空が紫雷に割れ、響き渡る轟音に、頑丈なマンションですら揺らいだ心地がした。
Draw The Latch
カイトが一日のほとんどを過ごす南向きのリビングの窓は、開口部が大きい。普段は降り注ぐ陽の光の恩恵を感謝するそれも、こうなると逆効果だった。
荒れる空も閃く雷光も、逃げ場もなく襲って来て、遮断しようがない。
「っっ」
「………ああ、カイト……」
「……っ」
反射で伸びてきた手が、傍らに座るがくぽの着物を掴む。指は引きつるように強張り、きれいに整えられた着物に深い皺を刻んだ。
いつも端然としている奥さんが、珍しくも恐怖に色を変えて、縋ってくる。
哀れむ思いとともに去来するのが、どうしてもうれしさだ。
そんな自分に苦笑しつつ、がくぽはカイトの手を軽く叩いた。そのまま辿って、肩へと回す。
「来い。抱いてやろう」
「っ」
がくぽがやわらかに体を招き寄せる間にも、雷は轟き渡る。そのたびに竦み上がる体はすでに自由を失って、がくぽが引いてやらないと、取り縋ることも出来ない。
「………っ、だん、な、さま………っ」
「よしよし。怖いことなぞない。俺が傍にいる。ずっと抱いていてやろうから」
「……っ」
「よしよし………」
がくぽの胸の中で、いつも以上に小さくなった体が、懸命に取り縋る。
うれしくても、こんなではあまりに奥さんが哀れだ。
がくぽは安心させるためにきつく抱きしめ、カイトの頭に顔を寄せた。
実際のところ、がくぽだとて雷が得意なわけではない。
遠くで鳴っているならともかく、ガラスの共振する音が耳を傷めるほどに近くで暴れ回られると、いい気はしないし、正直、身が竦む。
けれど、最愛の奥さんがここまで怯えているのを見てしまうと――不思議と、落ち着いた。
薄情な話だ、と自分で思う。
怯える奥さんを見て、共に怯えるのではなく、落ち着きを取り戻すなど。
とはいえ共に怯えていては、最愛の相手を守ることも出来ない。怖くないと慰めることも、大丈夫だと請け合ってやることも。
裏を返せば、守らなければという意識が働けばこその、落ち着きでもあった。
「………っふ」
カイトが、小さく嗚咽をこぼす。抱く体はずっと震えていて、さすがにうれしいを通り越す。
かわいそうに、と胸が締めつけられた。
「これまでは、どうしていたのだ」
雷から気を逸らすために訊いたがくぽに、カイトは強張る首を振って洟を啜った。
「………まさか、マスターがいるときにばかり雷が鳴るわけでもあるまい?奏に頼っていたのか?」
竦む首を撫でて、固く拒む顔を自分へと向けさせる。
けぶる瞳を怯えに染めたカイトは、嵐に晒された湖面そのものの惑乱した風情で、がくぽを見つめた。
「わかりません」
「わからない?」
こぼされた答えに、がくぽは眉をひそめる。恐怖のあまりに、記憶を失ったとでもいうのだろうか。
カイトは軽く首を振って顎を掴む手を払うと、がくぽの首元へと顔を埋めた。
「わかりません…………なんで俺は今、こんなに、怖いんでしょう?」
「なに?」
「っ」
訊き返されたことが理解不能で、がくぽがさらに眉をひそめると同時に、一際大きな雷鳴が轟き渡った。
カイトを抱くがくぽの手にも瞬間的に力がこもり、しばらくふたりの間を沈黙が支配する。
外では、紫光が閃き、舞い踊っている。
土砂降りの雨はテラスを穿つ勢いで叩き、排水も間に合わずに水没しそうな危惧さえ抱かせる。
ガラス一枚で、隔てられ、守られた、温室。
届くのは、音。
それだけ。
「…………カイト」
「これまでは、ずっと、平気だったんです…………怖いと、思ったことなど、ありませんでした…………なのに」
「……」
洟を啜りながらつぶやくカイトの声は、恐怖に掠れている。
さらに言えば、雷が怖い自分が理解出来ないという困惑で、恐怖が増幅されている。
「どうして………」
愚図るようにつぶやいて、カイトはがくぽへと顔をすり寄せる。
その頭を撫でてやりながら、がくぽは漠然と外を見た。
マスターがいるときに限って、雷が鳴るということはない。奏も同様だ。カイトには「頼れる」相手がいなかった。
いない相手を求めて、もがく性質ではない。
カイトは静かにしずかに、蓋をしたのだろう。波立ち、震える己のこころに。
そうやって、感情に蓋をした虚ろな瞳で、嵐が過ぎ去ることをひたすらに待っていたのだろう。
マスターが病に落ちたとき、看病のすべも教えられず、ただ回復を待つことを強いられていたように。
「…………怖くて、いいだろう」
愛しさが募って咽喉が閊え、声が震えた。
縋りつき、怖いと怯える奥さんが――うれしい。
どうして急に怖くなったのかわからない、と戸惑う姿が――これ以上なく、愛おしい。
「怖くても、いいだろう?」
縋る頭を掻き抱いて、がくぽはささやいた。咽喉は閊えて声が震えても、そこに熱が含まれて、吐き出される。
「俺がいるのだから。俺が傍にいて、こうして抱きしめてやるのだから。これから先、ずっとずっと。そなたが怖い思いをしているときには、必ず俺がいて、守ってやるのだから」
「…」
カイトは応えない。構うことはなく、がくぽは抱いた頭に顔を埋めた。
涙が滲む思いがした。
自覚することもないままに、カイトはがくぽに信頼を委ねている。
傍にいる旦那様が、自分のことを必ず受け止めて、守ってくれるのだと、疑いもせずに信じている。
その信頼があればこそ、蓋をしていた感情が開き、怖いものを素直に怖がることを思い出したのだ。
たとえ怖がって、怯えて、身が細る思いをしても、傍には旦那様がいて、助け手を伸ばしてくれる。
竦む体を抱きしめて、涙を掬い上げ、この時間を越えさせてくれる――その、絶大なる、信頼感。
募る思いに震えそうになりながら、がくぽはひたすらにカイトを抱きしめた。
大人しく抱きしめられていたカイトの体が、腕の中で解けていく。
完全にやわらかさは取り戻せず、けれど、この腕の中は「大丈夫」なのだと、思い出したかのように。
解けて、体を預け、カイトはがくぽの首に顔を擦りつけた。
「………少しだけ、わかりました」
「…」
つぶやいて、カイトは掴んだままのがくぽの着物を引いた。
「ずっと、傍にいてくれないと、いやですからね………………俺をこんなふうにした責任は、ちゃんと取ってください」
詰るようなおねだりに、がくぽは笑った。
笑って、顔を上げる。冷え切ったカイトの頬を撫で、軽く上向かせた。
小さく、触れるだけのキスを贈る。
すぐさま轟いた雷鳴にカイトの体が竦むのをまた抱きしめ、がくぽは瞳を細めた。
「責任なら、いくらでも取ろう。それでそなたが手に入るなら、これほど安いものはない」
ささやき、うなじにくちびるを落す。震えたカイトは顔を上げ、荒れる外を見、それから愛しい旦那様を見上げた。
その瞳が軽く見張られ、それから俯く。
「…………こわい、ですけど。………………かみなり、すき、かも…しれません」
言いながら、強張る指を懸命に動かして、がくぽの髪をひと房、掴む。
「カイト?」
首を傾げるがくぽに、カイトは再び顔を上げた。強張ってぎこちないものの、確かに笑みを浮かべる。
掴んだ髪をくちびるに運ぶと、口づけた。
「あなたの、色……なんですね」
「…」
がくぽは花色の瞳を見張った。絶句する旦那様に、カイトは凭れかかる。
「だから、こわい、ですけど……………すきに、なると、思います…………」
夢見心地のつぶやきを聞きながら、がくぽはカイトを抱く腕に力を込めた。