ひらり、閃く、光。
鮮やかに。
さもなければ、密やかに。
そこに、確かに、存在する。
存在するから、――気がついてしまったら、もう、終わり。
きみというひかり
「お悩みですね、カイトさん」
「んんぁ」
リビングの窓辺で白パズルとにらめっこしていたカイトの傍らに、笑いながらマスターが座る。
集中していたせいで外界が霞むカイトの視界にひらりと閃くのは、
「アイスーvv」
「はいです、差し入れですよ!」
霞んでいた視界は唐突にクリアになり、カイトは満面の笑みを浮かべて体を起こす。
カイトはマスターから受け取った袋アイスを開き、中身を取り出す。棒が二本ついているそれは、真ん中できれいに二つに割れるようになっている。
カイトは取り出したアイスを器用に二つに分けると、一本をマスターへと差し出した。
「はんぶんこ!」
「はい、お相伴に与ります」
マスターはにこにこ笑って、アイスを受け取る。
ことアイスに関しては分け合いの精神が枯渇しているカイトだが、この二つに割れる、昔馴染みのアイスだけは別だった。
だれかと分け合って、食べたい。
ほかの二つ組のアイスではそう思わないのだが、これだけは別なのだ。
自分が食べる量が減ってしまっても、半分こして食べたいと思う。
「ふひゃ」
笑って、カイトはアイスに齧りつく。
カイトが齧りつくのを確認してから、マスターもアイスに口をつけた。
真冬だが、陽だまりのリビングはぽかぽかと暖かい。どうにか、凍えずに食べられそうだ。
「それで、カイトさんはなにをお悩みですか?」
「おにゃやみ?」
アイスに齧りついているせいで不明瞭につぶやき、カイトはしばらくマスターの言葉を考えた。
「おにゃやみ…………おにゃやみ?んあ!ああ、おにゃやみ!!うんうん、そうそう、俺お悩みだったんだよ!すごいねマスター、なんでわかるの?!ウィスパー?!」
「難しいほうを選択しましたね!さすがはカイトさんです…………これに上手く返せないようだと、おそらくクッションが取り上げられますね!」
「クッション?」
カイトはきょとんと瞳を見張る。
本来であれば、素直に返せばいいだけだ。それを言うなら、ウィスパーではなく、エスパーだ、と。
しかしマスターは眉をひそめて考えこみ、ざくざくとアイスを齧り取っていく。
「……………まあ、愛を囁くのはメイコさんの枕元で、丑三つ時にこっそりやることにして」
「夜這い?」
「違いますよ。インプリティングです」
大真面目なカイトへ、マスターも大真面目に返す。
「メイコさんは忘れてしまうので、何度でもくり返し、インプリティングし直さないといけないでしょう」
「………」
同意を求められているような、ただの独白のような。
その言葉に、カイトは微妙な沈黙を返す。
ざくざくアイスを齧っていって、棒だけになる。
そこまでいって、カイトは気弱な上目使いでマスターを見やった。
「………………めーちゃんは、…………………なんで、迷わないんだろう」
言い淀むことのないカイトにしては珍しく、その声はひどく遠慮がちで掠れていた。
「マスターのこと、絶対好きなんだよ…………………そんなの、何回やったって、毎回、絶対、好きになるだけなのに………………」
「何回でも試したいのが女心というものです。複雑怪奇なのですよ」
カイトが遠慮がちなのに対して、マスターは平素と変わらない。あっさりと返す。
カイトは口ごもって、それから決死の覚悟と言っても過言ではない表情を浮かべて、マスターへと身を乗り出した。
「だってどうして、好きなひとのこと、忘れるの平気なの?!どうして忘れたくないって思って、忘れないことを選ばないの?!だって好きなのに、好きなことすら忘れちゃうのに…………!」
言いながら、カイトは悄然と項垂れていく。
一般に旧型機と呼び習わされるMEIKOシリーズとKAITOシリーズは、記憶容量が小さかった。
現在では、ラボに頼んでカスタムすることで最新型と変わらない、ほとんど無限の記憶容量を得ることが出来るが、カイトとメイコはそれを拒絶した。
それぞれにそれぞれの言い分はあれ、常態での記憶限界は数年分。
ふたりとも、十二月に入ると一年分の記憶の整理を始めて、大晦日の除夜の鐘とともに、必要最低限のもの以外すべて消して、翌年分の記憶容量を確保するのが、通例だった。
カイトもメイコも「忘れる」とは言うが、実態は自主的に記憶を捨てているのだ。
「つまりカイトさんは、絶対に忘れたくない、とっても好きなひとが出来たってことですね」
「っ」
軽く投げられた言葉に、カイトは強張った。
くちびるを空転させてから、ぎゅ、と拳を握る。
「わかんない」
「おや」
吐き出される声音は、強情だ。
駄々っ子が、わかりきった事実に納得したくないと、喚いているかのような。
「わかんないけど………………忘れたくない」
強情な声音で、カイトは言葉をこぼす。
「全部、ひとっつも、消したくない。ちっちゃいことも、なんでもないことも、些細なことも、つまんないことも、なにもかも、全部ぜんぶ………………消せない」
「ふむ。欲深なことです」
なんでもないことのように、マスターはつぶやく。
その言葉にカイトはわずかに体を震わせて、けれどきっとしてマスターを睨みつけた。
「でも、全部……………一個だって、譲れないんだ。絶対に、消すなんて、だめなんだ」
「それなのに、好きかどうかわからないと?」
「…っ」
静かな問いに、カイトの瞳は揺らいだ。湖面のような瞳に涙が盛り上がって、なおさら湖面のようになる。
「……………だって、ヘンだよ、マスター……………。『好き』って、しあわせな気持ちでしょう?こころがあったかくなって、ふわふわって蕩けて、やさしい気持ちになるものでしょう?」
鼻声の問いに、マスターは微笑む。
「ミクさんとか、リンさんとか、レンさんとか?」
「………みんなが来た日のことは、ちゃんと覚えてるよ。大事な日だから。マスターのことだって、初めて会った日のこと、ちゃんと覚えてるよ……………目ぇ覚ましたら、めーちゃんがそばにいて、俺のこと抱きしめてくれたんだ。ふわふわほわほわしてて、それですっごくやさしくって………俺は世界に歓迎されてるんだって、すぐわかった」
洟を啜りながらも懸命に言い募るカイトに、マスターは微笑んだまま、首を傾げる。
「がくぽさんに、そういう気持ちになりませんか」
「っ」
ぐず、と、一際大きく洟を啜る音が響く。
カイトは苦しげに自分の胸を掴んだ。
「ヘンだよ、マスター……………がくぽのこと、俺、ほんとにかわいいんだ。かわいいのは、ほんとなのに………甘えたくって、甘やかしてほしくって、……………」
その先を言うことはひどく躊躇われて、カイトはくちびるを空転させた。
マスターは急かすこともなく、黙って待っている。だからカイトは、吐き出さずにはおれなかった。
「……………ひとりじめ、したいんだ。みんなと仲良くしてほしいのに、そう思うのに…………なのに、俺だけのがくぽでいてほしいって、俺だけのがくぽにしたいって、思っちゃうんだ…………っ」
吐き出された言葉とともに、感情の堰が切れたらしい。
必死に堪えていた涙が、ぼろりとこぼれた。ぼろぼろと、大粒の雫が溢れてこぼれて流れていく。
「俺だけ抱っこして、俺だけ撫でて、俺にだけ甘えて…………俺だけのだったら、いいって。なんで俺だけのじゃないんだろうって、……………腹が立って、いやな気持ちになって、ワガママいっぱい言って、がくぽのこと、困らせたくなっちゃうよ…………!」
いつものように声を上げて泣くのではなく、ぼろぼろと雫をこぼすだけのカイトに、マスターはただ微笑んでいる。
「それ、『好き』じゃないんですね?」
「だって、全然やさしくないよ…………っ!ワガママばっかりだし、こんなの、…………っ」
「じゃ、『好きじゃない』って、言ってみましょうか。ああ、そうですね。いっそ、『キライだ』って言ってみてもいいです。はい、カイトさん」
「………っ」
軽く促されて、カイトは瞳を見張る。
溢れこぼれる湖面は止めどもなく、くちびるだけが虚しく空転して。
「……………言えないですね」
「っく」
微笑みとともに静かに念を押されて、カイトはしゃくり上げた。
凍ったようになっているカイトに、マスターは朗らかな笑い声を上げて手を伸ばす。
「よしよし、少し虐めてしまいましたね!マスターを怒っていいですよ」
「んくっ」
頭を撫でられ、そのまま胸に抱えこまれて、カイトは黙ってしゃくり上げるのをくり返した。
言えない。
好きだとはっきり言うことも出来ないけれど、好きではないと言うことは、もっと出来ない。
嫌いだなんて、決して言えない。
言えないけれど、言えない言葉ばかりが積もって。
胸が、ぎゅうぎゅう、締め上げられて、痛くて苦しくて、ちっともしあわせじゃない。
やさしさとも程遠くて、――だからこれは『好き』ではないのだけれど。
「いいんじゃないですかねえ」
泣きじゃくるカイトの頭を抱えこんで撫でながら、マスターはのんびりと言う。
「とりあえず、強欲であることは、善ですよ。欲深に相手を望むのは、悪いことではありません。それがきれいじゃないとか、やさしくないとか、そういうことで、そこまで強く望む感情を否定するのが、そもそも感情をどんどん歪めていく原因になるんじゃないんですかね」
「っく」
しゃくり上げながら、カイトはわずかに身をよじって、マスターの顔を見つめる。
マスターはまっすぐとカイトを見返して、いつものとおりに笑った。
「少なくとも私はメイコさんに、きれいでやさしくて、あったかいだけの想いを抱いたことはないです。そこにはいつでも汚くて、どろどろで、ぐったぐたの感情がいっしょにあります」
「マスター」
驚いた声で呼ぶカイトに、マスターが動じることはない。
涙を止めて身を離したカイトへ、微笑んだまま自分の胸を指差した。
「でも、そうやっていろんな感情を抱えてても、絶対に願うことはいつもひとつです。『メイコさんが、しあわせであれ』」
きっぱり言い切ってから、マスターは自分の胸をぽんぽんと叩く。カイトの涙に濡れて、しけっているそこを。
「それだけは、絶対に、どんなときでも嘘がない、ほんとのことです。――たとえ、とっても汚くて、醜くて、顔を背けたくなるような感情に支配されているときでも…………泣き喚いて、這いつくばって、もがいて足掻いて、血も吐かんばかりに呪って憎んで、――でも、やっぱり最後には、その感情に、すべての感情が敗北します」
「…」
静かに語るマスターを、カイトは凝然と見つめる。
マスターはひとり納得したように、こっくりと頷いた。
「私は、それを『好き』って呼びます」
カイトは涙の名残で、小さくしゃくり上げた。
「……………俺は、がくぽのこと、…………………『好き』、なの…………?」
躊躇いがちなつぶやきに、マスターはあっさりと肩を竦める。
「知りません」
「マスター?!」
瞳を見張って非難の声を上げるカイトに、マスターは大真面目な顔になる。
「私の感情は私の感情で、カイトさんの感情はカイトさんの感情ですよ。強制は出来ません。カイトさんがどうしても、やさしくてあったかい気持ちじゃないと『好き』だと認められないなら、それもそれで正しいんです。ただ………」
言い差して、マスターは首を傾げて笑った。
「もし、そうじゃなくて、カイトさんが単に、『好き』にいろんな種類があるんだって知らないで、『好き』っていうのはこういうものって決めているんだとしたら、世界を広げるのも、『マスター』の役目です。だから、お話しました。カイトさんがどう考えて、どう選択するかは、マスターの関与するところではないです」
突き放すようでもある物言いに、カイトは困ったように眉をひそめる。
だが、それがマスターの基本スタンスでもある。
選択肢を広げてはくれる。
けれど、最終的に選ぶのは、いつでも自分だ。
考えてかんがえて、考えて――
たとえば、その結果が間違いだったとしても、マスターが責めたり怒ったりした記憶はない。
そんなことをされたら、きっと残しておくはずだから――残っていないということは、なかったと同義なのだ。
「……………選択肢が広がりましたか?」
訊かれて、カイトは洟を啜った。
ごしごしと瞼をこすって、こっくりと頷く。
「かんがえる」
「はいです」
笑って、マスターが手を伸ばす。青い髪を乱暴に撫でまわして、立ち上がった。
「さて、それでは当座の問題を解決しに行きますよ」
「…………もんだい?」
きょとんとして見上げるカイトに、マスターは軽く肩を竦めた。
「ラボに行きます。記憶容量を拡げて貰いましょう。忘れたくないことを、ひとつも忘れないために」
「………っ」
反射でぶるりと震えたカイトに、マスターは自分の胸に手を当てて、騎士のように膝をついた。
「ずっと手を繋いでいると約束しましょう。最初から最後まで、ずっといっしょです。決してお傍を離れません。――どうします?」
大仰な身振りと言葉に、カイトはごくりと咽喉を鳴らす。
ラボはこわい。
からだをいじられるのは、いや。
あたまをいじられるのは、いや!!
叫ぶ心はどうしようもない。
けれど、今はそれ以上の想いで、叫ぶ言葉があるから。
「………マスターのことは、絶対信じてるんだ」
告げたカイトに、マスターはくるりと瞳を回す。
「光栄です。マスター冥利に尽きます」
どこかふざけた物言いに、カイトはきっぱりと返した。
「だって、マスター、裏切ったことないんだもの。ずっとずっと俺たちのこと守っててくれたの、それくらいは覚えてるんだよ」
「………」
告げられた言葉を受け止めて、マスターが微笑む。手が伸びて、カイトの頭をきつく抱きこんだ。
「…………光栄です。マスター冥利に尽きるってもんです」
震える言葉に、カイトは目を閉じて、マスターの胸に擦りついた。