帰って来たマスターの手には、大きなドーナツの箱が提げられていた。

玄関に出迎えたカイトとがくぽへと、輝いているとしか言えない笑顔で、戦利品を掲げて見せる。

得意満面の笑みを浮かべた夷冴沙はもはや、実年齢を知っているものですら、おまえもう学生で押し通していいじゃねえか、と説得したくなるほどに幼かった。

うちのおとーとは、ちょっとよくばりんぼです。

「お土産なのだ、カイト、がくぽ。よい子に留守番していたか?」

「訊く順番が逆じゃないかえ、いち」

夷冴沙の後ろで、鞄を持った餌儀が呆れたように腐す。

「よい子に留守番していたって言ったら、初めてお土産を渡すもんだろう」

「いちはなにがなんでもお土産を渡したいのだ。ゆえにわるいこにしていたと答えても渡す。で、カイト、がくぽ……」

きらきら輝く笑顔で見上げられ、カイトは苦笑した。後ろに立つがくぽは、にっこり無邪気に笑って頷く。

「いい子にしていました、ね、兄様!」

「うん。俺たちはいい子にしていましたけど………マスター、お財布は持ってますか?」

「んぬ?」

ドーナツの箱を受け取りつつ訊かれ、夷冴沙は後ろを振り返った。カイトの視線も流れ、餌儀は手に持った夷冴沙の鞄を掲げて見せる。

「駅で会ってね。どうにか財布も定期もケータイも無事だ」

「ならばいいです。心置きなく、ドーナツを楽しみます」

「んぬぬ?」

間に挟まれた夷冴沙が、わからぬげな顔で首を捻る。

夷冴沙は忘れ物と落し物の大魔王だった。どこかで鞄から財布を出して使ったなら、忘れてくる可能性は跳ね上がる。

そうとなったら、せっかくのドーナツのおいしさが激減してしまう。

にっこり笑ったカイトに、答えた餌儀が苦笑した。

「苦労おしだね、カイト」

「餌儀さんほどではありません。あ、がくぽ……」

「はい、兄様。すぐにお茶を淹れます!」

「うん、お願い」

後ろを振り返ったカイトに、がくぽは笑顔で答えて踵を返す。

この家において、お茶を淹れるのはがくぽの役目と決まっていた。それ以外の台所仕事は一切しないが、とりあえず淹れるお茶は絶品だ。

「マスター、餌儀さんも。お茶が入るまでに着替えてきてください。あ、マスター、着替えはベッドの上に出してあります。今日の服はすぐには洗濯しませんから、脱いだらハンガーに掛けます。着替えが終わった頃に伺いますから、放り出しておいてください」

きびきび言うカイトに、餌儀はますます苦笑した。ここらへんの対応の淀みのなさに、これまでの苦労が知れる。

同居人である餌儀もなにくれとなく世話を見たものの、カイトがここまでしっかり者になったのは、なにはともあれ、度重なる苦労の成果だ。

夷冴沙はわずかに仰け反り、足を後ろに引いた。

「ぅぬぬ。カイトはしっかり者なのだ………」

「おまえもマスターならしっかりおし、いち」

感心したように呻く夷冴沙の頭を撫でた餌儀に、踵を返しかけていたカイトが厳しい顔で振り向いた。

「だめです、餌儀さん。下手にしっかりしようなんて志すと、被害が拡大します。出来ないことは出来ないままでいいですから、自分が出来ないということだけ、自覚してください」

「………」

きっぱり言い切って部屋に入っていくカイトを見送り、餌儀は頭二つ分ほどは小さい夷冴沙を見下ろした。

その美貌が、複雑に歪む。

「…………それでもおまえ、ちょいと反省くらいはおしよ、いち。カイトのあのしっかり者ぶりは、いくらなんでも不憫だ。おまえは弟じゃなくて、マスターなんだし」

「ぅぬぬ………はーんせーい」

玄関に沈みこみそうになっている夷冴沙に、餌儀はため息をこぼす。靴を脱ぐと、深々している夷冴沙の腰を抱えて、家へと上がった。

お茶が入るまでに着替え終わらないと、今度はカイトに着替えを手伝わせる羽目になる。不憫過ぎて涙ものだ。

***

家族がリビングに集まったところで、カイトはテーブルに置いておいたドーナツの箱を開けた。中にはとりどりのドーナツが、ぎっしりと詰まっている。

「ぅっわあ、いっぱい買いましたね、マスター」

「うむ。ちょうど駅前のドーナツ屋がセールだったのだ。セールのドーナツ屋に寄らぬ理由が見当たらぬ」

夷冴沙は胸を張って答える。

その夷冴沙の前にお茶のカップを置いたがくぽは、兄が開いた箱を覗きこみ、頷く。

「全部、二個ずつなんですね」

「うむ。四個ずつ買うかどうしようか悩んだのだが、それだと種類が買えないからな………。いちの苦渋の決断だ」

「ほんっとーに、お悩みだったわな………」

その買い物に付き合わされた餌儀がぼやく。置かれたお茶のカップを取り、口をつけて微笑んだ。

我が儘で甘ったれの、この家における末っ子扱いのがくぽだが、淹れるお茶は絶品だ。彼の淹れたお茶を飲むともう、自分で淹れる気が起きない。

その我が儘甘ったれのがくぽは、ソファに座るカイトの横に、当然のように座った。

「でも種類があると、それはそれで悩みますよ………。マスターはなに食べますか?」

訊かれて、お茶を飲もうとしていた夷冴沙は笑った。

「おまえたちから選ぶといい。いちはいちばん最後の、残り物でいいのだ。それが家長というものだ」

「頼りがいのある家長だわな」

思わず腐してから、餌儀は視線が移ったカイトとがくぽへ笑いかけた。桁外れの美貌の持ち主だ。普通に笑っているだけなのだが、逆らい難い迫力がある。

「こういうのはね、家の下の子から取ってくもんだって、相場が決まってるんだよ。おまえたちからお選び」

「ええー。ほんっとに悩むんですけど………」

言葉は困っているが、カイトの口調は弾んでうれしそうだ。とりどりのドーナツがぎっしり詰まった箱を眺め、無邪気に笑う。

「夕飯前だし、全部は無理だもんね………がくぽはなに食べたい?」

振り返ったカイトに、がくぽはにっこりと笑った。

「兄様とおんなじものが食べたいです!」

「もぉ…」

まったく参考にならない答えだが、これはいつものことだ。

おにぃちゃん大好きっ子のがくぽは、自分が好きなものより、「兄と同じもの」に価値を見出す。カイトと同じであることが、なにより優先されるのだ。

カイトは苦笑して、箱に目を戻した。真剣に悩んでいるのだが、その顔は楽しい悩みに、綻びがちだ。

「ん、んんーっ。ん、これ!」

さんざん迷って悩んだ末に、間にクリームが挟まれた、エンゼルフレンチを選んだ。

「はい、がくぽも」

「ありがとうございます、兄様」

もうひとつを取って渡してやったカイトに、がくぽはうれしそうに笑う。

ふたりはにっこり笑い合ってから、楽しそうに眺めていた夷冴沙と餌儀を見やった。

「「いただきます、マスター」」

「うむ。よく食え」

マスターの言葉とともに、ふたりはドーナツにかぶりつく。

「ふわ、おいしいっ」

カイトは笑み崩れると、もう一口かぶりついた。

そうでなくてもおいしいドーナツだが、作り立ては格別だ。外はさっくりしていて、中はしっとりしている。

ありきたりな表現だが、どうしてありきたりな表現が生き続けるかわかる、裏切られることのないおいしさだ。

「んぁ…………はれ?」

さらにもう一口食べようとして、カイトは止まった。

傍らの弟が、やけに静かだ。おいしいものを食べているときには、カイトと同じかそれ以上に、はしゃぎまわる弟だというのに。

顔を向けたカイトを、がくぽはじーっと見つめていた。

「がくぽ?」

きょとんと首を傾げたカイトに、がくぽはぼんやりしたまま、つぶやく。

「にーさまのほーが……………おいしそー……………」

「がくぽ…………」

羨ましそうな響きに、カイトは苦笑した。

同じ店の、同じドーナツだ。これが違うドーナツを選んだというならまだ、がくぽの主張もわかるが。

「もぉ…」

おにぃちゃんが持っているものはなんでもよく見える弟に、カイトは困ったように眉を下げる。理屈ではない分、難しい問題だ。

そのカイトに、がくぽは顔を寄せた。舌が伸びて、ぺろりと口の端を舐める。

「が、がくぽっ?!」

ぎょっとして身を引くカイトに、がくぽはにっこり笑った。

「クリームついてました」

「え、わっ」

今度は恥ずかしさに慌てる兄に、がくぽは明るく笑う。

それからまじめな顔になると、納得したように頷いた。

「やっぱり、兄様のほうがおいしいです」

「がくぽ……」

「おとーとの宿業だな」

夷冴沙がつぶやく。恨めしそうに餌儀を見たが、餌儀はあさってなほうを向いてドーナツにかぶりつき、決して夷冴沙を見なかった。

見たら負けだ。いろいろと。

どれほど大事に思っていても、応えられるものと応えられないものとは、どうしてもある。

「もぉ……」

カイトは困ったように、肩を落とす。

再三言うように、同じ店の同じドーナツだ。カイトのほうがおいしいとか、そんなわけはない。

しかしこうなると、がくぽは頑固だ。

なにしろ家の教育方針として、弟たるもの、兄には我が儘放題するものだ、と躾けられている。

カイトは自分の食べ差しと、がくぽの食べ差しを見比べた。

がくぽはひと口で止まってしまったが、カイトは二口食べた。結構大きくかぶりついたから、その大きさにはずいぶんと差がある。

つまり、取り替えろ、と暗に求められているのだが、この大きさの差は、少し躊躇う。それこそ、不利な取引だ。

大きさの問題ではなく、兄のものが欲しい、という主張だとわかってはいるが、それでも悩む。

「ぅー……もぉ…………」

「兄様」

さらに強請られて、カイトは困ってがくぽを見つめる。その瞳が、わずかに見張られた。

顔が自然と寄って、がくぽのくちびるへと舌が伸びる。

「にい、さま?!」

ぺろりと舐められて、がくぽは瞳を見張った。

カイトはにっこり、うれしそうに笑う。

「がくぽだって、クリームつけてる」

「え、わっ」

今度はがくぽが慌てる。

慌てる弟に笑って、カイトはやれやれと思い切った。

仕方がない。

我が儘で甘ったれでも、前提にはおにぃちゃん大好きっ子がいる。

「がくぽ」

「はい、わっ?」

カイトは口を大きく開けて、がくぽが手に持ったドーナツにかぶりついた。大きくひと口かじり取ってやって、離れる。

「え、兄様?!」

きょとんとするがくぽに、カイトは口の中のものを飲みこんで、にっこり笑った。

「おんなじ」

「え?」

「おにぃちゃんのとおんなじ。だから、おとなしく食べなさい」

「……」

「おや、たくましい。これぞおにぃちゃんってもんだわな」

餌儀がぼそりとつぶやいた。夷冴沙を見下ろすと、ため息をつく。

無心にドーナツを食べる姿は、学生以前に、小動物にしか見えない。

がくぽは呆然と兄を見た。

カイトは持っていた自分のドーナツにかぶりつき、さっさと食べきってしまう。

「兄様」

「食べないのいらないなら、おにぃちゃんが食べちゃうよ?」

「え……」

がくぽは自分の手に持ったドーナツと、笑うカイトとを見比べる。

カイトは笑ったまま顔を寄せ、がくぽのドーナツにかぶりついた。