時計とにらめっこしても、電車の速度は変わらない。歩く速度は上げても、テレポートは出来ないから、道は道なりに進むしかない。

道をぱたぱたと折り畳んで家までの距離を縮められればいいが、お伽噺やSFでもない現実に、そんな技は存在しない。

ひたすらに、夕暮れも過ぎて暗くなった道を道なりに。

それでも可能な限り飛ばして家へと帰りつき、がくぽは玄関の扉を開いた。

うちのおとーとは、とってもやんちゃです。

「只今帰っ……」

「にーにっっ!!」

がくぽが皆まで言うより早く、リビングから駆けだして来た弟が、勢いを緩めることなく抱きついてきた。

「おかえりっ、にーにっ!!」

「ああ、ただい……んっ」

満面の笑みを浮かべた弟――カイトは、抱きついた勢いままに伸び上がると、がくぽの頬にちゅっと音を立ててキスをする。

がくぽからすると照れ臭い習慣なのだが、どうもカイトにはデフォルトで挨拶のキスがインプットされていたらしい。マスターに買われて家にやって来た日からずっと、挨拶とキスはセットだ。

「かい………んっ」

「にーにっ、にーにっvv」

がくぽに口を開く暇を与えず、カイトはもう片方の頬にもキスをする。

「ぁは、にーにだぁっvvv」

「あー………」

いかにも『にーに』だ。

設定年齢を考えるとあまりに無邪気に、カイトはがくぽに擦りつき、キス攻めにする。言葉を挟む隙がさっぱりない。

がくぽより後に買われてこの家にやって来たことで、『弟』として扱われているカイトは、どうも『兄』とマスターとで甘やかし過ぎたらしい。

年齢からすると相当に言動が幼く、ひどく無邪気だ。

――かわいいんだから仕様がないだろう!

とマスターはあっさり開き直ったが、それもどうかと思う。

確かにカイトはかわいいと思うが、年端もいかない子供ではない。あまりに無邪気だと、今後が苦労しそうで気が気ではない。

いくら大好きな兄相手であっても、こうもキス攻めにするのが普通になっているとか、どうなのだ。

「か……んんっ」

「にーに、にーにっ!」

雨あられと与えられるキスに、がくぽは言葉を諦めた。

一度肩を落としてから、大きな手でがっしりとカイトの頭を掴んで押さえこむ。

「に、にーにっ?!」

押さえこまれて引き離され、カイトがおたおたともがく。がくぽが使っているのは片手だけなのだが、そもそもの膂力が違う。

カイトが両手で掴んでも、びくともしない。

「にーに……」

「只今帰った、カイト」

狼狽える弟の頭を掴んで押しとどめたまま、がくぽは言葉を吐き出した。

「良い子にしていたか留守の間に変わったことなどなかったかおやつを食べ過ぎたりしておらぬだろうな?」

キスで止められた問いを、矢継ぎ早に吐き出す。

手の下で、カイトはぷくっと頬を膨らませた。

「なにそれ、にーにひとのこと、いくつだと思ってるわけそこまで言われるほど、子供じゃないんだけど!」

「そうかそうか。それで良い子にしていたのか?」

おざなりに頷き、がくぽは重ねて訊く。

子供じゃない、と言いつつ、あまりに子供っぽく頬を膨らませていたカイトだったが、そのくちびるが綻んだ。

ちろりと舌が覗く。

「おーむね♪」

「概ねか………」

カイトの頭を押さえつける手から、わずかに力が抜ける。

どこか諦念を持って吐き出された兄の言葉に、カイトはくちびるを吊り上げて、チェシャ猫のように笑った。

「泣くほどじゃないからだいじょーぶだよ、にーに。ちゃんと手加減したし!」

力強く請け合ってくれるが、そもそも『手加減』とはなにをして、なにに対する『手加減』なのか。

「やれやれ」

「んっ」

がくぽは苦笑いすると、掴んだままだったカイトの頭を少し乱暴に撫で回した。

ゆさゆさと素直に揺れたカイトから手を離すと、手早くブーツを脱ぐ。

「んんー」

ようやく家に上がると、揺さぶられた反動でふらつくカイトを抱え上げ、腕に乗せた。

「誰か訪問して来たり、おかしなものが届いたりはしておらぬか?」

「うん。誰も来なかった。も、すっごくつまんない」

「にーにはまったくつまらなくないがな」

大人しく首に腕を回して凭れてくるカイトに、がくぽは苦笑いをこぼす。

カイトが飛び出して来たリビングに入ったがくぽは、一度立ち止まった。

成程、手加減。手加減――手加減?

『手加減』という言葉の意味を検索しつつ、すっかり模様替え済のそこに入り、がくぽは部屋の中を見回した。

真っ白い壁面に、掲げられた大きな白い布。

窓のある一面を除いた三方に掲げられた布には、それぞれ絵具で、『芸術』としか評し得ないものが描かれている。

ピカソはあれでいて、計算のうえにデッサンを崩していたし、ダリにしてもそれなりに考えがあって絵を配置していた。

だからなにを描いたのかすら説明出来ないものが部屋の壁を彩っていても、一概に落書きとは言えない。

「なにを描いたんだ?」

念のために訊いたがくぽに、カイトはひとつひとつの絵を指し示していった。

「キムドオオゴランとムガプエブベベ。あっちはアブランサーマルがクリゴルロってるとこ。んで、ダッギィドゥムの全内謀」

「…」

なにを描いたのか、説明されても理解できないものが部屋の壁を彩っていた。しかし説明できるということは、落書きではないと言い切っていいだろう、おそらく。

がくぽは軽く天を仰いでから、床に座りこんだ。

普段は座椅子に座るのだが、リビングの隅でなにか、前衛的なオブジェの一角を担っているので、カイトを抱えている現状では崩して持ってくることは不可能だ。

カイトはボーカロイド、うたうたうもののはずなのに、どうにも造形方面に才能が発揮される傾向にある。

兄ばかなことを考えつつ、がくぽはカイトを膝に下ろした。

「マスターは?」

そこまで来てようやく訊いたカイトに、がくぽは苦笑する。帰宅したのは兄ひとりで、共に出掛けたマスターがいないことに、ようやく気がついたらしい。

「納品が明日だからな。今日は泊まりこみだと言っていた」

「ふぅん……」

つまらなそうに鼻を鳴らし、カイトはすりりとがくぽに擦りついた。がくぽはそんな弟の頭を、やわらかに撫でる。

マスター不在は、カイトにとってはそれなりに不安なことなのだろう。いくらがくぽを兄として慕い、頼みにしていても、それはそれで、これはこれだ。

ロイドに対して、『マスター』が与える安心感は、他に変えられない。

「のーひん、大変なの?」

「一部、発注ミスがあったり金額の計算ミスがあったらしい。いろいろ重なって、今回は大変なようだ」

「ふぅん……」

またしてもつまらなそうに、カイトは鼻を鳴らす。

がくぽはひたすらに、擦りつくカイトの頭を撫でた。

そもそも今日、がくぽが出かけたのも、ミスが重なっててんてこまいとなったマスターの仕事を手伝うためだった。一応補記しておくと、ミスを重ねたのはマスターではない。彼女の上司だ。

がくぽはうたうたうもの、ボーカロイドだが、同時に情報処理能力の高さも売りにしている。うたとはまったく関係ない仕事であっても、十分に『ねこの手』となれるのだ。

――いやむしろ、貴様らがねこの手だ、野郎ども!!経験のない私のロイドに処理能力で劣るなど、ケツにぶち込まれて人体改造されたいか、このメス○タ予備軍っ!!

「……」

女性でありながら、セクハラとしか言えない言葉で職場の男性陣を罵り倒していたマスターを思い出し、がくぽはほんの少しだけ遠い目になった。

終業時刻になっても、仕事のてんてこまいさは変わらなかった。誰一人として、帰宅の途に着けない。

それでも、家にひとり留守番で残してきたカイトが心配だから帰れ、と命じたマスターは、がくぽがオフィスを出る最後の最後の瞬間まで、聞くに堪えない卑猥な罵倒で上司や先輩に発破をかけていた。

女性だ。

――納品が迫っていて、追い込まれてさえいなければ、普段はそこまで破壊的な言葉を使わない。

馬脚がとかなんとか、それ以前に上司や先輩にその言葉遣いでいいのかとか、言いたいことは山ほどあるが、なんだかんだで仕事は続いている。

なにより未だに現役で、総務を取り仕切る社長の祖母が、『女の子なのに遅くまで残してかわいそうだけど、すみちゃんがいるといないとじゃ、納品の質におっきな差があるのよ』と、マスターの肩を持っている。

さらに言うと、社長が罵られながら、わりと歓んでいる節が。

「……」

それ以上は考えないようにしようと頭を振ったがくぽの顎に、胸に凭れたカイトが額をぶつけてきた。

「マスター、げんきだった?」

「……………とても」

そう言う以外に、言葉もない。

「……カイトは、元気だったか?」

訊いたがくぽに、カイトは拗ねた瞳を向けた。

「見てわかんない?」

「…」

壁の三方を覆う、巨大な布絵。

リビングのあちこちに、家具を組み合わせて造られた、立体的かつ複雑を極めた前衛的なオブジェ。

物凄く充実していたように見える。

しかしもちろん、そんなわけがない。

「………寂しかったか」

「つまんなかったの!」

「よしよし」

どん、と胸を叩いたカイトに、がくぽは笑う。宥めるように、大きな手で頭を撫でてやった。

「けれど、カイト。おまえも子供ではないと言うなら……」

「にーにとマスターだけ、お出かけして仕事だとしても、カイトのことひとりぼっちで置いてって確かにカイトは、にーにみたいに仕事出来ないし、邪魔だけど!!」

悔しそうに吐き出される言葉に、がくぽはカイトを抱きしめた。幼児にするように、ぽんぽんと背中を叩いてあやす。

「邪魔なことなどない。キミコさんが言っていた。今度はおまえも連れて来いと。おまえがいると、みんな仕事が捗っていいそうだ」

「…」

カイトはくちびるを噛んで俯く。

がくぽは辛抱強く、拗ねている弟の頭を撫で続けた。

正確には、キミコ――社長の祖母である老婦人が言っていたことは、少し違う。

――あのかわいい子がいると、みんな、どうにかして遊ぶ時間をつくりたいのね。遊んでいても文句を言わせないためにか、いつもよりしゃきしゃきと仕事をするの。私もあの子大好き。ぶらぶらしていてくれるだけで、和むわ。

マスターと同じ女性なのだが、遥かに上品で、かつ穏やかに言った彼女は、社員全員から『おばあちゃん』として慕われている。

彼女が穏やかに微笑んでそう言うと、社交辞令でもお世辞でもなく、本心からそうなのだろうと、素直に信じることが出来た。

「………きみちゃん、げんき?」

「ああ。元気だ。おまえに会いたがっていた」

「…」

穏やかに言うがくぽに、カイトはぷくっと頬を膨らませて擦りついた。

社員全員が懐いているキミコには、もれなくカイトも懐いている。よくわからないのだが、妙にフィーリングが合うのだとかなんとか。

「やっぱりずるい………」

「やれやれ…」

どうにも機嫌を直しそうにない弟に、がくぽは肩を竦めた。擦りつく頭を掴んで起こすと、こつんと額と額を合わせる。

「そうやっていつまでも駄々を捏ねている子には、おみやげも褒美もやらんぞ?」

「…」

恨めしげな視線を投げるカイトに笑い、がくぽはふくれる頬にキスを落とした。

挨拶のキスなどインプットされていないがくぽにはひたすら気恥ずかしい行為だが、愛らしい弟に慰めのくちびるを与えることは、嫌いではなかった。

なによりカイトの肌は、滑らかで触り心地がいい。

指で触れることも、くちびるで触れることも、どちらもひどく気持ちがよかった。

「さあ、どうする?」

「ん…っ」

はむ、とそのまま頬を食んで訊くと、カイトはようやく笑い、がくぽの首に腕を回した。ぎゅっとしがみつき、顔をすり寄せる。

「にーにのキスが、いちばんのおみやげでごほーびだもん他はいらない!!」