Gammon & Spinach-01-

「うんよし決めた」

パソコンのモニタに向かっていたマスターが、自分の決心を確かめるように声を上げた。

マウスをクリックする音が連続。

ベッドに腰掛けて、新しい曲の音程を確認していたカイトは、けぶるような瞳をマスターに向けた。

短く整えられた髪と同色の青い瞳は、どこか焦点がぶれているような印象を与える。

それは、室内であるにも関わらず身に着けたままのコートと長いマフラーとも相俟って、カイトをひどく浮世離れして見せた。

有り体に言って、三十路男の日常そのものの、雑多な空気の部屋から浮いている。

いくらボーカロイドという人間外の存在とはいっても、カイトの持つ雰囲気は独特だった。

カイトは首を傾げ、それからまた瞳を伏せた。マスターの背中越しに見えたモニタは、終了確認画面だった。

それならばきっと。

「かーいーとっ」

「はい、マスター」

予想通り、マスターはヘッドセットと片眼鏡を外して椅子から立ち上がると、ベッド上のカイトの隣に座った。そのまま軽業師のように身軽に回転、カイトの膝に頭を乗せる形で横になる。

標準的な男性体としてつくられているカイトの膝枕が、マスターは殊の外お気に入りだ。上機嫌に笑う顔は、もう三十も越えた男とは思えないほど子供っぽい。

「なにをうたいましょう?」

膝に散った短い髪を梳きながら訊いたカイトの頬に、マスターの手が伸びた。悪意はなく、軽くつままれる。

男としては細い部類に入るらしい指が、頬からこめかみ、瞼をなぞって顎をくすぐった。

カイトはこうやって、マスターに触れられることが好きだ。

言葉もなく撫でられているのに、大事だ大事だと言われているような心地になる。

猫のように目を細めて慰撫されるカイトに対し、マスターはわずかに眉をしかめた。撫でる指の動きが鈍る。

怪訝な表情を浮かべて、カイトはマスターを見下ろした。

「マスター?」

「決心が鈍るよなあ。おまえほんとにかわいいもん」

衒いもなく言われるが、これはいつものことだ。マスターはカイトに愛情を伝えることに躊躇しない。

だからカイトも少し首を傾げただけで、平静に「ありがとうございます」と返した。

そして、マスターが話し出すのを待つ。

マスターはまたカイトの頬をつまみ、手遊びのように弄んだ。

「あのさ。婿取ることにしたから」

「はい。おめでとうございます、マスター」

カイトは実に自然に流した。

マスターは照れくさそうな顔をしてから、眉をしかめる。

「うんありがとう。って待て。なんで俺がおめでとう」

「婿を取られるのでしょう。ご結婚なさるのですから、おめでとうでは?」

「なに言ってんのカイト。おまえ世間知らずにも程があるよ現状日本では男同士は結婚できません。しかも婿を取るのは俺じゃなくておまえだし」

「…」

確かにカイトは世間知らずだ。なぜといって、マスターがうたわせること以外に興味を持たないからだ。

それにしてもさすがに、今のが理不尽なツッコミだとはわかった。

「俺の婿ですか?」

「それ以外に誰に婿を取る」

さも当然と言われて、カイトは少しだけ考えた。

→マスターは頭がおかしいひとだ。

「どんなひとですか?」

世間知らずぶりと非凡なまでの鷹揚さを発揮して、カイトは間違った結論に帰着し、ごく当然のように会話を進行させた。

カイトの出した結論を知らないマスターにとっても、会話が進行することは当然だ。

しかしながらカイトの所見を述べるなら、出した結論を知ってもおそらく、マスターの態度は変わらない。

間違った方向で揺らがないひとなのだ。

「おまえのとは違うラボが出した最新型のボカロなんだけどさ。前々からちょっと思ってたんだよ。おまえにパートナーが欲しいって。でもこれだっていうのがいなくてな。だけどあれならまあ旦那にしてもいいレベルかなって」

マスターはカイトが男性型であることを知っている。よく理解している。

ついでに言うと、マスターの嗜好は男色ではない。

純然たる異性愛者かというとカイトにはよくわからないのだが、少なくとも男色一色に偏ってはいないはずだ。

だがカイトにと見つけてきた相手は、『旦那様』らしい。

「俺ひとりがうたうのではご満足いただけませんか」

旦那様、の部分はとりあえずスルーして、『パートナー』というところに反応してみたカイトの頬を、マスターは軽く叩いた。

「そんなわけないだろ。カイトひとりいれば満足だ。俺はな。そうじゃなくておまえにパートナーを付けたいんだ」

「マスターがいれば十分です」

即答したカイトに、マスターは不可思議な笑みを浮かべた。

喜んでいるし、悲しんでもいる。

その理由はカイトには推し量れない。

マスターはひと括りに『おかしいひと』でまとめられるが、もっといえば、複雑怪奇なおかしいひとなのだ。

「俺はだめだ。どこまで行ってもおまえのマスターにしかなれない。おまえには俺ひとりいればいいと思うのはほんとう。だけど同時におまえにパートナーを付けたいと思うのもほんとう。あのなこれ違うからな。付けたいのは新しいマスターじゃなくてパートナー。わかるか」

少し考え、カイトは首を横に振った。

「わかりません」

マスターが笑う。子供のようにあどけない。つられて、カイトのくちびるが緩んだ。

そのくちびるを、マスターの指がたどる。ほっそりしていて硬く、少し冷たい指。

この指に撫でられるのが好きだ。

「わからなくていいから覚えておけ。俺に必要なのはおまえだけだ。いちばんに愛するのもおまえだけ。そしておまえのこれからにはパートナーが必要だ。おまえに必要なものだから俺はおまえのパートナーにも愛を注ぐ。なによりおまえを愛するものだから」

「…」

マスターの口調には迷いがない。

揺らがない指針があるなら、カイトがそれに従うことに否やはない。

だから頷いた。迷いなく微笑んで。

マスターはカイトの頬をひと撫でし、手を下ろした。胸の上で組み、大きな息を吐く。

「うたえカイト。俺のために」

「はい、マスター」

尊大に命じられて、カイトの笑みがこころから幸福に染まった。

マスターのためにうたうこと。

マスターが自分のうたを望んでくれること。

カイトにとって、それ以上の悦びなどない。

なにをうたおうか。

選曲しながら、ふと気がついた。

そういえば。

「マスター旦那様のお名前はなんというんですか?」

訊くと、マスターは小さく笑った。

「がくぽ。神威がくぽ」