B.Y.L.M.
ACT2-scene9
とうとう浴室に着いた。そしてほとんど予測していた通りだが案の定で、がくぽがカイトを降ろす気配はない。
つまりこのまま、夫婦で共風呂としようと――
浴室とはいえ、最前、この屋敷に初めて来た日とは、造りが違う。陶板の壁や床といった基本は同じだが、あるのが脚付きの、単身用の浴槽ではない。
壁や床と一体として広く、大きく取られている、大衆浴場に似た浴槽だ。
以前のそれより広さの増した浴槽だが、やはりあの日と変わらず、そこにはなみなみと湯が張られていた。水面を覆い尽くすほどの果物や花、草の葉といったものも――もしかしたらあの日と多少、内容が違うかもしれないが、どのみちカイトに見知ったものは少ないので、判断はつかない――、瑞々しく新しい香りを心地よく漂わせている。
だから、本来であれば支度を調える役を負う使用人が、この屋敷には誰ひとりとしていないのだ。そしてそれが行える唯一であるはずのがくぽといえば、カイトにつききりであり、そんな暇はなかった。
ならばいったい誰が、この支度を調えたのか――
今の相手なら、これはどういった手妻かと訊けば、答えてくれる気がする。それも、言葉を尽くして。
しかし思いついたカイトが、問う間はなかった。より正確には、問うまでもなかったと言おうか。
育ったのは見た目、骨格や筋力といったものだけではない。動きも応じて器用になった夫は、浴室の半ばまで来るとカイトの腰から手を離し、一度、床に軽く、足をつけさせた。
脇に手を入れて支えられてはいるから、カイトが無様に床に転がることはない。なにより、ほんの束の間、ひと瞬きほどのことでしかなかった。
「え…っ」
カイトが床の、陶板独特の冷たさを足裏に感じたと思った次の瞬間には、もうまた、がくぽの腕の上に抱えられている。
ただし、蓑虫よろしく全身に巻きつけていたはずの寝具は、きれいに床に落とされ、カイトは素裸に戻されていた。
「な…っ?!」
素肌に男の肌の、筋肉の躍動を感じる。
軽々とした素振りでも、成人した男の体を抱えているのだ。そうと見えなくとも筋肉は張り詰め、漲っている。それを直に、ひどく生々しく感じる。
「………っ!!」
もはや止めようもなく羞恥が募り、カイトは体を丸めた。この体から離れることができればいいのだが、膂力の差というものがあり、だからくり返すが、足腰が立たないのだ――
いったいどうしてこんな、うぶな娘のような反応をしてしまうのか。
自分でも情けなくなるカイトへ容赦なく追い打ちをかける所業で、がくぽは微妙に呆れを含んだ口調でつぶやいた。
「だからそういちいち、色めかないでくださいと申し上げているでしょうに………これでも私は贖罪も兼ね、夫としての誠意の見せ場として真摯にあなたに打ち明け、それからでなければ触れる気はないというのに――決意など脆く崩れて、微塵と風に流されるでしょうが。それとも、先に触れてもいいということですか、これは?」
「耐えろ」
もはやまともにがくぽの顔を見返すこともできないまま、カイトは呻くように、しかしきっぱりと言い渡した。
「私の騎士なら」
「なるほど」
頷いた青年は自分の腕の上で、可能な限り丸く、小さな体勢を取ろうと悪戦苦闘するカイトの頭にこつりと、顎をぶつけた。
「では、夫であれば?」
「っ!」
反駁の言葉を失ったカイトだが、がくぽがそれ以上、絡んでくることはなかった。
言葉を継げないカイトにただ、うれしそうに笑い、顔を上げる。恨みがましく斜めに見られることにも構わず、上機嫌なくちびるが開いた。
「♪」
――紡がれるのは、うたうにも似た韻律の言葉だ。淀みなく、迷いもなく、朗とした声で、韻律は紡がれる。
効果は、すぐに顕れた。
浴槽に溜められていた湯が、浮かぶ花実ごと、さあっと音を立てて巻き上がり、カイトとがくぽの身を取り囲んだのだ。
「なにっ……」
「♪-♪」
ぎょっとして、反射的にしがみついたカイトを抱く腕にますます力を入れつつ、しかしがくぽの声が止むことはない。
巻き上がった湯は、韻律に合わせて踊るようだった。
さあさあと音を立てながらカイトとがくぽの身を渦の中心に入れ、巻きこみ巻き取るように肌を撫でていく。
「……っ!!」
無様だろうとなんだろうと、カイトはきゅっと目を閉じ、がくぽにきつくしがみついて、この唐突で、わけのわからない水責めの時間に耐えた。
こんなことはこれまで経験したことがなかったし、することがあると、予想したこともなかった。
不可思議の力を用いると謳う呪い師の存在は知っていても、あれらはもっと、偶然をうまく捉えて自分の手柄に取りこんだようなものだとカイトは認識していた。
けれど、これは違う。
偶然で風呂の湯が巻き上がることはないし、ましてや明らかな目的を持って体を取り巻くことなど、もっとない。
「♪」
長くも感じられたが、実際はそれほどでもないだろう――がくぽが湯に巻かれながら韻律を紡いでいた時間は、子供たちが遊びにうたうような、わらべうたと同じほどの長さだったと思うからだ。
そもそも息をも詰めていたカイトが、窒息するまでの時間ではなかった。
しかしわけがわからないものは、恐怖とともに時間の感覚を延滞させる。
湯が湯としての常態に戻り、さあっと床に落ちて流れたときには、カイトはほとほと疲れきっていた。そうでなくとも体力を消耗し、招かれざる来客に精神力を削られたばかりだというのに。
対する元凶、がくぽといえば、つまり、元気いっぱいだった。
「さてこれで、あらかた落ちたでしょう――湯を汚す心配もなくなりました。こころ置きなく湯舟に浸かって、のんびりとしていただけますよ、カイト様」
――ああこれは、むしろ善意だ。思いやりだ。なんという気の利く、気の回る夫か。
がくぽの行動を悟ったカイトは、さらに疲れた。
まずは風呂を浴びようと、ここまで来た理由だ。寝室で明け暮れた、夫婦としての諸々で汚れた――体液まみれの身を、清めようとしていたのだった。
とはいえ事後、さまざまな予定外、意想外が差し挟まれた結果、体液はほとんど乾いてこびりつき、なかなか落とし難い様相を呈した。
馴らしのための湯を体に掛けた程度では、もはや素直に流れて落ちることはないだろう。一度なにかで、ふやかすかして、こそげ落とし――
だからといって、その目的でまず湯に入れば、こびりついたものがふやけて湯に浮かび、確かに落ち着かない。なにより湯の交換も容易くはないのだから、交換しなければいけないような振る舞いは差し控えるべきだ。
しかし、だ。
カイトは疲れて、開くのも億劫な気がする目を、ちらりと浴槽に投げた。
そこから、すべての湯が巻き上がり立って、カイトとがくぽを取り巻いたと見えた。そして渦をもって全身に巻き絡まり、汚れをこそげていった湯は、すべて床に落ち、流れた。
が、浴槽にはすでに、なみなみとした湯が張られている。花実もそうだ。目線を投げれば、床に落ちたそれらの無残な姿が見えるというのに、浴槽にもすでに、水面が見えないほどに浮かべられている。
用意するような女中も、下男の姿も、見かけなかった。そしてがくぽはカイトを抱えたまま、一歩も動いていない――うたは、うたっていたが。
正確にはうたに聞こえる韻律の言葉だが、しかし今の状況でこの正確さを期することにいったい、意味があるものか。
「南方人は、わからない………」
ひどく疲れきった風情で、カイトはこぼした。
そのつぶやきを聞き取ったがくぽといえば、一瞬、花色の瞳を見開き――
呵々と大笑した。
「笑いごとか」
微妙な疲れを含んだカイトの腐しに、全身を震わせて笑っていた青年は軽く、首を振った。横だ。多くの場合、否定の意味だが、今の場合、カイトへの同意を示す。
それでも発作のように起こった笑いは、どうにも治まり難いらしい。
目尻に涙を浮かばせまでしたがくぽは、堪える笑いに震えながらカイトを見た。
「気がついていましたか」
「………」
ある意味で、ひとをばかにしたものの言いだ。
壮絶に目を眇めて見返しただけのカイトに、がくぽは視線を逸らし、床に落とした。ため息のように、吐きだす。
「……まあ、そうですね。いかにも稚気じみた、拙いやり方です。むしろこれまで黙っていてくださったことが、あなたの優しさと、並外れた根気とを物語って」
「追従はいい」
反省しているかのような態度とともにこぼされた言葉を、カイトは容赦なく切って捨てた。
先の、発作のような笑いではなく、なだめるような、曖昧な笑みを浮かべたがくぽが、そんなカイトへ視線を戻す。
「反論もないとは、このことですね。まずはすべてをつまびらかに説き明かすが、誠意の見せ所というものでしょう――如何にあなたが鷹揚とはいえ、誠意も尽くさず機嫌だけを取り結ぼうというのは、あまりに卑怯なわざだ。ましてや今の私なら、言葉に詰まる『年頃』でもなし」
言って、がくぽの笑みは先までの色を取り戻した。力強く、大人としての包容力に溢れた。
どこか悪戯気も含むそれでカイトを覗きこみ、がくぽは顎をしゃくって浴槽を示した。
「とはいえなにより先に、まずは支度を済ませましょう。このままでは年頃如何に因らず、あなたの色に迷って、私の言葉が詰まる。それに、どのみちあなたにも私にも、少々の休息と補給とが必要です。疲れた頭でやる夫婦喧嘩ほど、ろくでもないものはない――同意いただけますよね?」
角と翼持つ異形であっても、うつくしいものはうつくしい。否、異形であるからこそ、ここまでの美貌もある意味、納得できるのかもしれない。
だとしてもやはり、胡散臭いものは胡散臭いのだ。
カイトは微妙な発見に眉をひそめた。あまりの朗らかしさに、かえって胡散臭さを芬々に漂わせる笑みを浮かべる夫から、ふいと顔を逸らす。
「『夫婦喧嘩』の最中であるというなら、――共風呂はどうかと思うが」
皮肉、ないしは嫌味としてつぶやいたカイトに、成長し、口が回るようになった夫は――顔を逸らされていて、妻には見えないとわかっていても――、無邪気な態で首を傾げてみせた。
「溺れるのが趣味ですか?」
つまり、――カイトの今の状態だ。足腰が立たない。
浴槽に落とされたが最後、自力で上がることはできない、ひいてはのぼせた挙句に溺れるのが関の山ではないかと、言われているのだ。
深く考えるのを止めていたカイトだが、未だがくぽの腕の上、女性のように抱えられたままだ。おそらくこれで手を離されれば、堪えも利かず、床にへたりこむだろう。
だとしても以前のような、移動も可能な置き型の脚付き浴槽という、不安定さが否めない型の浴槽でもなし、腕の力はあるのだ。
この型の浴槽であれば、のぼせると思えば腕の力のみでもって体をずり上がらせ、縁に腰かけて熱を逃がせばいいだけの話だ。そしてその程度であれば、今のカイトでも十分に可能だった。
――そう、反論すればいいだけのことだった。
そしておそらく、がくぽの想定もそうだっただろう。
しかして全身の肌を爆発的に朱へと染めたカイトが、呻くように返した答えはまるで違った。
「溺れるまではない」
「へえ?」
まるで信じていない素振りで返す元凶へ、カイトは苛立ちを表すよう、首にかけた腕に力をこめた。
極まる羞恥に涙まで浮かべた瞳を尖らせると、誠意の薄い相手をきっとして、睨みつける。
「どうせその前に、おまえが来る。私がのぼせて反駁の言葉も失ったころに、ただし溺れる前には」
「は………」
憤然と、吐きだすカイトを――
しかも涙目ではあっても非常に堂々と、確信に満ち満ちて疑いもない様子で吐きだされる信頼の言葉を、がくぽは花色の瞳をきょとんと見張り、聞いていた。
あれほどに、山と積んでもまだ足らないほど、秘密と隠しごとを重ねた相手だというのに――
寸暇の後。
先以上の大笑、もはや爆発的なともいうべきところに達したそれが浴室に轟き、決して狭くはない屋敷を揺るがせた。