳がせつなく切れ、ふんわり微笑んでいる顔が、思うままにならないこころに悶えて歪む。
くちびるからこぼれる声は泣いているようで、同時に力強くもあり、届かない想いを届けよとばかりに伸びる。
まるで今まさに、そういう恋をしているのだとしか思えない。
カイトが徹底したプロフェッショナルだということは理解していても、この豹変ぶりはすでに詐欺の域だ。
こんな、まるきり、――
「…」
腕の中で、寝ほどける体。
緊張がゆるゆると溶けて、その表情は幼いほどに無防備に、信頼を告げて。
抱き上げると香る、甘い体臭。
それは、カイトが好んでつけているバニラの香水だけのものではなくて、もっと――
もっと、根源的に。
縋りつく手が、伸ばされる手が、がくぽを捉える。
見つめる瞳が、揺らいでこぼれそうな瞳が、がくぽを映して。
明るく笑う彼が、孤独を抱えてひとり泣くこともあるのだと、知った。
ひとり泣く彼が、がくぽに抱きしめられて、安らぐのだと、知った。
その理由は知らない。
知らないが、理由など要らない。
大事なのは、寝ほどける、安らぐ彼を抱いて、自分が思う、
それでも、あなたを愛していることを、否定出来ない
叶うことのないこの恋でも、しなければよかったとは思えない
あなたを愛さなかった自分を、想像出来ない
「がくぽさん!」
「っ!」
声を掛けられて、それだけでなく肩を掴んで揺さぶられて、がくぽは物思いから覚めた。
はっとして見たマスターが、ひどく厳しい顔をしている。だが、厳しい顔をしているのはわかるのに、映像がうまく結べない。
なぜ、と動揺して、気がついた。
頬が濡れている。
「?!」
「大丈夫ですか?」
気がつかないうちに泣いていたらしい。
顔を上げると、ブースの中でとっくにうたい止んだカイトが、心配そうにこちらを見つめているのがわかった。スタッフたちも、戸惑った顔を向けている。
カイトがうたい終わったら、がくぽの番だ。
だが。
「…すまない、マスター」
どうにかこうにか、それだけ言葉を絞り出す。
「すまない、マスター……!」
苦しく吐き出された言葉の意味を正確に受け取って、マスターは頷く。
「構わないとは言いませんよ。でも、今回は見逃します。ちょっと外に出て、新鮮な空気に触れていらっしゃい」
厳しい声音で言ってがくぽの背を押すと、スタッフへと向き直った。
「すみません、ちょっと時間下さい!カイトさん、行けますよね。すみませんけど…」
大急ぎでスケジュールを練り直すマスターの声を聞きながら、がくぽはスタジオから出た。
なんだかんだと腐しはしても、こと仕事に関してはマスターのことを信頼している。
がくぽのことはうまく誤魔化して、スケジュールの調整もきちんとしてくれるはずだ。カイトにしても、うまく丸めこんでくれるだろう。
邪悪なことの多いマスターでも、姉妹たちとは違って、こういうときに信頼することが出来る。
そうでなければマスターとは名乗れませんよ、とでも本人は言うだろうが。
「…っく」
人気のないことがわかっている廊下の端に行って、がくぽは蹲った。
涙が止まらない。
感情が暴走している。理由もわかっている。
引きずられたのだ、カイトのうたごえに。
カイトの、あまりに真に迫った苦しい恋のうたに――今まで、必死に見ないようにしてきた、自分のこころと対面させられた。
腕の中で寝ほどける体。
その感触は、ログを取り出せば細かなところまで、まざまざと蘇らせることが出来る。
乱れる青い髪が、どんなふうに顔を彩っていたか。
力なく崩れる体が、預けられる重みが。
思い出すだけで、しあわせになる、逸るこころの、その理由。
「莫迦ではないのか、俺は…」
なぜ、よりにもよってカイトだ。
ほかに、いくらでも相手などいそうなものなのに。
つぶやく、声は嘲りに満ちて、せつなさに掠れた。
これは、恋だと、あなたが教えた
色のない世界に、彩りを与えた、その感情を
あなたが、恋だと教えた
うたうカイトの、表情。
遠くを見つめた、思い返す眼差し。
そこに、だれか、具体的な相手がいるかのような、そうとしか見えない、どこまでも確信に満ちて溢れ出す、想い。
普段、あれだけいっしょにいるのだから、そんな相手がいないことはわかっている。
わかっていても、もしかしたら。
もしかしたら――
「ふ…っ、くっ」
嗚咽を漏らしながら、がくぽは崩れたこころを眺めて虚しく笑う。
この感情は、恋だと。
カイトを抱いて、安堵するこのこころは、彼を求めて手を伸ばすこの想いは。
恋なのだと。
教えられた。
彼の、うたごえに。
「…っく、ぅ…っ」
嗚咽を飲みこみ、がくぽは涙を拭った。
荒れ回る駆動系を叱咤して、プログラムのいくつかを一時的に停止することで涙を止める。
今は、仕事だ。
うたう、恋のうたを。
あなたに届くことはないとうたう、苦しい恋のうたを。
想う相手がいて、ともに声を合わせる。
それでも、届くことはない――
「…行けますか」
スタジオに戻ったがくぽをちらりと見て、マスターが低く訊く。
「ああ。すまない」
短く答え、視線を送ってきたスタッフたちに目礼を返したがくぽに頷くと、マスターはバッグを取った。
「顔を直しましょう。表に出ないとはいえ、ちょっと無残ですよ」
「ああ」
明るい声で言うマスターの態度は、いつもと変わらない。そのまま、化粧ポーチを取り出して、がくぽに座るように促した。
「…自分でやれるが」
「これでいてマスターのメイク術は、玄人はだしだと好評です。たまには任せてご覧なさい」
「…」
マスターの表情はやわらかで、陰りがない。その瞳にあたたかい光があって、がくぽは諦めた。
どうやら、突然の涙の理由など、とっくにお見通しだ。
もともとずれたところはあっても、カイトとは違って、ひとの機微には敏いマスターだ。隠しおおせるはずもない。
だからこその、見逃す発言だったのだろう。
黙って座ったがくぽの顔に、きれいに化粧を乗せて涙の跡を隠すマスターの手は、確かに巧みで、そしてどこまでも丁寧でやさしい。
赦されているのだと、愛されているのだと、言葉でなく伝わる。
たとえがくぽが、彼女の愛する長男に邪まな思いを抱いているのだとわかっていても――揺らぐことのない、信頼と愛情が、ある。
マスターは長男を愛しているが、がくぽのことも等分に、愛しているのだ。
だからこそ――
「マスター」
がくぽは、小さくちいさく訊く。
「いいのか?」
なにと特定しない問いに、マスターは笑った。その手が鈍ることも、笑顔が翳ることもない。
「私はね、いいとか悪いとか、決めないんです。そんなもの、あとあとの、ずっとあとにならないとわからないことですから」
逃げにも思える答えを寄越して、それからマスターはまっすぐにがくぽを見つめた。
「でもね、ひとつだけ、確実に言えることがありますよ」
ゆっくりと、告げる。それは、いつもどおりの。
「あなたは私の自慢の子です。私はあなたが誇らしい」
ブースの中では、カイトがうたっている。
予定外にがくぽが入れなくなったため、後で録る予定だったコーラスを急遽入れられた。
それでも、これくらいの予定外でうたごえは揺るがない。
一通りうたい終わったカイトが、外に立つがくぽに気がつく。
巧みな化粧術によって平静な顔を取り戻したがくぽが軽く頭を下げ、手を上げると、花が綻ぶような笑みを浮かべた。