おつかれに効くくすり
「…あれ」
リビングに入ったカイトは、小さく声を上げた。
ソファにがくぽが座っているのだが、なんだか見るからにだるそうだ。いつもかっきりと伸ばされている背筋が、微妙にたわんで見える。
野生の動物のように弱った姿を晒さないがくぽだというのに、あまりに無防備だ。単に馴れてくれた、というならうれしいのだけれど――
ここのところ、仕事が詰まり気味で忙しい。
もちろんそれはいいことだが、起動したてのロイドにとって辛いことには変わりない。
マスターはきちんと個々人の限界を見ながら仕事の量を調整しているが、それでも。
「がくぽ」
声をかけながら、ソファの傍らへ行く。
「疲れた?」
そっと訊くと、がくぽは気怠そうに顔を上げた。いつも澄んでいる花色の瞳が、わずかに潤んでいるように見える。
「別に…」
答える声も億劫そうだ。
カイトは手を伸ばし、がくぽの前髪を掻き上げた。深い皺の寄った眉間を、人差し指で揉む。
「…これ」
さらに渋面になって顔を振ったがくぽに、カイトは腕を広げた。
「だっこしてあげようか?」
「…」
沈黙。
カイトはめげることなく、がくぽへと腕を広げる。
「疲れたときは、だれかにぎゅーってしてもらうと、早く治るんだって、マスターいっつも言ってる。俺が疲れてるとき、マスターはいっつもぎゅーってしてくれるけど、ほんとに早く治るよ」
「…あのな」
渋面のがくぽは、壮絶になにか言いたそうにしている。だが、なにをどう言えばいいかの取捨選択がうまくできないらしい。
くちびるだけ虚しく空転させるがくぽに、カイトはにっこりと笑った。
「リンちゃんとかレンくんなら、お膝に乗せてあげてぎゅーってすると、すっごく喜ぶんだけど…」
「潰れるわ」
「…潰れはしないと思うけど、まあ、さすがに重いだろうってことはわかる。だから」
言って、カイトは正面からがくぽの頭を抱えこんだ。
長い髪を辿って広い背中へと手を滑らせ、ぎゅ、と抱きしめる。
「…」
積極的なスキンシップが苦手ながくぽは、腕の中で強張っている。
だから、ますます強く抱きしめた。
伝わればいいな、と思う。
がくぽのことが大好きで、大好きだから、元気を分けてあげたい、この気持ちが――
この、腕の中で、彼が安らいでくれたなら、それは、
「っ」
ふいに、がくぽの腕がカイトの背中へと回って、カイトは驚きに身を震わせた。
応えてほしいとは思っても、応えてくれるとは思っていなかった。
そのカイトに、がくぽはゆっくりと、しかし確かに腕を回していく。縋るような手つきで、背中を辿られ。
「…って、あの、がくぽっ?」
引き寄せられた体が、がくぽの膝へと乗り上げさせられ、さらに囲い込まれて、胸の中へと抱きこまれていく。
「がくぽ」
「ぎゅうっとすると良いのだろう」
つぶやく声は疲れて力無い。
なのにカイトを抱きしめる腕は、どこか必死に強く、抵抗を許さない。
「ぎゅーってするとって、えっと、そうじゃなくて…。疲れてるひとが、してもらうと」
「厭か」
「…」
放り投げるように訊かれる。
いいかいやかで言えば、いやではない。がくぽに抱きしめられるのは、ひどく安心する。
だが今は、疲れているがくぽを抱きしめて、安心させてあげたいのだ。自分が安心させてもらっていては、意味がない。
「ええと…っ?!」
言葉を探している間に、カイトを胸に収め終わったがくぽは、甘えるようなしぐさで顔をすりつけてきた。猫か犬がやるような、まるで撫でろとでも要求するかのような。
「…」
戸惑うカイトに、がくぽは顔を上げた。虚ろな瞳で、おどおどしているカイトを見る。
「邪魔だ」
「ええ?!」
吐き捨てて、がくぽはカイトの首から乱暴にマフラーを取った。ついでに、襟元も広げられる。
「…がくぽ?!」
わけがわからないと身を強張らせるカイトに、がくぽは再び頭をすりつけた。くつろげた襟元へ顔を突っこみ、肌を肌が直接辿る。
「ふわ…っ!」
首元を肌が撫で、髪がくすぐる。くすぐったいのと、なにか背筋を這い登る奇妙な感覚に、カイトは身動きも取れなくなった。
少しでも動けば、おかしなことになりそうだ。
どうおかしくなるのかわからないのだが、おかしいことになる。その予感だけがある。
「…」
やがて、安定できる場所を見つけたらしい。
しきりと動き回っていたがくぽが止まり、やわらかに身をほぐした。
「…がくぽ」
カイトは引きつった声を上げる。
がくぽが安らいでくれるのはうれしい。泣きそうなほどに。
だが、別の意味で今、泣きそうだ。
がくぽのすべらかな肌が、やわらかな髪が、首元にある。どうしてか目が眩む感覚があって、わけのわからない声が上がりそうだ。
「…がくぽ」
「おとなしう、抱かれておけ」
啼き続けると、がくぽはそんなふうにつぶやいた。背中に回った腕に力がこもって、ますますしがみつかれているようになる。
別に逃げ出そうとしているわけではないのだが。
「おとなしくする……するから……っ」
「厭か」
懇願する口調に、放り投げるように訊かれる。
カイトは口ごもり、がくぽの髪を引っ張った。
「い、やじゃない………けど、くすぐったい…っ」
「…」
どうにか上げた声は、震えて、今にもひっくり返りそうで、みっともなかった。
本気で泣きそうになるカイトに、黙っていたがくぽが、少しだけ顔を上げる。
「…においがする」
「え?」
つぶやかれた言葉に、カイトはがくぽを見返す。
「カイト殿の、においがする。こうしていると、安心する」
「…」
真摯に言われて、カイトは湖面のような瞳を見張った。
意味がわからな――
「あ、……ああ、うん……っ」
咽喉が閊えて、うまく言葉が出てこない。なにか山ほど言いたいことがあるような気がするのに、なにひとつとして明確な形を取れない。
「うん…」
「厭か」
引く波を見るように、訊かれる。
わずかに言葉を探す間を挟んで、カイトは首を横に振った。
「や、じゃない、よ。いいよ…それで、がくぽが安心できるんだったら」
「…」
懸命に言葉を継いだカイトに、返されたのは笑み。
やわらかに、溶けそうなほどに甘く微笑まれて、カイトは言葉を失って見入った。
がくぽの手が伸びて、そんなカイトの頬を撫でる。頬から耳へと辿り、首を撫でて、後頭部へ回ったその手が、やわらかに胸の中へとカイトを抱きこむ。
「おとなしう、しておいてくれ」
囁かれて、カイトは小さく頷いた。そっと、がくぽへと身をすり寄せる。そうするとますます大事に抱きこまれて、やさしい手が頭を撫でてくれる。
これって、俺が慰められてないかな。
思い、見つめた先には、がくぽの安らいだ笑顔。どこか切なげでもあるそれは、ただただきれいで。
「…がくぽ」
手を伸ばして、がくぽの頭を抱き寄せた。
あれほどくすぐったくていやだった、首元へ。
髪がふわりと首を撫でて、わずかに震えたが、それでも抱きしめた。
「好きにしていいよ」
つぶやきに、密やかな笑い声が応えた。