B.Y.L.M.-ExtraEdition
前編-狼ノ牙ヲナラスモノ
まだそこまで暑さの厳しくない季節だというのに、汗みずくとなった男が顔を上げる。ひそめられていた眉が開き、花色の瞳が和んでカイトを映した。
くちびるが綻び、晴れた朝を彩る声が流れ出る。
「おはようございます、カイト様」
「ああ、おはよう、がくぽ」
夜の夫より低くとも、昼の夫の声は明るい。ここ最近は長年の鬱屈が晴れたせいか、なおさらだ。日が昇ったばかり、起き抜けであるとは思えないほど力に満ちて、弾む。
釣られて笑みを咲きこぼし、カイトは寝台脇に跪く夫へ手を伸ばした。
「おかえり、愛しき私の夫」
「かぃ…っ」
がくぽは汗みずくだ。暑さの厳しくない季節、時間帯だというのに、全身がぐっしょりと濡れている。
早朝、日が昇ったばかりだ。
諸事情あって『呪われた身』であるがくぽは、日の出と日の入りを境に、ふたつの姿を行き来する。そして今は日が昇ったばかりであり、ちょうど、昼の姿へと変容を終えたばかりだった。
相応に負担のかかるそれの結果としてだが、とにかくがくぽは全身濡れそぼっている。それもただ水を被ったというのではなく、汗だ。
変容のために一糸もまとわぬ姿であったのだから、きれいに漲る筋肉を流れる水滴が、カイトに見えないはずもない。
それでも構わず、カイトは夫へ手を伸ばし、首にかけて抱きつく。
騎士としてよく鍛えた夫は、どういった体勢であれ揺らぐこともなく受け止めるのが常だが、このときは焦りもあって少しばかり揺らいだ。
だからといって大過に至るわけでもなく、すぐと割りきって――あるいは諦めて、カイトを受け止めてくれる。
「ふふっ!」
「やれやれ……」
堪えきれず笑い、うれしげに擦りつくカイトに、がくぽは軽く、天を仰いだ。受け止めた体をやわらかな動きで持ち上げ、寝台へ転がす。
大きな衝撃を与えられたわけではないが、姿勢の変転とともに思考も軽く回り、カイトの腕が緩んだ。
その隙を縫ってがくぽは顔を寄せ、カイトのくちびるを塞ぐ。
「ん、んん……っ、ぅ、は、ぁくっ、ん………っ」
朝の挨拶といった爽やかさや清々しさとは程遠く、前戯に等しいほどの濃厚さと激しさとでがくぽはカイトのくちびるを貪る。
絡め上げられた舌が、根が痛むほどきつく吸われ、甘く食まれた。一度は緩んだカイトの腕に力が戻り、夫に縋って、またあえなく崩れ落ちる――
「ぁ、はぁ……っ」
寝台にくったりと沈みこんだカイトを眺め、青年は過ぎ越した美貌の威力を遺憾なく、にっこりと艶やかに笑った。
朱を塗らずとも紅く濡れるくちびるが、しらりと開く。
「まあ、私は未だ全裸で、つまりなにも着ていない。汗を拭う暇すら与えられなかったわけですが、都合が良いということにしましょう。どうせあなただって、着替えのために一度は脱ぐわけですしね?」
「ど、ぅせ……、てっ……」
根が痛むほど吸われ尽くしたカイトの舌は、与えられた快楽に痺れる体と同じかより以上に、ろくな働きをしなかった。放っておくと好き放題に舌禍を振りまく夫を止めようにも、役を果たさない。
仕方なく潤む瞳で睨み上げたカイトへ、伸し掛かっていたがくぽが軽く、眉を上げた。意想外を示す表情だ。
しかしすぐにまた、笑う。ただし今度は、茶化す色がない。完全に朝ではない、どろりと蕩けた色香が乾ききらない汗とともにカイトへ滴った。
「ぁ………」
びくりと竦みながらも目が離せなくなったカイトへ、がくぽは手を伸ばした。
「確かに私はずいぶん年嵩なわけですが――最愛の妻にこう歓迎されて、なにも覚えずにおられるほど枯れたつもりもありませんね。ましてや応えもせずにおくなど、そちらのほうが無理難題もいいところだ」
まるで薄めない蜜をのどに流しこんだときのような熱が、カイトの肌という肌に灯り、炙って灼いた。花として咲き開いたことで意味を変え、思うままに動かなくなった足が揺らめき、伸し掛かるがくぽへ甘えるように擦りつく。
そのさまをちらりと見やって青年の笑みはますます深くなり、伸びた手がカイトの寝間着にかかった。
通気性と脱ぎ着のしやすさを追及してつくられているのが、過酷な暑さに生きる南方の衣装だ。寝間着ももちろん例外ではなく、軽く指を引っかけただけで容易く着崩れる。
夜の夫を『見送る』ために起き上がったとき、寝乱れていたそれをきれいに整え直したというのに、がくぽはあえなく指先ひとつで乱し――
「………がくぽ?」
しかしどういうわけか、がくぽは非常に渋い顔となって動きを止めた。しかも長い。束の間や一瞬のことではなく、とうとう焦れたカイトが声を上げるほどには。
募っていた熱も微妙に落ち着き、対して案じる色が混ざったカイトの呼びかけに、昼の夫はようやく意識を取り戻した。
はっと花色の瞳を見張り、また歪み、そしてはあと、隠しもしないため息をこぼす。
次いで表情はようやくいつものやわらかさを取り戻し、けれど苦い色は含んだまま、じっと見つめるカイトへ笑いかけた。
「『夜』には私から、よくよくと言って聞かせましょう………それで贖罪となるとは、思いませんが」
「え?」
表情はどうにか笑ませたものの、昼の夫の声はひたすら低く、冷たかった。
とはいえ突然の豹変の理由が、カイトにはまったくわからない。
そう、『まったくわからない』と素直に戸惑うカイトへ、がくぽは首を傾げた。ただし、不明を重ねたわけではない。そうやってとんとんと、刺青を示した。否、首筋を強調してみせた。
「咬み痕です。まさか、痛くないんですか?」
「あ……」
そこまで言われてようやく思い至り、カイトは瞳を見張った。その途端、首にずくりと痛みが走る。
――まさかだ。痛くなかった。少なくとも今の今、がくぽに指摘されるまでは。
カイトの首筋、より正確に言えば、付け根のあたりだ。そこにはおそらく、昨夜の情交痕が刻まれている。
ただし、情交痕とはいえ痣ではない。がくぽの言ったとおり、咬み痕だ。それも甘噛みという段階をはるかに超え、ずいぶんくっきりと刻まれた。
夜の、少年期の夫の癖だ。極まる寸前、あるいは瞬間に、相手に咬みつく――
もちろん毎回のことではないし、力の強弱も違う。
が、とにかく昼の夫のこの様子を見るだに、昨夜の痕はさすがに看過しきれないほどのものらしい。
「最前からどうかと思っていたんですが……御身にこれほどの傷を刻むとは、いかになんでも過ぎ越している。野生の獣でもあるまいに、情交のごとに傷つけるようなまねは…」
「………」
がくぽの物言いは続いていたが、カイトの表情は瞬間、堪えきれず生温い笑みに歪んだ。
つまり、つけつけと吐きだす夫だ。おそらく滅多になく苛立って余裕を失っていると思われる青年が、取り繕いを忘れてカイトを指した言葉だ。『御身』と。
カイトは妻だ――もはやがくぽに剣を授けた主ではなく、妻なのだ。そしてがくぽは夫だ。
婚姻の当初ならともかく、相応の月日を過ごし、今や想いも通じ合った仲であるというのに、であってもこれだ。未だこうだ。
過ぎ越しているというならまず、この扱いをこそ、どうにかならないものか。
――といったふうに束の間、カイトのこころ持ちはななめにずれた。
気がつけばすっかり体を離した昼の夫が、ひどく胡乱な目でカイトを見下ろしていた。
「あの、カイト様?念のためにお訊きしておきますが、――まさかそういった趣向を好まれる?」
ほとんど必要ないが念のために補記しておけば、『そういった』というのは、情交中に痛めつけられるのを好む、被虐の傾向があるのかと、そういうことだ。
どうやら油断し過ぎた。すっかり上の空で聞き流していたのが、あまりにあからさまだったらしい。
とはいえ、それでかけてくる疑惑だ。しかもこう言っては難だが、がくぽは若干、引き気味ですらある。
それこそ、昼の夫だ。おまえがやれた義理かという。
夜の夫は確かに極まると首を咬むが、それだけだ。気難しい年頃のせいもあって不器用な、ぶっきらぼうな言動を取るが、根のやさしさが常に透けて見える。
対する昼の夫だ。態度こそものやわらかだが、昼の夫こそ、端々の言動に隠しきれない嗜虐傾向が垣間見える。それでよくもまあ、ひとに対してこういう態度を取れるという話だ。しかも『冤罪』でだ。
いろいろ相俟った結果、カイトは夫に向かい、にっこりと笑って返した。
「すまない、がくぽ。すべて聞き流した。もう一度言ってくれ」
「……っ」
瞬間、がくぽは思いきり足を引き、仰け反った。逃げたのだ。途中で思い止まりはしたが。
以前あった翼が今ももしあったなら、毛羽立って羽ばたいたことだろう。どちらであっても理由は変わらない。逃げだ。
騎士たるもの、そうそう簡単に逃げてただで済むと思うなというのが、今のカイトの感想の主なところだが、表情は笑みだ。笑みとしか言えない、笑みだ。穏やかながら、なぜかとても力強い。
なにより、言い返したことだ。悪びれないにもほどがある。しかしとにかくカイトの態度は堂々として、立派なものだった。
そうやって場を凍らせ、夫婦で見合うこと、しばらく――
「……痛いのは、お嫌いですよね?」
おそるおそるといった風情で、がくぽが訊いた。
懲りないなとは思いつつも、カイトもこれには素直に頷く。
「基本、好まない」
きっぱりとした物言いに、がくぽの肩から力が抜けた。気を変えるためだろう、軽く頭を掻き、ふと思いついた顔を上げる。
「♪」
「っ」
唐突にこぼれたうたが――うたに聴こえる韻律の言葉とともに、水を含んだ風が巻き上がり、カイトとがくぽの全身を撫で、去っていった。
あとに残るのは、汗を拭われてさっぱりと乾いた、気持ちの良い体だ。同時にすべてのことが気持ちよく、さっぱりと――
「とにかく『夜』には気をつけるよう、伝えます。『王の花』たるあなたの回復力は高いが、いつまでもそれ頼みで甘えているわけにもいきますまい」
寝台を離れ、汗を流した体に手早く衣服をまといながら、がくぽはきびきびと言う。どうやらカイトの落とした鉄槌からはすっかり立ち直ったし、もうひとつ言うなら、憤激からも気持ちがずれたようだ。
夫の様子を見て取って、カイトは小さく息をついた。
どうにかやり過ごせた――
先に、つい、ななめ方向へ思考をずらしてしまったが、つまり、未だに夫は夫である以前に、カイトの騎士なのだ。それも偏向と傾倒著しい忠誠を捧げる、非常に扱いにくい。
なにしろ思い余った挙句、主君であるはずの身を妻とまで成した。
そう、まずは思い余るような忠誠であるということだ。そのうえで、同性であることも構わず主たる身を『妻』と成そうと考えるという。否、ここの判断はどうも、性差の曖昧な南方人としての気質が関係したようだが――
とにかく偏向と傾倒だ。
偏向と傾倒が過ぎた結果、がくぽのやることなすこと、突飛に過ぎて、カイトにはまるで理解が及ばない。意味がわからない。次の予測も、まったくもって立たない。
反応ひとつ、返答のひとつを間違えるだけで、なんでもないはずのことが大いにこじれる。
その難局もどうにか乗り越えられたようだが、せっかくいい雰囲気であったというのに、朝からひと仕事させられたということになる。
そうなると、なんとも思っていなかった首の咬み痕が、少しばかり恨めしくもなってくる。
見えないことはわかっていても、カイトは袷に手をやって隙間を広げ、首を傾けた。
が、案の定で、見えない。
指摘された当初こそ痛みを覚えもしたが、今はもう、さほどでもない。そういう位置だし、範囲だし、程度だ。
自らの着替えを終えたがくぽが、カイトの着替えを持って戻って来る。見上げて、カイトは首を晒すようにした。
「そうまで酷いのか?」
「塞がりかけではありますがね。言ったでしょう、あなたは回復力が高い。けれど一晩経ってすら、治りきっていない――それを『自分』がやったのだと思えば、一瞬で萎える」
「………」
カイトは寝間着を脱ぐしぐさに紛らわせ、さりげなくがくぽから目を逸らした。
偏向と傾倒著しい騎士だからということに限らない。こういった話題についてはへたに掘り下げないほうがいいというのは、すべての男に共通する認識だ。
がくぽといえば、カイトを着替えさせることに意識の主がいっている。会話は続けても、さほど深く考える様子はなく、しかし小さなため息はこぼした。
「私は癒しの術は修めていないわけですし、ことが起こってからでは遅い。今日の幸いが明日も続くなど、……なんです?」
ぼやいていたがくぽだが、きょとんと瞬いたカイトに目ざとく反応し、こちらもきょとんと花色の瞳を瞬かせて返してきた。
着替えを受け取りつつ、カイトは軽く、首を振る。横だ。ただし否定ではなく、意想外を表す。
「いや、……おまえのようなものには、それこそ必須の術である気がするのだがな。まったく修めていないのか?最前、私が飢餓であったというとき、癒してくれたのはおまえのはずだが、あれとは違う話なのか?」
問いを重ねたカイトへ、がくぽはまねではなくきょとんとして、花色の瞳を瞬かせた。
「いえ、カイト様?だって私、半日耐えれば、『治り』ますから」
「あ…」
言われて思い出し、カイトは羞恥でひと息に体を火照らせた。
そうだった。がくぽは半日経てば、どんな傷でも癒えてしまうのだった。否、正確に言えば、『癒える』というのとは、少し違うのだが。
くり返すが、がくぽは『呪われた身』であり、日の出と日の入り、昼と夜とで姿を変える。
それはお伽噺のように、煙に巻かれているうちになんだか済むというものではない。まさに肉をこね、骨を伸ばして縮めてとやられるものだ。
当然、その間の痛みたるや想像を絶するほどのものだが、唯一の恩恵とでも言えるものが、だからこれだった。
その以前に負っていた傷も諸共にこね、埋めてしまうのだ。たとえ瀕死の傷であろうとなかったものとして、傷痕すら残さない。
――死にさえしなければ、なんとでもなります。とにかく半日、持たせれば。
よく言っていたというのに、だから結果、後先を考えない無謀な戦い方をするのかと頭を痛めたというのに、まさか失念した。
迂闊という言葉では、とても間に合わないほどの失態だ。
身が竦むような思いをしているカイトにも構わず、昼の青年は端然と続けた。
「それに最前、あなたが飢餓であったときには単に、『食べさせた』だけのことですから。空腹を埋めただけの話で、癒したというのとは、違うでしょう」
「ぅ………」
こちらもこちらで言われてみればもっともで、しかも『だけ』とはいえ、カイトが『食べた』ものと、その量だ――
ますますもって身が竦むカイトに、昼の青年はやわらかく微笑んだ。着替えも止まってしまった妻へ手を伸ばし、途中の衣服を整えてやりながら、こめかみにくちびるを当てる。
ぱっと上げたカイトの顔に、がくぽはさらにくちびるを降らせた。
やわらかな雨を最愛たる花に降らせながら、堪えきれず、ため息をこぼす。
「今となって、修めておけば良かったと思います――あなたという『妻』を得ることができるのだと、愛するだけでなく、愛してくれる相手ができるのだと、あのころにもし、知れていたなら……」